与太郎文庫
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1968年07月07日(日)  あとがきにかえて

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19680707
 
…… 以下はいささか私的なモノローグであるが、記念誌校了までの経
過および協力者群像を述べ、併せて十字屋楽器店の新しい時代への期待
としたい。
 
 数年前の春、友人から電話があって、高校同期の田中義雄がヒゲを生
やして帰ってきた、という。彼は京都大学卒業後ヤマハに就職し、この
ほどその目的を終えて、われわれの予想どおり、十字屋の営業部長にな
った、という確認のあと、春宵一刻、まずは乾杯となった。
 昨年の春、こんどは彼自身の電話で、のっけからアジビラを書かない
か、という冗談である。何のことやら判らぬうちに彼は数冊の本をかつ
いで、私の書斎にあらわれた。さっそく説明をはじめるからテープレコ
ーダーを用意せよといい、その第一声が《ネオ・バロック》という聞い
たこともない熟語であった。こうしてできたのが《ネオ・バロック運動
について》という小冊子であった。
 ネオ・バロック協会発足のあとさき、彼は楽器まつりなどで多忙だっ
たがあるとき、来年は十字屋が創業70周年に当るという意味のことをも
らした。そうか、そんなに旧い店だったのか、なるほどねえ、というだ
けでその場はすんだ。年が明けても妙にこのことが思い出された。彼は
何を考え、何を企画しようとしているのか。
 私はまず、当社沿革史といった種類のやけに漢字の多い文書を想像し、
次に夢と希望をおとどけする当社の企業イメージ、といったムード派の
パンフレットを思いうかべた。その何れでもない、私の想像をはるかに
超えた次元で、彼は何かを模索しているのではないかと怖れた。
 正月気分も遠ざかり、大橋課長からの電話で《記念誌のようなもの》
の編集を私に依頼する予定である、ついては営業部長の都合で3月から
着手するように、ということだった。何をどう準備するか考えているう
ちに3月になった。ハネムーンから帰ってきた営業部長はきれいにヒゲ
をそり落していた。
 
 概して新婚当座というもの、頭の中がさわやかで、計画を立てるには
最適であると思う。彼は《社史》にとどまらず、《記念》になるような
ものを強調した。いわば十字屋70年目の《タイム・カプセル》ですな、
と私が受けて、ともに具体案は出さなかった。この種の企画は全面的に
信頼一任されなければ良いものはできない、こうして社史をふくむ《記
念誌》の企画がスタートした。
 
 まず手がけたことは社長はじめ関係者の記憶と認識を掘りおこすこと
だった。録音したものをそのまま聴いたのでは、微細な矛盾や言外のニ
ュアンスを逃すおそれがあり、徹底したテープ編集を必要とした。平均
2時間余のテープを1/4に縮少し、大筋よりも無駄な話・余談と思わ
れるものを優先して残した。これを毎日のようにくり返して聴いている
と、やがて妻がすっかり憶えてしまうほどだった。
 3月19日に、社内9人の関係者による座談会をもうけて4時間ほど録
音し同様に編集した。合計6時間のテープが揃った。
 4月に入ると、これらの証言を集めるために山中氏や東京十字屋の竹
内氏を訪れるうち、営業部長から洋服箱3個に、ぎっしり入った写真な
どの資料が送られきた。但書きのないものが殆んどなので、とりあえず
全部複写してアルバムにしてしまった。つまり、バラバラに記憶と証言
と資料が集まり、いよいよこれらを結んでいく時代設定にとりかかった。
 一般的に、歴史の本というものは一定の路線で、書かれているので、
こちらの知りたいことに仲々めぐり逢わない。たとえば初代のアメリカ
時代、排日運動について思い通りの本がなく《ロジェ》という店で、偶
然に会った会田雄次京大教授に、それなら某処の古本屋で立ち読みすれ
ばいい、と教えていただいたこともある。
 同志社大学の山田忠男教授には著書の引用をお許し願うため電話した
ところ、京都音楽界三古老の雑談テープを採った筈、と貴重な資料と日
付を調べて下さるなど、思いがけない証言をいただいた。先生には、も
っと詳しいお話を一流の弁舌でお伺いしたかったが、こちらの準備がで
きておらず、たいへん残念であった。
 折から選挙戦中の近衛秀麿氏にも直接お伺いしたかったが、激戦の陣
中これを断念した。故田中ゆき会長の親交の広さをよいことに、総じて
御協力下さった方がたには至るところ非礼に及んだこと、と反省し、あ
らためて陳謝したい。
 
 社史としての《十字屋十話》は、京都家政短大・中原都男教授との対
話を予定し比較的忘れられがちな京都でのリズム・バンド教育誕生の意
義を再確認することで、一応のメドをたてた。
 教授いわく“なるほど対談形式ならば誰がどういったか、ということ
で編集者の責任も軽いわけですね”には参った。当節のテレビ・週刊誌
にみられる、対話ばやりに準じたつもりはなく、私自身、十数年まえに
愛読した、コレドール著《カザルスとの対話》の冒頭で、カザルスが述
べたように“もし、この対話録について何かを語ろうとすれば《対話に
ついての対話》という新しい本が必要であろう”というウィットが忘れ
がたく、語り手諸氏に、あえてこの寛容をお願いするとともに読者には、
十話が十字屋のすべてでないことも判っていただきたい。
 中原教授との対話は、結局、十字屋のはなしであるよりも、諸井三郎
氏の人と思想、そして器楽教育の話題に尽きるところがなかった。
 
 しかし、これを以てしても社史の性格から宣伝物と見なされる心配が
あった。私の考えでは、営業部長はもっと一般的に《記念と》なるよう
な企画を抱いているにちがいない、と思われた。彼と茶を飲みながら、
はじめて具体的な基本方針を論じたことである。
 余談になるが、実はこの仕事の打合せは終始アルコール抜きであった。
友人の気やすさで、つい一杯となり勝ちなのを双方自制する暗黙の了解
があった、といってよい。
 それはともかく、それまでの経過を報告しながら、十字屋の歴史はあ
る意味で京都音楽史そのものである。それにつけ京都音楽年表があれば
便利である。といい及んだとき、黙って聴いていた彼が、突如目をむい
た。以心伝心、私は一寸待ってくれ今からでは無理だ、もっと目のあら
い年表なら考えてもみるが、と逃げをうった。その挙句《音楽100年
表》の企画を引き受ける羽目となった。これが4月中旬であった。
 
 私は直ちに家に帰って富俊夫著《音楽史年表》を本棚から抜き出して
みた。今から十数年前、初版のまま絶版となったこの小品は、高校オー
ケストラに夢中だった私に啓示を与え、卒業後たのまれもしないのにガ
リ版自製の《年表音楽史》を編んで後輩たちに配布したものだ。前者は
総合的であったが、私の50部のものは諸井三郎著《ロマン派音楽の潮流》
の引用を中心とする一種のエポック年表であった。生意気に、未整理な
点はいずれ改めます、などと記しているのがなつかしい。私は忘れてい
たものが再びいきいきとよみがえる重いだった。
 
 年表の区分・観点については営業部長に加えて出谷啓氏と精力的なデ
ィスカッションを重ねた。テーマは常に《現代の音楽環境》であった。
部長は演奏参加による主体性の確保を説き、出谷氏は正しい資料と正し
い鑑賞を強調した。そして三者はそれぞれ、ハンド・ブックとしての
《音楽年表》に期するところがあった。
 私の意図は、そのまえがきに記した通りであるが、とりもなおさず少
年時代に、シンフォニーの総譜をながめ夢想にふけった経験が、その背
景である。レイアウト偏重、無節操な抽出・省略があるとすれば、あえ
てその犠牲を省りみなかったためである。
 補表《来日音楽家》については、きわめて不充分なものといわねばな
らない。経済白書にいわく“もはや戦後ではない”の昭和31年までとし
たのは実はそれ以後の数量に圧倒されたのが真相である。他にも電子音
楽を実際に担当されたというNHK京都放送局の富崎哲氏、放送教育に
従事される同資料室の後藤彰彦氏などいずれも貴重な示唆をいただきな
がら、活用できなかった分野が多すぎた。しかし音楽年表というものが
私にとって2度目の出会いであったように今後その修正はもとより延長
拡大を期するにやぶさかではない。たえず仮説をたててその証明を図る
ことによって《現代の音楽環境》を確認すべきではなかろうか。
 
 6月24日、営業部長のアメリカ旅行出発は、七分どおり原稿も書き進
んでいたとはいえ、コミュニケーションの完成を奪うものだった。校了
の夜、ともに祝杯を挙げるべき相手は、そのむかし、彼の祖父が熱血を
そそいだオークランドの地から巻頭のメッセージを送ってきた。たった
半月の見聞にしろ、こんどは私の手に負えないスケールの、パイオニア
精神あふれる企画をひっさげて帰ってくることに期待する。
 
 6月30日、キング・レコードの紹介で、入洛中の評論家・志鳥栄八郎
氏と月刊誌《レコード芸術》の辻編集長との歓談は遅すぎた、と残念で
ならない。年表なんて、とんでもない事業だ、本来は国際的な規模でや
るべきものだ。となかばお叱りをうけた。あくまでも捨石、問題提起を
試みた次第、と弁解するうち最後にはしっかりやれと励まされたものの、
既にとりかえしもつかぬ。梅雨晴れの一夜、ひさびさの痛飲がこころよ
かった。
 
 お祝いのことばをいただいた評論家・小石忠男氏には特に年表の企画
をお賞め下さい、とあらかじめいったところ、原稿も見ないで書けとい
うのは、演奏会に行かずに批評を書くようなもの、と一喝された。恐縮
して原稿がほぼできてから、あらためてお願いに上ったところ、こんど
は御快諾のよし、しかるに日数がなく、氏のメッセージは編者の手をす
り抜けるように印刷所直行となるは必至である。
 実のところ十字屋楽器店に向けられた各界諸氏の御好意・御協力は、
私の当初の予想をはるかに上まわるものがあった。お祝いのことばも、
もっと多くの方がたにお願いすべきだった、と悔やまれる一方、十字屋
が総力あげてこれに応えていかねばならないことも痛感した。
 かくてこの記念誌は、70年前の創業日8月1日に完成のはこびとなっ
た。社員にあらず、広告代理店でもなく、個人の編集者として5ヶ月に
わたって出入りした私を、終始おだやかな信頼で見守り、迎えてくださ
った社長・専務・重役諸氏をはじめ、各種の打ち合わせにスムーズな処
置と便宜を図ってもらった大橋課長、そして電話のたびごとに「御苦労
さまです」といってくれた交換両嬢にいたるまで、すべての社員諸兄諸
姉に、あらためて感謝しながら次なる新しい波に期待する所以である。
     1968・7・7 阿波 雅敏
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(脚注)
 
…… あなたの本を読んで、私はいろいろなことを考えさせられました
が、ここにそれをいちいち書きつらねることは、たぶん適当ではありま
すまい。実際、それをやるとなれば、あなたは《会話についての会話》
という新しい章を設けなければならなくなるでしょうし、まったくきり
がありません。それで、結局、読んでどう感じるか、そしてなんと考え
るかは、読者にまかせたほうがよいと思うのです。私たちの会話にはな
んの底意もないのであって、これに註釈がましい文字をつけ加える必要
はまったくありません。
     〜 著者への手紙 19540428 〜 ── Corredor,Jose Maria
/佐藤 良雄・訳《カザルスとの対話 19670920 白水社》P007-8
 
…… 以前全音から同じような「弦楽技法」という本が出ていましたが
(続編もある。)/写真などほとんどないので見て面白い本ではありま
せんでした。
── 根津 昭義 http://www.path.ne.jp/~a-nezu/tubuyaki.98.08.html
 
 当初、記念誌の構想は《楽器図鑑》、いまでいうデータブックだった。
 最初の対話形式の本《弦楽技法》は紛失、著者・訳者不明のため約四
十年間“幻の本”となっていたが、N響ヴァイオリン奏者・根津昭義氏
のホームページ日記によれば、全音楽譜出版社とある。続編もあって、
面白くない(?)など、そぐわない点もあるが、N響事務長の小川 昂・
編《洋楽索引》とあわせて、再調査の手がかりが生じた。
 
…… わたしは/一九六八年(昭和四十三年)の八月に、薬害のスモン
で倒れ、現在のように失明寸前の状態となり、下半身を強烈なしびれと
筋肉痛に襲われるようになった。そして、「東京スモンの会」の会長に
推されて、被害者たちの救済とスモン裁判闘争のために働くことになった。
── 志鳥 栄八郎《人間フルトヴェングラー 19930301 朝日文庫》P014
→《中国・北京図書館/志鳥コレクション 19980323 山陽新聞》/→P200参照
 
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(後日註)
── 阿波 雅敏・編《音楽百年表/十字屋十話 19680801 十字屋楽器店》
2003年02月17日(月)  幻の《弦楽技法》
Let'20040528 from Mr.文字 武


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