与太郎文庫
DiaryINDEX|past|will
| 1969年05月19日(月) |
一聴一席�5�響・昨日今日 高山 義三 国際会館長をたずねて |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19690519 ── 国立京都国際会館の初代館長として すでに満3年 それまでの 16年間にわたる京都市長としての御活躍も 市民にとって記憶にあたら しいのですが 高山 ぼくが市長になったころ 青少年の不良化について ひじょうに 心配されていた ぼくの考えでは よほど悪くなってしまったのは す でに手に負えないから警察(当時は市警があった)にまかせよう しかし まだほんとに悪くなっていない青少年には 市が責任をもって指導せね ばいかん また彼らがなぜ悪くなっていくか と考えてみると 戦前の 若い者には 勉強の余暇になにか楽しみがあった 野球しかりブラス・ バンドしかりだった ところが 当時は“死んだはずだよ お富さん” などという流行歌を子供までうたってる始末だった それより以前のことだが 忘れもしない ドイツ映画にこんなシーン があった ……アパートの一室から ピアニストの練習がきこえてくる ドアの外では 掃除のおばさんが できるだけ音をたてないようにして 働いている そこへ若い男が走ってくるので おばさんは唇に人差指を あてて“ベートーヴェン……ベートーヴェン”と小声で制するや 男は ハッとして 足音をころすようにして忍びあしで通りすぎていくわけだ ……ひとことベートーヴェンといっただけで みんなが こうして気を つかうという点に ぼくは感動した この話を しばしば人に語っていたのだが 市長として 市政として 市民に とくに青少年のために クラシック音楽を推進するきっかけに なったようだ そして チェリウス氏の進言もあって 京都市交響楽団 が発足した 音楽をききにくる人たちを待っているばかりではなく そうでない人 たちのところへは こちらから出かけていって たとえば学校や公園で 無料の演奏会をどんどんやることにした やがてPTAを中心に合唱団 が育つようになり 少年合唱団もできた ── そして 京都会館の構想に発展していったわけですね 高山 京都はそれまで一流の名演奏家たちが たいてい素通りしていた なぜなら 会場がなかったからだ 文化都市としては恥かしいことじゃ ないか いつかは彼らが会心の演奏ができるような場をつくりたい と 切実に考えた 京響にしても 円山音楽堂ばかりでは 雨の日は中止になるし 寒い 季節にはできない 本格的な文化の殿堂がどうしても要るわけだ しかし 当時8億という金は京都市にはない そこで 観光税という ものを考えた これを政府に話したところ 賛同を得て ひとまず金を 借り いよいよ会館が建った 観光税については当初 神社仏閣では じぶんに税金がかかるような錯覚を起した人もいて 反対意見もあった が だんだんに説得してわかってもらった 京都へ観光にやって来る人 たちから税金をいただくわけで やがて年間一億の収入になった これ で政府に返してきたわけだ 京都会館の開館式で ぼくはこういった“ここは単なる貸ホールでは ない 京都市民の文化の殿堂である”そして 演奏中の出入りはしない など 細かにいくつかのエチケットを要求した これがちょっと宣伝が すぎたとみえて あそこはうるさいところだと思われていたふしがある ある団体が 他の小さな会場でやっているので なぜ 京都会館を利用 しないかと尋ねたら“いや われわれはまだとても”などと遠慮をして いる そんな資格など無用だ 礼儀をきちんとわきまえてくれる人たち には どんどん貸すんだ とわざわざ説明したこともあった ただし 政党の集会のようなものには貸さないつもりだった 仮に 政党が主催しても 映画とか真に文化的な催しに利用されるならいいと 思う そんなわけで 開館以来10年というもの 落書ひとつなかった それから音響効果については 以前ボストン交響楽団がきたときに 意見をきいて手直しをした 天井にデコボコをつけたのはその時だった と思う さらにもう一度手を加えて いまや 完成されたコンサート・ ホールであると ぼくは考えている ── 13才となった京響は まず例年くり返されてきた存廃問題 こと し そのきっかけになった常任指揮者の政治的発言の云々 さらに嘱託 楽員の待遇改善要求など 三つどもえの論議を生じましたが 生みの親 としてのお考えをきかせてください 高山 京響の赤字については ぼくは創立のころにいったはずだ 市民 へのサービスが本来の使命であり 市民が喜んでくれることが 最大の 収穫なんだ 商売でやるなら株式会社・京響でやればいい まして交響 楽団たるもの何といわれても 要るものは要るんだよ ドサ回りをして タカのしれた金もうけをやるとか 入場料の値上げなど もってのほか だ ただし年に一度 東京へ行って腕だめしをすることは必要だ 一種 の武者修業としてね その帰りに二三の寄り道をするくらいは いいだ ろう ── 生きた文化財を育てるには お金もヒマもかかるようですね 京響にとっての常任指揮者は いわば一定期間のお客様でもあるわけで すね ところが そのお客様の言動で母屋の存廃が論議されたのが 今 回の特徴のようですが 高山 個人としての思想は まったく自由であっていいわけだ そのこ とは政党政派の問題ではないのだが 一方 交響楽団の指導者としての 公的な立場もなくはない そのへんは外山氏も すでに気づいていると 思うが だいいち 指揮者としての力倆に問題があるなら話は別だが ただ常任指揮者というのは 明日ちょっと代りにきてくれというわけに はいかんのだ ── 交響楽団としての性格から 楽員の待遇についても二通りの解釈 があるようですね たとえば人件費とみるか 出演契約料とみるか 高山 たしかに市の正職員と嘱託とでは そういった保証の面ですっか りちがってくる だが交響楽団にあっては 何より音楽家としての力を 問われるのが当然だとぼくは思う 京響もはじめは いわば寄せあつめ だった 厳しい試練と淘汰を経てこそ オーケストラは成長していくの ではないかね 一般の労働問題とは別の考えで取扱うべきだ ── 大学紛争でいそがしかったとみえて こうした議論の経過も地元 新聞は 二三の投書と市会の報告だけで あまり熱心でないようですね 高山 そうかもしれん かつて カウフマン氏のときには こんなこと もあった ぼくが出張から帰って京都駅に降りたつと 新聞記者がきて いる 何事かときくと“京響エライことですな”という 指揮者と楽員 の仲がどうとかいっている そこですぐカウフマン氏に会い 楽員とも 語りあった 数日後の演奏会では一波乱あるのではないかと 一部の人 たちは気をもんでいたらしいので その前にぼくは両者にいっておいた “こんな時にこそ君たちは音楽家としてハッスルせよ しっかりやれ” その結果はすこぶる上出来だったらしい そしてプログラムの終りに カウフマンとコンサート・マスターが 堅い握手をかわしたものだ ── ところで 館長は ずっと以前からのレコード・ファンだそうで すが 高山 今でこそ レコードをたくさん持っているから 音楽市長とか いわれて すっかり音楽に精通しているようにみえるらしいが 実は 戦争中 日本に数台しかなかったという大きな蓄音機をもっていて 今 も大切にしているが 当時 十字屋の荒川盛亮という人が ぼくの家の 筋向いに住んでいて この人の解説で 近所のインテリを集めてレコー ド・コンサートをよくやったものだ その後市長になってから ぼくが さかんに音楽を奨励するものだから ぼく自身の趣味のようにとられた らしい 音楽行政といっても 決して趣味や思いつきでやったんじゃな くて 市政の一環として ぼくの政策でもあったわけだ その構想も ほぼ実ったようだし 今日の段階からみて 京都も音楽文化都市といわ れるにふさわしいと思う いまの富井市長も この点にさらに力を入れ てくれることと期待している 政党政派といっても 音楽行政の面では 関係のないことなんだよ (1969・5・19・館長室にて) ──────────────────────────────── ── 官職名、学位などがあるものには名前の前にそれを付けて Mr., Mrs.,Esq. などは付けない。すなわち大学の教授なら Prof.( Professor の略)、博士なら Dr.( Doctor の略)、軍人の将校ならその階級の名、 爵位を有するものや国務大臣などには His Excelency (閣下) を付ける。 たとえば His Excelency Masuo Araki,Minister of Education (文部大臣荒木万寿夫 閣下)、H.E.Yoshizo Takayama,Mayor of Kyoto (京都市長高山義三閣下) の ように書く。またこれは手紙には関係ないが皇族に対する敬語は H.I.M. ( His ( or Her ) Imperial Highness の略) 、天皇と皇后の場合には H.I.M. ( His Imperial Majesty および Her Imperial Majesty の略) を用いる。 ── 増田 綱《新和英中辞典 1968 研究社》P1366
|