Miyuki's Grimoire
Diary INDEXpastwill


2006年03月04日(土) LIVING IN THE HEART

ドランヴァロ・メルキゼデクの新しい本がやっと日本でも刊行されました。「ハートの聖なる空間へ」という本です。日本語になるのが待ちきれず、初めて英語で読みました。一字一句、読んでいるときにドランヴァロの声が聞こえていました。この本に書かれてある、ハートの聖なる空間での瞑想が、わたしの人生を大きく変えようとしています。

わたしは、自分にとって何が幸せかということが、かつて生きていた世界観では測れないものになっている気がしていました。

アカシックレコードによると、地球のアセンションが進み、いまよりも高い次元で生きるようになったとき、3次元世界で創られたプラスチックを初めとする高分子の素材はすべて分解し、というよりも消滅し、より自然なもの、分子の単純なものが残るそうです。心に平和を持ち、信頼している人々はシャンバラを見るだろうし、恐れと不安を持ち、混乱している人々は、そのような世界を見るそうです。

確かにその通りです。高次元なので自分が見たい世界が出現するわけです。天国があると思えばある、ないと思えばないのと同じです。

未来に持っていけるものは何もないってことに気づいたとき、わたしは何も持たないことが一番いいと思うようになりました。身軽で、自由です。

ルールも、ツールも持たない。それは人間が神である証です。

なので、最近は、休みの日には、いろんなものを捨てたりしています。そして、一つのことや、ものに長く執着しないように、引っ越しを考えるようになりました。

ある日、ハートの聖なる空間での瞑想中に、ハートの奥にある聖なる炎を見ました。それは金色に燃えて、美しく、すべての生命とつながっていました。それを見たとき、これは、愛や幸せ以上のものだ、と思いました。それは人類全体が共有している遺産のようなものでした。愛や、幸せはその中にあります。それは、ハートの奥に在るから、欲しいと思わなくても、手に入れようとしなくてもいいものでした。それがすべてであり、それを、みんなが手にしているのだとわかったとき、涙がいっぱいに溢れました。

けれど、周りには、痛みや孤独や苦しみがあります。

傷つき、自分を痛めつけている人たちを見ると、悲しくなります。無理をして、ボロボロになって、そんな自分を認めてもらおうと必死になっている人がいます。痛いでしょう、苦しいでしょう、と声をかけたくなります。そんな人を見るたびに、どうか、自分のために、わがままになってほしいと心から願います。

仕事や肩書きは、ゲームみたいなもので、ある種、この次元の装備みたいなものです。わたしは、ただ、傷ついた人たちが、ハートの奥にある人類の遺産に気づいてくれさえすれば、と思うのです。

その力に気づけば、現実は本当に自分で創って行けるのです。

わたしの体験を話します。

昨年11月から今年の1月まで、わたしは、ある人生を賭けた実験をしていました。自分が見ている現実が、本当にホログラムのように自分の思いや意志で創って行けるのだとしたら? 古代の人間はその力を使っていましたし、ネイティウ゛の人たちはいまでもその力を使っています。

わたしは、ある現実に焦点をあて続けました。

どんなにマインドが「そんなの無理にきまってる」と不安や恐れで誘惑してきても、その思考を振り払い、過去や未来を一切見ずに、現在の中で、見たい現実に集中しました。出来事は起きていませんが、毎日、その感情を味わいました。すでに自分がそうなっていることを見て、聞いて、感じていました。3ヶ月がたったとき、心の中から「もういいだろう」という声が聞こえて来て、なにかが弾けました。

そうなったとき、わたしの中から、その願いそのものが消えていました。そして、奇跡だと思っていた状態に自分がなっていることに気づきました。現象はあとからついてきました。かつて自分が幸せだと感じていた状態になっている自分、幸せな自分がいました。幸せは、自分のなかにある力。そして、それを表に出させるのは、ハートの奥にある炎でした。

奇跡とは、自分の心のあり方が変わること。その方法はいとも簡単です。頭(マインド)ではなく、ハートを使うこと。ハートで願うことです。

いまのままの、この現実に満足していて、このままの現実の延長を見ていこうと決めれば、自分の身体や感情を使って、その中にどっぷりつかって、その内側からいろんなものを動かして行く方法をとるようです。それは、映画のなかで、自分が主役を演じるような感じだと思います。

瞑想して、ハートの奥で感じ、願って、最高の現実を創り出すのは、映画そのものを創る感じです。ストーリーも脚本もすべて自分が担当します。キャスティングもします。撮影も演出もしてしまいます。現実はスクリーンに映し出された映画になります。

演じるのも楽しいし、自分で映画を創り、それを見るのも楽しい。

どちらでも構いませんが、より自由度が高く、満足できるのは、やっぱり自分で創ってしまうほうだと思います。

ハートの奥の聖なる空間を、一人でも多くの人が体験できますように。そして、わたしも、もっともっと自分を愛することができますように。

そういえば、「ルールは持たない、ルールは自分が創る、ある意味、自分が神になる」と、素晴らしいことを言った人がいました。その人、ホリエモンは、自分の世界を創ることには成功しましたが、あっという間に崩れてしまいました。彼はハートの力ではなく、頭(マインド)でそれを創ったので、二元性の落とし穴にはまり、望んだ現実と望まない現実を両方一緒に創ってしまったのでした。


miyuki