Miyuki's Grimoire
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2005年04月14日(木) 日本人のDNA

今年に入って、古武道・忍術の道場に通っている。
日本古来の、口伝による秘術で1000年近くもの間、免許皆伝という形でしか伝わることのなかった武術が、1990年に現在の宗家が一般の人にも習えるようにと体系立てて教え始めたもので、道場には世界中から弟子が集まってきている。むしろ、外国人のほうに有名で、日本古来の忍術道場が存在することは、近所の人をのぞいては、日本人にはほとんど知られていない。

天井の高い畳敷きの道場には、壁一面に刀や長刀、その他の忍者の武器がびっしり置かれて(飾っているわけではない)、高い窓から際込む朝日は北側の祭壇の中央にまっすぐに入ってくる。先生が祭壇の前に座ると、生徒はみな並んで先生に向き合って座り、神に礼拝をしてから祈りの言葉をとなえ、深々とお辞儀をして柏手を打ち、それから稽古が始まる。

わたしは、この空気が大好きだ。塵ひとつない道場の、静寂のなかで、全身からめいっぱい気を広げて動く瞬間、わたしは自分の内に地水風火空のすべてを掌握し、コントロールしている感じがする。雨だろうが雪の中だろうが、困難な状況だろうが、不可能だと思えるような事態に見舞われようが、わたしは自分の気を動かし、そのポジティヴな気のなかに入って行き、必ずベストな状態で生きていけるという気がする。不動、というものを本当に身体で感じることができる。

去年くらいから、わたしは自分のなかにある日本人の血、日本人としてのDNAを強く意識している。「自分は何者なのか」という問いを繰り返し問うとき、わたしの中に流れている血のなかに日本人の血が流れていることをどうしても無視することができなくなってきた。瞑想するたびに、そのことについて繰り返し感じて、結論として、魂やスピリットは国籍や性別などいっさい関係ない普遍的な存在として有るけれど、その魂やスピリットが活動するのはこの肉体を通してでしかなく、魂やスピリットがそのエッセンスに日本人の血を選んでいるのだと思うようになった。

わたしは日本という国をとても愛している。美しく、繊細で、柔らかいハーモニーのような波動がある。物事を個人的な捉え方をせず、調和的な、言い換えれば集合意識的な捉え方をするのが、他の国と比べてとくに秀でた特徴だと感じる。もちろん、他のどの国とも同じように嘘や偽り、ひどい暴力も差別もあり、決して全部が素晴らしい国だとは言えないけれど、日本という国、日本人というスピリチュアリティに秘められた可能性は、かなりシャンバラに近いものがあると思う。

映画『ラストサムライ』は、史実とは違うけれど、わたしはいつ見ても涙が出てしまうシーンがある(ネタバレ注意)。

それは、最後のシーンでオルグレン大尉が天皇に勝元の刀を手渡す場面。天皇は、勝元の刀を手に取り、しみじみ見つめた後、まっすぐ前を向いてこう言う。

「鉄道も大砲も西洋の衣服も手に入れたが、我々は、自分達が何者であるかを忘れることはできない。我々が、どこから来たのかということも」

そして、アメリカとの武器交易の条約をすんでのところで破棄する。わたしは、この天皇の姿に、「人間の完璧性」を見る。

実際は、歴史ではそうなならず、日本は益々西洋化が進み、長い泥沼戦争の歴史へと突入していく。歴史が、この映画のとおりであればどんなに良かったか、と思う。

「我々は何者なのか?」「我々はどこから来たのか?」そして「どこへ行くのか?」

この問いの答は、自分の中にしか見いだすことが出来ない。アダムとイブが楽園を追われて以降、わたしたちは、すべての問いを自分の内側にしか見いだすことができない宿命を背負っている。わたしは少しずつだけれど、この問いに答えを見いだしつつある。けれども、まだ完全ではない。もっとはっきり、もっと完全なるものを手につかむまで、内なる問いかけは続いて行く。


miyuki