与太郎文庫
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1957年04月01日(月)  留太郎

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19570401
 
 同志社高校生徒自治会では、担任のことを司級、学級委員を執行委員、
学級代表を代議員とよぶ。
 クラスで二人の秀才を選ぶなら、執行委員は内政、代議員は外政向き
がふさわしいはずだが、実態はあいまいである。
 かたや課外活動の各部代表は評議員とよばれ、評議員会は利害の対立
集団である。執行委員会は原案委員会となり、予算会議の議長には生徒
会長があたる。
 代議員会は、翌年度の生徒会長の選挙をつかさどるが、議長は三年生
だから卒業後の人事となる。そこで二年生の中から議長代理を選出する。
これが事実上の選挙管理委員長として、立候補者の認定から立会演説会
を経て投票日を迎え、最後に新・生徒会長の任命、就任演説会をもって
つぎの代議員会に引き継ぐ。
 最高機関としての代議員会では、むしろ二年生の議長代理がもっとも
はなばなしい役割を担当するわけである。
 つまり、生徒会長になるには、代議員会議長代理の支持を得ることが
有利である。逆に、課外活動の予算を確保するには、生徒会長を出すか、
もしくは協力的な生徒会長を擁立しなければならない。
 かつて中学二年の終りに、公安委員長代理として、選挙管理委員長を
つとめたとおなじ偶然的経由で、評議員会の議長代理として、ふたたび
選挙管理委員長を兼任することになった。
 なにしろ、開校以来初の女子生徒会長を、高校でも初の二年生会長を
登場させた経過は、同級生はもとより、一年下の下級生たちの記憶にも
刻まれているはずである。弁論大会やキャンプでのボート・レース優勝
やら合唱コンクールでの優勝、学校新聞の編集長であり、図書委員会や
宗教部オブザーバー、ホザナ・コーラスのゲスト・メンバー、あげくに
文芸部では発禁事件まで引きおこしている。
 衆目のみるところ、とくに成績抜群の秀才ではないにしても、まさか
劣等生であるはずがない。しかし、どこにも事情通は居るわけで、実は
成績不良で落第スレスレの情報は伝わっていたかもしれない。
 しかし、それが事実であることをまざまざと確認したのは、新学期の
二年D組の生徒だった。とくに同志社中学の後輩なら誰知らぬ者はない
“あの上級生”が、おなじ教室の一隅にムッツリ坐っていたのである。
 ふつう学校側では、留級よりも転校をすすめる。いまにいう偏差値の
低い高校(たとえば、おなじ同志社でも夜間高校)に移れば、そのまま
進級できるので、すくなくとも世間体はゴマ化せるのである。
 しかし当人は確信犯で、「なんならウラオモテ何年でも繰りかえすぞ」
などと虚勢をはった。もとアマチュアで、東京芸術大学に往復八年在籍
した指揮者・岩城宏之などの特例を思いうかべていたが、同志社高校の
規定では留級をくりかえす前に放校だ、とおどかされた。
 おそらく、当人の経歴をまったく知らなかったのは、新米の司級ただ
ひとり、なにしろ京都大学理学部を出たばかりだった。
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(*)とくに説明する必要も問題もないと考えていたので、笑っていた。
 評議員会では、予算会議の議長である生徒会長と対立することになる。
 この経験から“一票の格差”に気づいて《予算会議の反省》につづく。
 草稿:余太郎民主主義の原理 〜 予算会議の反省・補釈 〜


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