与太郎文庫
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1969年06月26日(木)  一聴一席だ郷緇董Τ窯200年   六世・清水 六兵衛 師をたずねて

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690626
 
── 初代が この地・五条坂に開窯した明和8年からかぞえて 200
年余りになりますね
清水 初代が お庭焼きをしていた妙法院の宮さまが 当時なかなかの
文化人で そのもとで頼 山陽・円山 応挙・松村 呉春などと交際もあっ
たようですね 自身はあまり絵付けをしていないのですが 応挙や呉春
と合作したものが残っています いわゆる六兵衛風のスタイルが はっ
きりあらわれたのは三代のときですね ちょうど明治の過渡期に 独得
の豪快な作風を示しています
── 慣習となっていた門跡寺院の庇護も当時なくなり 独立した芸術
家としての新しいありかたが要求された時代に ひとり気を吐いていた
といわれますね 六代を継がれた先生にとって やはり戦争中の御苦労
がその試練だったでしょうか
清水 たいへんでしたね いろいろ統制もあったし 火を出してはいけ
ないというので 煙だらけの中でカマを焚いていたのですが 薪がなく
なると工人たちをつれて山へ伐りにも行きました あるとき桧の配給が
あって“ヒの木”だからいいだろうと使ってみたのですが 朝から焚い
ているのに どうしても温度が上がらない 1200〜1300度でないと焼け
ないのですが 夜までかかって百束以上も余分につぎこんでみたのです
が 結局火力が足りないのです ずいぶん迷ったあげくに 一の間・
二の間・三の間とあるカマのうち 一の間を犠牲にする決心をして と
っておきの赤松を全部足して ようやく焼き上げたようなこともありま
した
── やはり 赤松でないとだめですか
清水 梅雨の前に伐って雨に打たれ乾いたりもしたのがいちばんいいの
です
── カマに入れる前には 出来上りの状態をあらかじめどの程度まで
予定されるのですか
清水 永年やっていても 実はだいたいのところでしかできません
カマの中の位置によって炎のまわり具合が異なるし 大きさもいろいろ
ですから 炎の通路を計算して置くのですが やはり予想どおりにいく
ことはむずかしいですね 人からみれば 何だというようなものですが
たとえば灰なども重要です うわぐすりの上に光っているのは 灰なの
です 灰が主体になって鉄を入れる青磁になったり 黄色や飴釉になっ
たり あるいは真黒の天目釉になったりするのです 銅を交ぜるとみど
り色になるわけです 堅木の灰といって 栗とかクヌギの灰がいいので
松などはだめです その灰の中にある不純物をとり除く手間もなかなか
たいへんでしてね 失敗も多いわけです
── 窯変も一種の失敗でしょうか 
清水 油滴の天目などの場合は カマが冷める直前に薬がまだ泡だって
いて ごく表面だけおさまった時に ある種のガスが入って銀色になっ
たりする これが油滴の窯変ですね まあ ふつうの失敗では新しい釉
薬を発見するという場合も たまにはあるわけです
── 小さな異変は たえず起こり得るのでしょうね そして材料・素
材の組合せで できあがりの種類は無限にあるわけですね
清水 たとえば土なども いろいろに調合して練りあげるのです セメ
ントのように あらい土にしたり キメの細かいものにするわけです
最初の石ころみたいな状態から 粉末にして 水へ入れて不純物をとり
除く そしてフルイにかけて水槽のようなものに入れて攪拌したあと
泥みたいに沈ませる それをいくどもくり返して 気に入ったものに
精選していく 最後に数ヶ月“寝さす”といって貯蔵する そしてよく
寝さしたものを土もみしてはじめてロクロに載せるわけですね だから
もとの土がいいからといって いい作品になるとは限らないのです
── その工程を ぜんぶ御自分でなさるのですか
清水 もう年ですからね最近は 全部はとてもできませんが 若い人
たちも原料会社から土をとりよせて そんな事はやらなくなりましたね
── お抹茶の粉を作るよりもたいへんなようですね(笑)もともと
京焼では《茶碗》というように 一般の日用品であるところのものは
たとえば《メシ茶碗》という風に面倒な呼び方をしなければならない
つまりは茶道と切っても切れない関係があったわけですね
清水 日用品も決して少なくはなかったのですが だんだん人家が建つ
にしたがって 土が少なくなった というよりも手に入らなくなった
のでしょうね そこで京焼としては量をたくさん作ることができないの
で 一品一品の芸術的な価値を重んずるようになったのではありませんか
── 量産については 二通りの考え方ができると思われます 一方は
すぐれた芸術作品の いわば複製品として もう一方は 最初から量産
のための作品をつくるというふうに
清水 私の場合は 二刀流を使っているわけですね 私のデザインした
ものを さらに美しく一般向きに修正して 工人たちの手でいくつも
つくっていく この方は株式組織で《清六陶苑》の仕事にして 私個人
の作品とは区別しているのです
── そうした区別は 先生の時代になって始められたのですか
清水 そうです それまでは ごっちゃでしたな(笑)
── 仁清・乾山の作品にも 他人の器に餌付けだけしたものとか
いろいろあるらしいですね いわゆる骨董マニアという人たちについて
は どのようにお考えですか
清水 やはり古いものにかたよっているのではないですか もうすこし
現代的な評価を重んじていいし いつまでも仁清・乾山でもないと思い
ますがね わたしは《不易流行》ということを いつもいうのですが
ただただ現代的な流行だけを追うのはいけないけれども その時代にし
か作れないで しかも永遠性のあるという現代性 それが望ましいですね
── ひとりの芸術家について しばしば作風の変化が論じられますが
先生の場合には ご自身で実感されることもおありですか
清水 私が六兵衛を襲名する前は 正太郎といったのですが そのころ
正太郎の作品はバタくさい とよくいわれたものですよ 今でいえば
前衛的とでもいうのでしょうかね
── 当時は バタくさいという表現が流行したそうですがね(笑)
奇抜な試みをいろいろなさったのですか
清水 そうですね たとえば マルと三角と四角を並べて煙草セットを
こしらえたり 花瓶の把手に裸婦をつけてみたり 電気スタンドのよう
なものをひねってみたり それで当時は珍らしかったんですね 今考え
ると あほらしい いやなものも作っていた(笑)
── そうした新しさの追求は 円熟とともに だんだん内側に向って
の もっと激しい燃焼となるのでしょうね
清水 古いものを失うな というのが伝統工芸の立場ですね 私のよう
に 現代工芸の立場をとるものは 古いものを忘れはしないけれども 
その中で足踏みしておらずに 古いものから一歩出て 現代的な創造に
向かうというのが念願です 茶碗ひとつにしても いつもいつも四畳半
向きのものでなく 近代的なイス・テーブルにふさわしい茶碗なども
考えるわけです
── 昭和31年 京都・パリが姉妹都市になった時 記念交歓展に出品
されましたが その作品については 国際的な普遍性といったことにつ
いていくぶん考慮されたのですか あるいは純粋に《かたち》として
訴えられたのでしょうか
清水 そうです かたちとしてね 外国人が茶道のきまりを仮に理解
していても いずれは奇異なものに映っているでしょうね そういえば
27年に ピアニストのコルトー氏が訪れたときに 客間に飾っておいた
茶碗が気に入ったとみえて これをゆずってくれ というのです これ
は茶碗だから 高いですよ(笑)何に使うのですか と尋ねたら 彼
いわく 眺めてみたり花を活けてみたい というのです そういう自由
な鑑賞の方法もあるわけですね   (1969・6・26/六兵衛窯にて)
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── 清水六兵衛(3代)/幕末明治期の京焼の陶工。清水六兵衛家は
寛延年間(1748〜51)に摂津国東五百住村(大阪府)から京都五条坂に
移った初代六兵衛以来の陶家。2代清水六兵衛の次男として京都に生ま
れる/六兵衛家中興の祖ともいわれる。早くから紅花問屋に奉公に出さ
れたが、長男放蕩のため呼び戻されて家督を相続。
    ── 《朝日日本歴史人物事典 19941130 朝日新聞社》P563
── 清水六兵衛/京焼窯元清水家六世当主/東京・日本橋の高島屋で
開かれた名陶展でのあいさつ中に心筋こうそくを起して間もなく死去、
78歳。京都市立絵画専門学校を卒業後、父親から陶芸を学び、昭和2年、
第8回帝展で花びん「母と子」が初入選。20年、六世六兵衛を襲名、
その後、金銀の彩色に幽玄の趣をこめた「玄窯」を生み出し、代表作の
「玄窯叢花瓶」は31年の日展で芸術院賞を受けた。37年日本芸術院会員、
51年には文化功労賞に。[朝日80.4.18朝]
    ── 《現代物故者事典 1968 日外アソシエーツ》P112



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