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他人の心を覗くような真似をしてしまった。それがひどく後味が悪かった。公開されない日記には、拙い言葉で昔の話が書かれていた。切なくて、愛しくて、そして盗人のような自分を見てひどく嫌悪した。 謝罪の言葉も無い。それくらい卑怯な人間だ。
冷たくなっていくのを感じている。 腹に冷たい塊が在る。それが喉の奥にまで上がってくる。それから頭を覆って脳を侵食する。冷たい膜が脳を取り巻いている感覚は酩酊感とも違う形容しがたいものがある。指先が冷たくなっていく効果とも違う。 この冷たさが一体何なのか己には分かっているのか。 白い霧のような薄膜の向こうにその答えは既に見えている。切り裂くことも無くその答えを手に入れることは出来るだろう。少しだけ腕を持ち上げて、指先で触れるだけでいい。そうしさえすれば手に入るだろう答えだ。 己はそれが発している曖昧ながら明瞭な気配を感じている。生命を削る煙に身を浸してその気配を消している。 気が付きたくないのだ。気が付いてしまったら戻れないような気がするから。 何処か―それは今の温んだ水の中。 戻れない、きっと。
誰かの腕に縋るのはその答えが嘘だといって欲しいからなのだろう。感じられる温もりがすべてだと云って欲しいからなのだろう。 誰か―誰でもない誰か、誰でもいい誰か。 真実に欲しいと思う人は誰一人手に入りはしないから。
闇の中で独り、そう在りたいと願う。
木曜組曲/恩田陸/徳間文庫 2002 ISBN4-19-891759-0
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