| 2004年08月31日(火) |
いつか私の目でみて〜くれたなら。 |
感情的意味合いが強い事柄だと、その人にとってのイヤが何かを理解して私にとってのイヤと歩み寄らせて、理解にもっていくようにした。 本当に分かったかは判断できないが、とりあえず私がどれだけイヤなのかは掴めたかもしれないらしく、少しイヤは軽減される。
例えば職場で、仕事を最小限しかしない、しかもその最小限もミスばかりでどうしようもない人がいる。 そういう人の話を職場外の人にすると、大抵「信じられない」「なんでそんな人クビにならないの?」 「いいきかせてやらせればいい!」「どうしてその人は良心が痛まないのか?」という反応が返ってくる。 私も最初はそう思っていた。でも、どんなに言ってきかせても、指導しても治らない。 そもそもその人に良心があるのか、あったとしても「だって自分の仕事じゃないもん」とか 「たいしたミスじゃないじゃん。私は平気よ。気になるならあんたがやりなよ」という価値観で来られたら、永遠に平行線なのだ。
まさに永遠の我慢大会。 自分以外の人と暮らして、家事などを折半してやると仮定した話しでも応用できる。例えば掃除。 きっと個人の感覚の違いで、掃除する人は決まってくるだろう。 「汚れたら掃除することにしましょ」という曖昧な基準が一番危ない。 「そろそろ汚れているから掃除してよ。いつも私だからたまにはやって欲しい」と相手に願っても無駄だ。 「まだまだイケル。綺麗なもんだ」とより気にしない人が永遠にそれで掃除しないでイケル。 綺麗好きな人は我慢出来ずに掃除するほかないのだ。 ここで重要なのは「汚れたら掃除する」という曖昧な基準でなく、週に1度など回数を決めて、交代制にするなどの取り決めが必要だと言う事。 それでもツワモノは拒否するかもしれません。そう来たら、その時点で同居を解消するしか手はないだろう。 掃除をしてくれたとしても、自分のやり方と違う、綺麗になっていない、などという落とし穴もあるので安心しては行けません。 でもそれを言い始めると、キリがないので、ほどほどにしておきましょう。
それにしても、相当汚れていたらやるでしょ、と思う方は甘い。 やらない人は1年でも掃除しない部屋に住めるのだ。もっと行けるかもしれない。 そんなわけで、自分の感覚が自然に他人に通用することって幸運なことなんだと思いますよ。 衣食住環境で、この感覚が近い人しか回りにいない人は気付かないかもしれないし もともと「イヤ」が少ない人。なんでもOKな人も気付かないかもしれない。 やっぱりイヤが少ない人は勝者のようです。
さらに長くなったので明日に続く。
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