dear friend of friend

2003年03月31日(月) 自慢してみる

どんなタイトルやねんと思うが
僕は目というものから連想されるものを1000字以内で書きなさい
というのがあって自分でも良い文章が書けたなあ
とか思ったので載せてみます。
この目というタイトルを選んだ人がすごいのかな
まあたまには自分表現を誉めたも罰は当たるまい


目は見られている。相手の目を見て話をしようとするとき、同様に僕の目も見られている。誰かのことをもっとよく知りたいと思ったとき大切なのはその見られているという意識。

たとえどんなに話し慣れていて、鋭い観察眼をもっている人がいたとしても、その人が相手の目を見ることだけを考えて話をしたらせいぜいわかるのは一体何を考えていて、何を思っているのかという表面的のものにすぎないし、読み取ったことに価値はなく、それよりも受け取ったことのほうが大事だと思う。

だから目は見られるものだ、自分の考えや思いを見られることで伝えなくてはならない、相手のことを本気で知りたいなら、自分も知られるのが礼儀だと思う。
そうやってまず自分の心を開き、相手の心を開かす事が本当に他人と分かり合える唯一の手段なのでしょう。目は口ほどにものを言うがそれは相手の心が読み取れるということではなくて自分を伝える手段という意味であって欲しいと思う。

他人にから見られることを恐れている人こそ相手の目を見て、相手の心を知ろうとしていて自分の心を他人に伝えようとしていない。
人に心を知られるということがある種の恐怖になってしまっているからそれができないのでしょう。

そういう僕もそうでないとは言いきれない。自分の心を伝えなければ思えば思うほど僕に伝えられるものなどないと思えてきて他人に対して心を閉じてしまう。何かを伝えるのではなく伝えようとすることのほうが大事だという事は分かっているつもりでも気がつけば見られることを恐れている。
おそらく僕がどんなに優れた能力や才能の持ち主であったとしても自分に自信がないうちはその恐怖は消えないと思う。

自信はどれだけ自分が本気で生きてきたかとういうことの表れで、90パーセントの生き方をしていたならその分の自信しか生まれない。だから僕は他人と分かり合うために自信があると聞かれたら、あると言える人間になりたい。
自分の弱さや強さをありのまま受け入れて、自分らしく生きる、言葉で言うのは簡単なことだけどそれを染み込まして胸を張って言えるようになるのは本当に難しい、でも僕はそれをやれる人間になる自信はある。どうか僕の目を見てください。


長っっ まあどんなもんでしょう。常にこんなことばかりいえたら良いのに


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