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2002年11月04日(月) 描くことと書くこと

 思いもかけなかった休日。

 描くという行為は己を無心にする。白い紙の上で鉛筆を動かし、線を重ね、色を塗り、透かして見て、修正する。時に思いつきの言葉の羅列を添える。それらは己を夢中にさせる。
 否、[夢中]とは少し異なっているかもしれない。何もかもを退けて夢中になっているという感じではない。
 描くことに集中することで雑音が消えるのである。描くこと自体が目的なのではなく、それが手段であるとでも云うかのようだ。描くことは外的な雑音、内的な雑音の両方から己を解き放ってくれる(解き放つというよりは庇うだろうか)。
 最高の暇つぶし。
 そう云うのが一番適切なのだろうか。描くという行為によって己は何かを昇華させているのかもしれないけれど、今はまだそれが分からない。書くという行為とはまた違った何かを己に与えてくれる。
 一方で書くことは己の精神安定剤のようなものだということに最近気が付いた。
 心情を吐露する。一種の捌け口としての文章を作成する。何かの形になることによって己の中でもその感情や出来事や曖昧だった様々な事に形が見えてくる。それが真実であるか否かはその時には分からない。今この瞬間の感情や心情やそういった諸々を書き留めておく。そのことによって整理される。整理された事柄の中に真実が見えることも在るだろうと思うのだ。
 言葉にして初めて意味を得るものもある。そういうことなのだろう。
 意味を見出すために、己を振り返るために。目的はどうでもいい。文字を知り、言葉を持ってしまったときから己は書くということから離れられない。離れたくない。たとえその天分を持っていないとしても、書き続けることが己のアイデンティティ。


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