与太郎文庫
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| 1954年10月06日(水) |
図書室便り 〜 読後感想文コンクール 〜 |
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19541006 >> 読後感想文コンクール入選発表
一 等 ヘルマン・ヘッセ郷愁 三A 内村 公義 二 等 宮沢賢治 銀河鉄道の夜 二A 和田 和代史 三 等 アレクサンドル・デュマ 三銃士 一A 井上 健次 選外佳作 トルストイ 生立ちの記 三D 木村 祥子 ″ アンネ・フランク 光ほのかに 二C 清水 弘子 ″ ジョルジュ・サンド 愛の妖精 二D 北川 禎三
選定後記 藤原・高島・仲原・児玉・松森各先生及び図書委員一同によって選定。 入選者一等には千円、二等には五百円、三等には二百五十円の図書購入 券を副賞として贈呈す。 ── 《図書室便り・第三号 19541006 同志社中学校図書委員会》 ──────────────────────────────── ヘルマン・ヘッセ 郷愁 3A 内村 公義 自然は偉大なるものである。そしてうるわしいものである。 自然は、あらゆる人に棄てられた孤独な者を慰め、はぐくむものなの だ。そして、人間の到達し得ない偉大な力を持っているのである。その 力の蔭には偉大なるあるものがひそんでいるのだ。 「郷愁」を読むと、この様な何かいい知れない自然の力を感じるのであ る。そして、それと同時に、もう一つのものを感じる。それは自然の如 く不滅のものなのである。愛、愛がそれである。愛は自然と共に不滅の ものではなかろうか。人間の欲望は、此等の不滅のものに較べたら、ど んなにか小さく、はかないものであろう。 「郷愁」は次の様な言葉で終っている。 「……この大作はことによったら、もう一度書き直し、書きつづけ、完 成する様な時が恵まれるかも知れない。その時こそ私の青春の憧憬が充 される時なのであり、私は詩人になれた、と云うことになるであろう。 それは私にとっては村会議員や、石の堤防と同じくらい、或いはなお それ以上の価値のあるものだったかも知れない。しかしながら、それは あのほっそりした美しいレージ・ギルターナーから可哀想なポッピーに 至るまで、愛すべきあらゆる人々の像をひっくるめた、──あの私の生 涯の過去とはなったが、しかし不滅であるところのもの──に較べたら、 元より及ばぬものであったであろうが。」 「郷愁」は都会文明の中に生きる場所を求め、幻滅しか見出し得ずして、 自然の中に心の故郷を見出し、その自然を愛し、自然に溶け合った青年 の姿を画いている。この青年は自然を愛し、その愛から人間愛へ行く道 を見出そうとした。そしてその道を歩んだのである。それのみかこの道 は自然と共に、彼の生涯に於いて不滅のものとなったのである。 私は更に次の様な事を感じる。自然の力の蔭にひそんでいるもの、そ れは神ではなかろうか。いや、神なのである。神の愛なのだ。 自然の力、そして愛、何か力強いものを感じるのだ。そして美わしい ものを感じるのだ。 私は秋空や、或いは冬の星空を眺めるのが好きだ。そこに神秘的な美 わしさを感じるのだ。そして、この「郷愁」を読むとそれと同じ感じが するのだ。 ヘッセは次の様な事を云っている。 世界が戦争と不安に息詰ろうとも、 方々で、 だれにも見えないが、ひそかに、 愛が燃えつヾけている。 私は更につけ加えたい。 そして自然は、我々を愛してくれる。 その美と偉大さは、 永久に変わることを知らない。 (芳賀 檀・訳) ── 読後感想文コンクール入選作(一等) ──────────────────────────────── ── 芳賀 檀・訳《現代世界文学全集�機真慶�社》 高橋 健二・訳《郷愁》の引用は、「ポール先生さようなら」に重複。 …… 引き出しには、私の大きな創作のはじめの部分がはいっている。 「わが生涯の作品」ということができよう。それはあまりおおげさに 聞こえるから、そうは言うまい。というのは、この作品の進行と完成は おぼつかないことを告白しないわけにいかないからである。新しく始め、 続け、完成する時が、もう一度来るかもしれない。そうなったら、私の 青春のあこがれは正しかったわけで、私はやはり詩人だったのである。 それは私にとって村会議員や石の堤防と同じくらいの、あるいはそれ以 上の値うちがあるだろう。しかし、すらりとしたレージー・ギルタナー から哀れなボピーにいたるまで、なつかしいすべての人々の姿を含めて、 私の生涯の、過ぎ去りしはしたが、消え失せることのないものを、それ はつぐなうに足りないだろう。 ── ヘッセ/高橋 健二・訳《郷愁 19560831 新潮文庫》P185 << >> 論説 図書部の方向 3C 河原 満夫 …… 我々が、民主主義社会の一員として又一個の人間としてより高く、 より完全に生きようとする時、我々は必ず読書の必要を痛切に感ずるで あろう。 云うまでもなく、我国は憲法に主権が国民の一人々々にあることをう たっている。すなわち、国民の一人々々が国を動かし、さらに世界を動 かし得るのである。こう考えてみると今更ながら、民主主義社会におけ る個人の比重の大きい事と共に、個人の国家さらに人類全体に対する責 任の重大さに気付くのである。 今、世界は二つの陣営に分れて相争っている。高度に発達した自然科 学は、戦時において、もはや前線と銃後とのへだたりを完全になくして しまった。人類の前には、今永遠の破滅と永遠の繁栄あるのみである。 どうすべきか、どちらをえらびとるべきか。これは、主権の存在する 我々国民の判断によってすべてが決定されるのである。 結局、民主主義の社会は個人々々の判断の上に成立しているのである といえる。さらにほりさげて云うならば、民主主義は個人々々の思索の 上に成立しているということになろう。 私は、思索力を養い育てるものは書物であると思う。他に映画、テレ ビ、ラジオ等ないではないが、書物に匹敵できるものは何一つないと私 は思う。 されば、我々一人々々が、書物を読むか読まないかは、只単にその人 の運命をかえるだけではない。人類の運命さえをもかえる可能性がある と思う。 ── 《図書室便り・第二号 19540701 同志社中学校図書委員会》 ──────────────────────────────── 編集後記 3E 吉田 肇 …… 二学期に入ってやっと新館からの通路が開けた。投書箱や座談会 にも出ていた問題だったが、やっと願望がかなったと云う訳だ。三年生 は十分間の休みも図書室を大いに利用してほしい。 所で私はこれに関係して、一つの事を心配している。それは読書水準 の低下である。つまり利用すると云っても十分間ではさほどまとまった 物を見る訳にはいかぬ。だから雑誌等に少しだけ目を通す様な読書にな るという事である。まあそれも教室でレスリングをするよりは良いだろ うが、三年ともなれば一応まとまりのある物を読まれたい。又、六日連 日貸出しの新制度も大いに利用してほしい。 少しもどって夏休中の事だが、室内貸出はほとんどなく、わずかに二、 三人が利用しているのが見受けられる程度だった。又貸出票をくって見 ると驚いた事に、文学書、著名新刊書等の記載されているのは皆女子で ある。男性はと云うと、講談社世界名作全集、探偵小説、今に日本の文 壇は全て女性に占められるのではないかとおそれている。男性よ、この 様な事が起らんように努力されん事を望む。人が読む書物はその人を左 右する。だから読書の選択は自由だが、良書はその人の人格を増し、く だらん本(図書には無いと思はれるが)は益どころか時には害をもおよ ぼすという事を理解してほしい。無論、ずいぶん熱心な人もおり、そう 云った人を見ると、こんな事を我々が書くのはあつかましいとも思う。 けれども、図書室で相撲を取っているやからを見ると、ついこんなこと も云いたくなるのだ。 ── 《図書室便り・第三号 19541006 同志社中学校図書委員会》 ──────────────────────────────── 委員へ感謝一言 高島 春江 私は二三年図書部を離れていたが、今学年再びこの部に帰って来て、 委員達の仕事への意欲の盛んなのに驚いた。第一回の会合で、機関紙の 発行が議せられ、予算もないのに突進、しゃにむに五号まで出してしま った。それも活版にする、写真を入れる、などの強い要望があったが、 私はかえってそれを押えて来た。原稿の相談も始め一・二号の間は受け たが、あとはまかせきりであった。その間、部員は絶えず外部へ働きか けることに気をくばり、座談会や読書会、感想文のコンクール等、次々 催して校内の読書の指導をもって任じ、その上毎日放課後は勿論、夏休 みまで閲覧者への奉仕は実に誠実に続けてくれた。しかしそれら他人へ の奉仕は、即ちその人達自身の成長となった。私は、時間と労力を惜ま ず働いたこれらの人々の、それ自身の成長のすばらしさに驚く。そして 欣びを禁じ得ない。今このすべての中心であった三年生の人達を送るに あたって、一抹の淋しさを感じるが、しかしその将来を祈って別れよう。 そして私達も又新しい構想を練って、新学年度を迎えねばならない。 ── 《図書室便り・第五号 19550316 同志社中学校図書委員会》 << ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ >> 精神の危機 ジョン・スチュアート・ミル …… 今や私は、人間の教養の道具としての詩歌や芸術の重要性に就い て、曾て私が読んだり聞いたりしてゐた意見に、漸く意義を見出し始め たのである。尤も私自身の体験からこのことを悟り始めたのは、それか ら可成り後の事であった。所謂芸術なるものの中で、私が子供の頃から 非常に面白く思ってゐたものは音楽だけであった。音楽の最良の効果は (恐らくこの点に於て音楽は他の有らゆる芸術を凌ぐものであらうが)、 情熱を昂揚するにある。即ち既に人の性格の中に存在してゐる一種の高 貴なる感情を高い調子に昂揚するにある。そしてこの亢奮はその感情に 光輝と熱と与へる。成程その亢奮は最高潮時に於てこそ一時的ではある が、他の時に於てもそれ等の感情を支持するものとしては実は極めて大 切なものである。かうした音楽の効果を私は度々経験した。併し快楽に 対する私の凡ての感受性と同じく、憂鬱時代の間はこの音楽に対する感 受性すらも停止されてゐた。従って私は幾度かこの音楽の方面から慰め を求めようとしたのであるが、それは一切徒労に終った。併しその後、 潮の向きが変って、私が次第に回復に向ってからは、私は音楽の為めに 回復を促されることが多かったのである。尤もそれは昔よりも遥かに調 子の低いものであった。この頃私は初めてウェーベルのオーベロンを聴 いた。/その甘美なる旋律から受けた得も云はれぬ快感は、私が昔なが らに感受し得る快楽の源泉を私に教へてくれたので、大に慰むる所があ った。併し、音楽の快味は(それは音楽の快感の様な、単に音調のみの 快感に就いては全然真理であるが)慣れるに従って薄らぐものであるか ら、間隔を置いて興味を新にするか、乃至は絶へず新奇なものを与へて 興味を養って行くかしなければならぬと考へて来ると、折角の効果も大 分損ぜられることになったのである。そして私の当時の精神状態と、そ の年頃の私の心の全体の調子との特質を最もよく表はしてゐることは、 音の組み合はせは結局尽きて了ふことになりはしないかと考へて、本気 になって煩悶したことである。音階は唯だ五つの全音と、二つの半音と から出来てゐる。そしてそれ等が組み合はされ得る方法の数には一定の 限度がある。而かも音楽美を有する組み合はせはその中の極小部分に過 ぎない。加之、その極小部分の大部分はもう今までに既に発見されたも のに相違ない。さうなると今後モツァールトやウェーベルの様な名匠が 続々現はれて、彼等がこれまでやって来た様に、全然新しい、この上も なく豊かな音楽美の鉱脈に掘り当てる余地はもう左程長くはない筈だと 云ふ風に思はれたのである。 ── 西本 正美・訳《ミル自伝 19281215 岩波文庫》P154-156 << 20001224 00:00:00 虚々日々 〜 Files 〜 (20050518/20051008)
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