与太郎文庫
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1979年02月16日(金)  柳田文庫 〜 木綿以前の事 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19790216
 
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》 (2)
 
 目次
 
 自序 ………………………………  3
 木綿以前の事 ……………………  11
 何を着ていたか …………………  20
 昔風と当世風 ……………………  33
 働く人の着物 ……………………  51
 国民服の問題 ……………………  58
 団子と昔話 ………………………  65
 餅と臼と擂鉢 ……………………  77
 家の光 …………………………… 107
 囲炉俚談 ………………………… 111
 火吹竹のことなど ……………… 123
 女と煙草 ………………………… 131
 酒の飲みようの変遷 …………… 136
 凡人文芸 ………………………… 148
 古宇利島の物語 ………………… 156
 遊行女婦のこと ………………… 161
 寡婦と農業 ……………………… 177
 山伏と島流し …………………… 202
 生活の俳譜 ……………………… 218
 女性史学 ………………………… 250
 解説(益田 勝実) ……………… 297
 
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── 柳田 国男《柳田 國男全集32 19910226 ちくま文庫》P330
── 柳田 国男《年中行事覚書 19770310-19860829 講談社学術文庫》
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》
 
(柳田国男《居酒》考に傾聴せよ)。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20070404
 蛇足 〜 いわずもがな 〜
 
 柳田 国男 民俗学 18750731 兵庫 19620808 87 /貴族院書記官〜《遠野物語》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19450115
 異母姉弟 〜 寒い日に生まれた女の子 〜
 
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 酒の飲みようの変遷
 
(略)
 
 足利後期の京都人の日記など見ると、別に「ゐなか」という酒が地方
から、ぽつぽつと献上せられ且つ賞玩せられている。田舎と謂っても勿
論富家の家であろうが、こうして自慢の手造りを、京まで持参しょぅと
するのだから、もうこの頃には貯蔵の風(ふう)が弘く行き渡り、或る
家には飲まずに辛抱している酒というものが有ったのである。しかしそ
ういう酒の自由になる人は、おそらくは有力者だけに限られていたこと
であろう。事実また尋常の日本人は、秋の穀物の特に豊かなる季節に、
祭礼とか秋忘れの寄合いを目あてに、大いに飲むつもりでめいめいの酒
を造ったので、貯えて置けるようならよいのだが、大抵は集まって皆飲
んでしまったらしい。
   秋になるより里の酒桶(さかおけ)
という『境野集(あらのしゆう)』の附句(つけく)もある。或いはま
た、
   ふつふつなるを覗く甘酒
という『続猿蓑(ぞくさるみの)』の句などもあって、まだこの頃まで
は甘酒の醸辞して酒になる日を、楽しみにして待っている人も多かった。
それが一年にまたは一生涯に、数えるほどしかない好い日であったこと
は言うまでもない。だからいよいよその日が来たとなると、いずれもは
めをはずして酔い倒れてしまったのである。
 
 三
 
 それからまた一つの制限は、昔は酒は必ず集まって飲むものときまっ
ていた。手酌で一人ちびりちびりなどということは、あの時代の者には
考えられぬことであったのみならず、今でも久しぶりの人の顔を見ると
酒を思い、または初対面のお近づきというと飲ませずにはおられぬのは、
ともに無意識なる昔風の継続であった。こういう共同の飲食がすなわち
酒盛りで、モルはモラフという語の自動形、一つの器の物を他人ととも
にすることであったかと思われる。亭主役のちゃんとある場合は勿論、
各人出し合いの飲立て講であっても、思う存分に飲んで酔わないと、こ
の酒盛りの目的を達したことにはならなかった。すなわちよその民族に
おいて地を啜って兄弟の誼を結ぶというなどと同じ系統の、至って重要
な社交の方式であり、したがってまたいろいろのむつかしい作法を必要
としていたのである。
 婚礼とか旅立ち旅帰りの祝宴とかに、今でもまだ厳重にその古い作法
を守っている土地はいくらもある。我々の毎日の飲み方と最もちがう点
は、簡単にいうならば酒盃のうんと大きかったことである。その大盃が
三つ組五つ組になっていたのは・つまりはその一々の同じ盃(さかずき)
で、一座の人が順々に飲みまわすためで、三つ親の一巡が三献(さん
こん)、それを三回くり返すのが三三九度で、もとは決して夫婦の盃に
は限っていなかった。大きな一座になると盃のまわってくるのを待って
いるのが容易なことではない。最初は順流れまたは御通しとも称して、
正座から左右へ互いちがいに下って行き、後には登り盃とも上げ酌など
とも謂って、末座の人を始めにして、上へ向かってまわるようにして変
化を求めたが、いずれにしてもその大盃のくるまでの間、上戸は咽を鳴
らし唾を呑んで、待遠しがっていたことは同じである。この一定数の巡
盃が終ると、是でまず本式の酒盛りは完成したのであるが、弱い人なら
それで参ってしまうとともに、こんなことでは足りない人も中には居る。
それらの酒豪連をも十分に酔わせるために、後にはいろいろの習慣が始
まった。お肴(さかな)と称して歌をうたい舞を舞わせ、または意外な
引出物を贈ることを言明して、その昂奮によってもう一杯飲み乾させる
などということもあった。亭主方は勿論強いるのをもって款待の表示と
しておって、勧め方が下手だと客が不満を抱く。だから接伴役にはでき
るだけ大酒飲みが選抜せられ、彼らの技能が高く評価せられる。酒が強
くて話の面白い男が客の前へ出て、「おあえ」と称してそこにも変にも、
小規模な飲み食いが始まる。或いは客どうしで「せり盃(さかずき)」
などと称して、あなたが飲むなら私も飲むという申し合わせの競技をし
たり、または「かみなり盃」と謂ってどこに落ちるかわからぬという盃
を持ちまわって、その実予(かね)て知っている飲み手に持って行った
り、また或いは「思いざし」などと謂って、やや遠慮をしている人に飲
ませようとしたりした。酒宴の席の賑かなのを脇で聴いていると、大抵
はこんなつまらぬ押問答ばかりであった。しかしそうして見たところで
なお迷惑する人が、飲みたい方にもまた飲みたくない方の人にもできる
ので、これを今一段と自由にするために、いつの頃よりか「めいめい盃」
というものが発明せられた。是は一つずつ離したやや小さな塗盃(ぬり
さかずき)で、始めから客人の御膳(おぜん)ごとに附いている。これ
を用いるようになってから、組の大盃のまわってくるのを待たずに、向
こうもこちらも一度に飲むことがやっとできたのである。今日の小さな
白い瀬戸物のチョクなるものは、つまりこの「めいめい盃」のさらに進
化したもので、勿論二百年前の酒飲みたちの、夢にも想像しなかった便
利な器だが、一方そのために酒の飲み方が、非常に昔とちがった、だら
しのないものになった。酒を飲む者の目的または動機が、おそらくこの
陶器の酒盃の出現を境として、一変してしまったろうと思われる。徳利
(とつくり)は或いは独立して、酒を温める用途にもう少し早くから行
われていたかも知れぬが、少なくとも盃洗(はいせん)などというもの
はその前には有り得なかった。是で盃を濯(すす)ぐことをアラタメル
と謂ったのも、もとは別の盃にするという意味で、『金色夜叉』の赤樫
満枝という婦人などが、「改めてござい豊んよ」と謂って、盃を貫一に
さしたのを見ても判るように、本来は同じ盃の中のものを、分ち飲む方
が原則だったから改めなかった。それを今日は見事に飲み乾すのをアラ
タメルのだと思う者さえある。是ほどにもまず以前の仕来りを忘れてし
まっているのである。
 
 四
 
 支部の文人などには、独酌の趣を詠じた作品が古くからあったようだ
が、此方では今でも普通の人は酒に相手をほしがる。一人で飲むにも酌
をする者を前に坐らせ、また時々はそれにも一杯飲ませようとする。そ
うして手酌でこそこそと飲んでいる者を、気の毒とも悪い癖とも思う人
は多いのである。この原因は今ならは差尋ねてみることができる。現在
は紳士でも屋台店の暖簾をかぶったことを、吹聴する者が少しずつでき
たが、つい近頃までは一杯酒をぐいと引掛けるなどは、人柄を重んずる
者には到底できぬことであった。酒屋でも「居酒(いざけ)致し候」と
いう店はきまっていて、そこへ立寄る者は、何年にも酒盛りの席などに
は列なることのできぬ人たち、たとえは掛り人とか奉公人とかいう晴れ
ては飲めない者が、買っては帰らずにそこにいて飲んでしまうこれから
居酒であった。是をデハイともテッバツともまたカクウチとも謂って、
すべて照れ隠しの隠語のようなおかしい名で呼んでいる。しかもこうい
うのも酒を売る家が数多くなってから後のことで、以前はそんな撥会も
得られなかったのである。
 ところがこの一杯酒のことを、今でも徳島県その他ではオゲソゾウと
いう方言が残っていて、是によってはぽこの慣習の由来がわかる。ゲソ
ゾウは漢字で書くと「見参」、すなわち「見えまいらす」であって、始
めての、または改まった人に対面することを意味する。関東では婿が始
めて嫁の家を訪い、または双方の身内が親類として近づきになる酒宴だ
けをゲソゾまたは一ゲンというが、一ゲンはすなわち第一回の見参とい
うことで、婚礼の日に限るべき理由はない。現に関西では盆正月の薮人
がゲソゾ、古い奉公人の旧主訪問がまたゲソゾである。是に敬語を冠せ
てオゲソゾウというのも、目上の人への対面のことでしかない。『狂言
記』の中にも、「頭目はゲンゾでござらう」というのが奉公人の地位の
きまることを意味している。すなわち今日の御目見え以上に、いよいよ
主従の契約をする式が見参であった。こういう場合には酒が与えられる。
それも主人と酌みかわすのではなくて、一方が酌をしてやってその家来
だけに一杯飲ませるので、狂言では普通は扇を使い、何だか烏帽子櫃
(えぼしびつ)の蓋のようなものを、顔に当てるのが飲む所作となって
いる。すなわちあの時代にも一人で飲むのは下人で、主人との献酬はな
かったのである。それが後々は飲ませるかわりに酒手の銭をやることに
もなったが、やはり古風な家では出入の者などに、一杯飲んで行くがい
いと謂って、台所の端に腰を掛けて、親爺がお辞儀をしいしい一人で飲
んでいる光景が今昔も時折は見られる。大きな農家に手造りの酒があっ
た時代には、是が男たちを働かせる主婦の有力な武器になっていた。東
北ではヒヤケとも謂う小さな片手桶が、このためにできていた。是で酒
瓶(さかがめ)から直接に濁酒なり稗酒なりを掬んで、寒かったろうに
一ぱい引掛けて行くがよいと、特別に骨を折った者をいたわっていたの
である。勿論対等の客人にはこのような失礼なことはできない。すなわ
ち相手なしに独りで一杯を傾けるということは、ただ主人持ちばかりの、
特権といえばまあ特権であった。
 今日のいわゆる晩酌の起原も、是と同じであったことは疑いがない。
この酒を岐阜県などではオチフレ、また九州の東半分でヤツガイともエ
イキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸
県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに疲労を癒すと
いうことで、すなわち労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。
東京ではまた是をオシキセとも謂っているが、シキセほ元来奉公人に給
する衣服のことである。堂々たる一家の旦部が、その御仕着せに有付く
というのはおかしい話だが、起こりはまったく是もまた主婦のなさけで、
働いたその日の恩賞という一種の戯語としか考えられない。主婦の方で
もそう毎度相手と飲む酒盛りが家にあっても困るので、名義の穏当不穏
当などは問わず、一人で飲んでくれることを喜んだのであろう。こうい
う有難くもない名を附けられて苦笑しながらも、なお晩飯には一本つけ
て貰って、頭を叩いて飲んでいたというのも、結局は酒があまりにうま
く、かつて人々と集まって飲んだ味が忘れられなくて、何の祝賀でも記
念でもなく、また嬉しくも悲しくもない日にも、飲みたくなるような習
癖を生じたからで、一つにはまた買おうと思えば夜中にも、すぐに入用
の量が得られるような、便利な世の中になったためでもある。神代の昔
から、酒と名のつくものが日本に有ったからと言って、昔の人たちもこ
の通りに、女房の承認のもとにちょっとばかりの酒を、毎晩飲んでいた
と思うと大まちがいである。
 
 五
 
 証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもず
っとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも
主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経
験したいためで、神々にもこれをささげ、その氏子も一同でこれを飲ん
だのは、つまりはこの陶然たる心境を共同にしたい望みからであった。
今でも新しい人たちの交際に、飲んで一度は酔い狂ったうえでないと、
心を許して談り合うことができぬような感じが、まだ相応に強く残って
いるのもその痕跡で、つまり我々はこの古風な感覚の片割れをもったま
まで、今日の新文化へ入ってきているのである。酒の濫用ということが
もし有りとすれば、現在の過渡期が特にその弊害の起こりやすい時だと
言い得る。すなわち我々は一方には古い名と約束に囚われつつ、他方に
は新しい交通経済の実情に押しまわされて、その中間の最も自分に都合
のまい部分を流れているのである。両者新旧の関係は改めて静かに反省
してみなければならぬと思う。
 今度の大事変が起こってから、不思議に日本人の研究心と、発明力と
は大飛躍をした。是までかつて考えなかった有形無形の問題が注意せら
れ、着々と新たな方策が立てられたことは、時過ぎて回顧すればいよい
よ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。今
まで同胞がうっかりと看過していたことを、問題にして見るのには今ほ
どの好時期はない。独り歴史の学問だけが、いつまでも古い知識と元の
方法とに、止まっていてよろしいという理由は有り得ない。我々は酒を
飲む習慣の利弊に関しても、是非とも今と昔との事情の変化を知って、
現在の状態が果して国の福祉と合致するか否かを、明らかに認識し得る
ようにしなければならぬ。それを各人が自由に判断するだけの歴史知識
が、現在はまだ具わっておらぬとすれば、少なくとも求めたら得られる
程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に掃
蕩せられつつ、何らの自信も無く、可否を明弁することすらもできない
のは、権能ある指導者の恥辱だと思う。
── 柳田 国男《木綿以前の事 19790216 岩波文庫》P139-147
 
(20081121)
 


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