与太郎文庫
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1978年10月04日(水)  どっちが旨いか? 大手饅頭と吉備団子

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19781004
 
── 虚々実々!?幽冥無実?「夢十夜」と「冥土」の二大巨匠が語る
浮世あれこれ。人は本当に冥界で再会するのだらうか? 不思議な師弟
四代、なぞなぞのやうな家系図など、旧仮名遣ひで綴る著作権不在の特
別企画! 連載シリーズ第一回 ──
── 《幽冥対談:夏目 漱石 vs 内田 百�� 19781004 月刊山陽》P04-05
 
 □ 冥土の土産
 
 内田 すっかり御無沙汰致して居ります。先生も御達者な御様子で、
何よりで御座居ます。
 夏目 うむ。浮世と異って冥土で達者と云ふのも奇矯だが、他に気の
利いた挨拶が無いのは御互様だ。君も相変らずで何よりだ。
 内田 あたくしが、先生の御臨終に侍りましてから既に六十二年過ぎ
まして、何しろ当時あたくし二十七才、先生は四十九才で御座居ました。
 夏目 リューマチだと言はれて、温泉療養していたら今度は糖尿だと
言ふ。結局は持病の胃潰瘍だったらしい。
 内田 かうして一遍死んで仕舞ひますと、もう安心ですな。次に死ぬ
のは、何時の事やら見当も付きません。それにしちゃぁ、相変らず腹は
空くビールも旨い。呑まず食はずと云ふ訳にも参りません。先生の胃の
御具合は其の後如何です。
 夏目 時折、森鴎外に診て貰って居るが専らタカヂャスターゼを呉れ
る許りで、彼の医術なんぞは所詮、明治時代に修めて以来、些かも進歩
しとらんのぢゃないか。
 内田 そりゃ無理もありません。死なない人ばかり相手にしてるから
医学も向上しない。
 夏目 君は幾つで、此方へ来たのかね。
 内田 八十二才でした。先生は四十九才の儘だから相変らずお若い。
あたくしはすっかり年老っちまった。
 夏目 君は余程頑丈に生れついたと見える。然し永生きして宣かった。
 内田 先生のような苦労は無くって、その代り他の苦労は随分致しま
した。
 
 □ 空たり閑たり 浮世の義理
 
 夏目 貧乏のことかね。聞くところに寄ると、森田草平君には大分無
理を言ったらしいな。
 内田 おや、冥土でも告げ口する輩が居るとは驚いた。怪しからん奴
だ。
 夏目 怪しからんのは君の方だ。何でもはるばる馬車で乗り付けて、
金を貸す迄帰らんと言ったさうぢゃないか。
 内田 ああいふエネルギッシュな先輩を持つと無性に頼りたくなりま
してね。戦後、太平洋戦争の後です、あたくし《贋作・吾輩は猫である》
を書かせて頂き、少し許り印税が入りましたから森田さんの借金も返さ
うと、心算して居りましたのに、その前年に亡くなられた。此方へ来た
から今度こそ返さうと言ったら受取れないって言ふんです。それもさう
だ、天国って処は、通貨といふ観念が無い、それぢゃぁ払いたくても金
が無い、すると浮世と同なじだ。此の次死んだら、通貨の有る超天国に
行くかも知れない。そしたら無理矢理払って仕舞ふ積りです。
 夏目 僕の作品の《贋作》とは、巧く考へたものだ。一説に寄ると
《真作》より秀れて居るらしいが。
 内田 そりゃぁ飛んでもない説です。あたくしはバカバカしい事許り
書いて専ら借金を減そうと思った丈です。
 
 □ 日没閉門 彼岸過迄
 
 夏目 俳句は其後やって居ったかね。
 内田 九州へ行った折に、お城の看板が目に付きましてね「日没閉門
熊本城」と云ふんです。上の句を付ければそのまま俳句になります。其
の話なんかをまとめて《日没閉門》と題して、本が一冊出来ちまいまし
た。
 夏目 ……根岸の里の侘住、と同じ手だな。……それにつけても金の
欲しさよ、も君の作ぢゃ無かったか。
 内田 そりゃ非道い。あたくしは短歌も狂歌も致しません。金が欲し
かったのは当ってますが。
 夏目 漱石山房には、貧しい書生も多かったな。
 内田 あたくしはもう、その点で一番弟子で御座居ましたな。その道
の達人と言はれても可笑しくない。
 夏目 それが、芸術院会員になるのを断ったのは何故かね。
 内田 あの折は、どうせ勲章なんぞを呉れるんだと許り思ってた。後
で聞くと年金が出るんですってね。そんなら貰っても宣かった。
 夏目 イヤなものはイヤだ、と駄々をこねたらしいな。早合点は不可
い。
 内田 先生ならお貰いになりますか。
 夏目 僕の時代には芸術院は未だ無くてね。その前進は文展とか帝国
美術院と言って文学者は対象にならなかった。然し、年金を呉れるなら
貰っただろうね。僕も若い頃は貧乏したからね。
 内田 松山くんだりの中学にお勤めになったのは俸給が宣かったから
ですか。
 夏目 校長より高給だった。新聞記者を志願したが雇って呉れ無かっ
た。松山は気が進まなかったのだが、温泉とか下宿代が安くて、金を溜
めて洋行したかったからね。所が欧州留学では本当に貧乏した。
 内田 随分と本を買はれた所為でせう。
 夏目 可成、衣食を節倹したものだ。
 内田 留学の前に結婚されて居りましたな。
 夏目 松山の中学の冬休みに、東京で見合ひをした。鏡子と世帯を張
ったのは熊本なんだ。
 内田 ははぁ日没閉門ですな。松山にマドンナは実在しなかったので。
 夏目 そんな女は居なかった。現実の女性は何れも、現実に対して超
然たる存在だ。
 内田 マドンナのモデルは鏡子夫人だったんですか。
 夏目 鏡子の脳天の真中には、大きな禿があった。多分見合ひの頃か
ら禿げて居たと思はれる。二年目に露見しても、本人は超然たるものだ。
 内田 夫婦は二世と申しますから、こちらでは随分と仲直りされまし
たでせう。
 夏目 正に、則天去私の心境であるな。但し、時折胃は痛むし、鏡子
のヒステリーも変らない。新時代の優秀なる医師は居らんかね。
 
 □ フロフェッサーとエブリマン氏
 
 内田 当世は、医者の天国とか申しまして、文士を兼ねやう等と云ふ
殊勝な秀才は少くなりましてね。あたくしの知合ひに、九州大学の教授
をして居た男で、高橋義孝と云ふフロフェッサーが居ります。
 夏目 何だ其のフロフェッサーと云ふのは。内科の教授かね。
 内田 いえ、独文科ですがね、あたくしが電話を掛けますと、何時も
何故か風呂に入ってましてな。風呂に入った教授だからフロフェッサー。
この男なら顔が広い。
 夏目 君の弟子かね。
 内田 大学の後輩です。あたくしが、先生の山房に出入りさせて頂い
た様にあたくしの百鬼園に出入りして居りました。以前は横綱審議会の
会長なんか勤めて居りましたが、最近は止めまして専ら老化と格闘して
る様です。其の内こっちへ来るでせう。
 夏目 若い内科の医者も誘って来れば宣い。
 内田 あたくしが先生の、不肖の弟子と云はせて頂くなら、彼は孫弟
子に当るでせう。其の又弟子に何て云ひましたかね。女みたいな名前の、
そうそう山口瞳っていうのが居るらしい。
 夏目 僕にとっては曾孫弟子だ。何者かね。
 内田 何でも、ヰスキーの会社に勤めて居る様で、吉野秀雄と云ふ歌
人にも私淑して、直木賞を貰って、テレヴィジョンの宣伝に出たりして
居ます。
 夏目 文士が宣伝を為てるのか。
 内田 はい。あたくしも能く判らないんですが、当世の文士はさうい
ふ事も喜んで致すさうですな。
 
 □ 何方が世界一?
 
 夏目 菊池寛あたりが、さういふ事を始めたんだらうか。
 内田 そんな筈は有りません。もっと最近になってテレヴィジョンが
普及し始めて以来の現象ですな。結構な稼ぎになるらしいが、丸で芸人
だ。
 夏目 僕の記憶では、岩波文庫が創刊する際に、三木清が宣伝文を代
りに書いた例がある。(*1916没後1927創刊)
 内田 それで思ひ出しましたが、先生の事を書いた、あたくしの文章
を先日広告に使った者が居ります。
(広栄堂本店 19780728 山陽新聞朝刊全面)
 夏目 僕の書いた文章は、方々で利用された、中には随分勝手なのが
横行してるがね。
 内田 あたくしのは実名が殆んどですから、其儘宣伝になっちまった。
岡山の吉備団子屋です。先生にお贈り申し上げた話が、すっかり使われ
ました。
 夏目 あの吉備団子は、吾輩の猫に宛てて送って呉れたんぢゃ無かっ
たか。
 内田 能く覚えて居て下さった。其の件りは抜けてゐて、先生の御返
事に、団子は丸いとばかり思ってゐたが、吉備団子は四角いのだね、と
云ふところなんです。
 夏目 あれは、猫に遣らずに、僕が食って仕舞った。
 内田 先生も、ちゃんと猫にさう言はせてらっしゃる。
 夏目 然し、君は他の文章で、世界中で一番旨いのは、何と言ったっ
け、他の団子ぢゃなかったかな。
 内田 さうなんです。大手饅頭の事を賞めてある。此方も旧い岡山名
物でして、双方は謂はばライヴァル同士なんです。
 夏目 そんなら、僕に、いや猫に贈って呉れたのは、世界中で何番目
か。
 内田 大手饅頭が一番だと言ったのは、あの頃さう思ったからでして、
当時は甘い食物が手に入らなかった。其の時吉備団子を食って居れば、
此方が一番になったに違ひない。
 夏目 大手饅頭も、僕は食ってる筈だ。君は贈って呉れなかったが。
 内田 今直ぐに思ひ出せませんが、何かの折にお持ちし様にも思ひま
す。左様で無ければ、先生が岡山に来られた折に召し上がって居られる
筈だ。
 
 □ 岡山で乞食生活
 
 夏目 岡山へは、明治二十五年の七月に行ってゐる。東京大学の暑中
休暇に片岡家に滞在した事が有る。
 内田 あたくしは市内の志保屋と云ふ酒屋に生れて、其の頃は未だ三
才だ。片岡さん家は、先生の兄上が継がれたんですね。
 夏目 次兄の栄之助だな。曽祖父の出の臼井家を継いで、臼井直則と
名乗ったが、肝心の臼井家は当時実在しなかったんだ。だから名乗った
丈で夏目家に居候していた。東京電話局に勤めて居ったのが、岡山電話
局に転勤になり岡山で嫁を貰った。此が片岡家の長女で、今度は夫婦で
片岡家に居候した。其後、東京で家を持ったが、二十八才で夭折して仕
舞った。臼井家は再び、後継ぎを失った。そこで片岡の長男、つまり嫁
の弟を養子に据へ、嫁は其の養母になったが、後に彼女が再婚する事に
なる。僕は其の再婚式に、夏目家を代表して出席した訳だ。
 内田 丸でなぞなぞですな。
 夏目 義弟は、僕と同い年で、臼井姓を名乗って、生れた家に居候を
続ける。其処へ、東京か僕が、気が置けない家だから悠々と居候する。
其頃丁度、正岡子規が東京大学を退め度い、と言って松山に戻って居た
ので、気晴しに岡山へ来ないか、一緒に居候しては如何か、と手紙を出
した。
 内田 おやおや、居候の居候が、居候を招待した訳だ。
 夏目 子規は、都合が付かなくて結局来なかった。
 内田 ヤレヤレ。
 夏目 その代わり、台風が来た。岡山の大洪水で、旭川が氾濫した。
片岡の家は旭川の川っぺりだから、水浸しだ。当分は乞食同然の生活が
続いて、漸く石関の堤防をせき止めるや否や、次には僕の肛門の土手が
破れて黄水氾濫と相成った。
 内田 恐れ入ります。其の次第を子規先生に手紙で認められたのは、
あたくしも拝見した事が有ります。差出人を平凸凹と署名されて居りま
すが、先生の出は清和源氏で御座んせう。
 夏目 ナニ、気を遣わんでも宣い。僕は三才の折に天然痘を患ったの
で、鼻の頭は今でも凸凹なんだ。
【次号は柴田 錬三郎 vs 梶山 季之】
 
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【なつめ・そうせき】1867東京に生る。孤独な幼年期と厳格な自己規制
に加えて、英文学に学んだユーモアをもとに《吾輩は猫である》を書き
はじめ、晩年の十数年に森鴎外と並ぶ近代日本文学の創始者となった。
鴎外を自然主義とすれば、漱石は観念主義に身を置いてエゴイズムの探
求に専念した。胃病と神経症に悩みながら強い意志で自らノルマを課し
て執筆、毎週木曜は自宅を開放、<漱石山房>主人として各界後進を育
成した。
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【うちだ・ひゃっけん】1889岡山古京町に生る。本名栄造。百間川に因
み百�里△襪い鷲患官爐塙罎后B莽珊眦�学校では志田素琴に俳句を学び、
東大独文科に進んで漱石に私淑、後に《漱石先生臨終記》を書いた最年
少の門下生となった。処女作《冥土》では漱石が試みた超現実の世界を
継承し、独自の展開を期待されたが12年の沈黙を経た《百鬼園随筆》で
は特異なユーモアを装って再登場、《阿呆列車》に至る洗練された文章
で多くの読者を得た。
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 夏目 漱石 小説     18670209 江戸 東京 19161209 49 /慶応 3.0105
 正岡 子規(常規) 短歌 18671014 愛媛   19020919 36 /慶応 3.0917
 志田 素琴 国文学・俳句 18760727 富山   19460117 71 /第六高等学校教授?
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 内田 百�痢‐�説/随筆  18890529 岡山 東京 19710420 81 /誤=18890929
/別号=百鬼園(ひゃっきぇん)。漱石の妻・鏡子に“借金”と呼ばれた。
籍=内田 栄造〜間阿陀会
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 高橋 義孝  ドイツ文学 19130327 東京   19950721 82 /東京府立高校教授
/九州大学教授/名古屋大学教授/桐朋学園大学教授/横綱審議会委員長
〜《森 鴎外/文学研究の諸問題》
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 山口 瞳      小説 19260119-1103 東京 19950830 69 /1962年下期直木賞
〜《江分利 満氏の優雅な生活/血族/男性自身 196312‥-199508‥ 週刊新潮》
Let'1971《これは手紙です》〒中京区壬生東高田町 京都市立病院 気付
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 大岸 満正 大手饅頭社長 1925‥‥ 岡山   19880625 63 /伊部屋4代目

 
株式会社 大手饅頭伊部屋 700-0831 岡山市京橋町8-2  086-225-3836
取締役社長 大岸 豊和 1837(天保八年)創業/
資本金 1,000万円 従業員数 100人
売上構成 大手まんぢゅう90%、もなみ 9%、つぶぞろい 1%
http://www.optic.or.jp/com/otemanju/otemanju.html
 
株式会社 広栄堂武田   703-8292 岡山市中納言町7-33 086-272-2265
代表取締役 武田 一平 1856(安政三年)創業/
資本金 1,000万円 従業員数 30人
売上構成 各種きびだんご55% その他45%
http://www5b.biglobe.ne.jp/~koueidou/
 
── 《夏目家の過去帳 20021207 与太郎文庫》
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=87518&pg=20021206
 
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作成日: 20050902


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