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その日、井上が帰路についた時には、すでに夜の八時をまわっていた。とはいえ、普段から日付けが変わるまで働いている事も珍しくない井上にしてみれば、どちらかといえば早い方である。実際のところ、まだ仕事は山積していたが、それらを半ば放り出すようにして、井上は出版社を出た。 原因は色々あった。新しく異動してきた上司とは今一つそりが合わないし、部下はへまばかりやっていてフォローが忙しい。さらに親戚の結婚式とやらで、ここ数日芝が休暇をとっているのも痛かった。仕事ぶりはまだまだの新人とはいえ、ずっと行動を共にしている分、意志の疎通が他の者よりスムーズである。同じ仕事を他人に頼もうとすると、また一から説明しなければならない。 そんなこんなで、井上はここ数日ひどくストレスフルな状態にあった。連日の残業のせいで、いい加減疲労もたまっている。さすがに限界を感じ、今日のところは早々に切り上げたのだった。 「くそっ、随分混んでるな」 どこかで大きな事故があって、交通規制がされているらしい。駅周辺の道路はどこも混んでおり、車の流れは遅々として進まない。井上はハンドルに軽くもたれかかって忌々しげに前方を見つめた。 「明日も早いのに…」 明日は土曜だが、取材の予定を入れてあった。取材先は、井上がここ数年ずっと興味を持って記事を書き続けている、青春学園中等部・男子テニス部である。 すでに顧問に連絡も入れているし、何よりも自分自身が楽しみにしている仕事のひとつであるため、キャンセルはできない。芝は今晩帰って来るはずだから、明日は久しぶりに充実した仕事が出来そうなのが、せめてもの救いであった。 前の車が少し前進したため、井上は姿勢を戻して自らも車を進めた。それでもまだまだ自宅への道程は長い。一体いつになったらたどり着けるのだろう、いら立ちとともにため息をついた時、井上は窓の外に、見なれた後ろ姿を見つけた。 「手塚君?手塚君じゃないか?」 助手席の窓を開けて呼び掛けると、歩道をゆっくりと歩いていた手塚は、足を止めて井上を見下ろした。 「井上さん。こんばんわ」 「やあ、こんばんわ。こんな遅くまで練習してたのかい?」 きっちりと頭を下げて挨拶する手塚の姿になぜか嬉しくなって、井上は陽気に声をかけた。 「あんまり無理しない方がいいんじゃないかな?」 「練習のあとに生徒会の用事で残っていたので…」 「そうか。大変だね」 渋滞のせいで車は少ししか動かないが、それでもいつまでもこうやって話し込んでいるわけにもいかない。 「手塚君、もし良かったら、乗っていくかい?家まで送るよ」 「いえ、それは御迷惑ですから…」 「でももう時間も遅いし…。手塚君は、電車かい?」 「バスです」 「それなら、なおさらだ。道路がこの調子だから、バスだと結構時間がかかってしまうよ」 自家用車であれば横道に入る事もできようが、路線バスではそうもいかないだろう。 「車でも途中までは同じだけど、家につくまで寝てればいい。随分疲れた顔してるよ」 随分、というのは誇張を含んでいたが、手塚が疲れた様子なのは本当だった。肘の故障を押しての練習に生徒会の雑事と、様々な事が重なっているのではそれも致し方ない。 井上はまだ手塚の怪我の事は何も知らなかったが、それでも手塚を少しでも休ませてやりたいというその台詞は本心だった。 手塚は少し躊躇していたが、やがて再び頭をさげた。 「すみません、じゃあお言葉に甘えて、お願いします」 「はは、そんな堅苦しい挨拶はいいよ。ほら、急いで乗って。荷物は後ろに置くといい」 井上はドアロックを外して扉を開け、手塚を中に招き入れた。手塚は大きなテニスバッグを後部座席へ置いて助手席に座ると、ドアを閉めてシートベルトをつける。シートに身を預けると、小さく息をついた。やはり、疲れているのだろう。 「こんな時間まで、学校に残っていて何も言われないのかい?」 住所を聞いてカーナビを操作すると、井上は至極当然な質問をした。中学校が、八時すぎまで生徒を残すとは考えにくい。 案の定、手塚は少し口ごもった。 「いえ、その…本当はいけないんですけど、部室の鍵を持っていたので…」 「そういうことか。でも、やっぱりあまり遅くなるのは感心しないなあ」 「そうですね…今後気をつけます」 ぺこりと頭を下げた手塚の仕種が妙にかわいらしく感じられて、井上はそんな気持ちを誤魔化すように、慌てて言った。 「ごめんごめん、お説教するつもりはなかったんだけど。ただ、最近は物騒だから。手塚君も聞いてるだろう?このあたりで変質者の被害が相次いでるって話」 「ええ、知ってます。朝礼でも生徒に注意を呼びかけているので」 「だろう?それなら、やっぱり気をつけないと」 言いながら井上がふと横を見ると、手塚が怪訝そうな顔をしていた。 「どうした?僕、何か変な事を言ったかい?」 「あ、いえ…。ただ、俺は別に気をつけなくても平気かと思って…」 手塚は女生徒ではないし、しかも背もかなり高い。知らない人間が見たら中学生とは思わないかもしれず、手塚の当惑はそういった意味では当然のものだろう。 手塚の言わんとしている事を理解して、なぜか井上は妙な焦りを感じた。たしかに手塚の言う通りだ。だが、今の井上の台詞は、極自然に口からすべりでたものだった。 「あ、ああ、それはそうだね。だけど、変質者って言っても痴漢ばかりってわけじゃないだろう。暴力を受ける場合もあるし…」 「それはそうですね」 やや弁解めいた井上の様子に、だが手塚は不審を抱かなかったらしい。納得して頷く手塚に、井上は安堵した。 「おしゃべりがすぎたかな。手塚君、着いたら起こしてあげるから、眠かったら寝ていていいよ」 「はい、ありがとうございます」 なおも道路は渋滞していたが、三十分ほどして事故の処理が終わったのか、ようやく車がゆるゆると流れ出した。 これなら十時前には手塚を送り届けられそうだ。そう安堵した井上が助手席を見ると、いつのまにか手塚は眠っていた。長い睫を伏せて、静かに寝息を立てている。
------------------- 「オジさんと俺。」用に書いていた井上×手塚の第一稿 このあと手塚が寝てる間に人気のないところへ車を止めて 車内で襲うという話になるよていだったのですが 書き出しが長くなっちゃったのと、 手塚のようにでかくて力のある生き物を車のなかで無理矢理ヤるのは 難しいだろうなあということでストップし、 最終的には本に載せた内容に書き直しました。 芝がいないとか、手塚が遅くまで学校に残ってるとかそのへんだけが 最終稿まで持っていかれてます。 原稿整理してたら出てきたので、大掃除ということで。 続きは、適当に脳内補完して下さい(…)
ちなみに仮タイトルは「熱波」 熱さと苛立ちにうなされて衝動的に…っていう感じにするはずでした。 なのになぜ本ではあんなに計画的な変態になってしまったんだろう…
hidali
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