だから猫が飼いたいのに・・

2004年08月30日(月) いつか私の目でみてくれたなら・・・

前にも日記で書いたけど、「エリザベート」での夫婦の象徴的な歌。
この部分って「相手の気持になって考える事」がすごく難しいってことを教えてくれる優れた場面なんだといつも感心して見ている。
「相手の身になって考えなさい」と教育の場では常套句だろうけど、とっても大変、至難の技だと、今はわかっている気がする。
気がしているだけで、わかったとは言いきれない、と思っている方が正解だとも思う。

人それぞれ、もともとの性格、癖、育ってきた環境、教育などが違うし捉え方、感じ方は違って当たりまえなんだと理屈ではわかっているけど
本当に「違う」んだ、と納得して、どうしようもないと実感する機会は少ないと思うから。

自分が「イヤだな」と思うことでも、相手は「イヤ」だとは思わないかもしれない、という事がある。
当然、逆もある。私は平気でも、相手がイヤだと思うこと。
だから私は親切でやったことでも、相手にとっては迷惑になることもよくあるだろう。
これは多いかもしれないと常に反省している。おせっかいな傾向があると自覚しているから。

例えば、知人が行き付けの居酒屋につれて行ってくれるという事があったとしよう。その店はちょっとどころでなくお世辞にも小奇麗とは言いがたく、
私はそういう場所が苦手だったとしよう。でもそれは連れて行ってくれる人には言えない。善意で連れて行ってくれるのだから。
(ここだけの話し、その店では何度か見てはいけない虫を目撃したことがあるのだ!)
相手をがっかりさせてはいけない、っと考えるから。あくまで良かれと思って連れて行ってくれるのだから。それはもはや苦行に近いかもしれない・・修行好き。
でも、その店に何度も通っているうちに、私も平気になってしまった。そして、試しに本来、趣味・嗜好が似通っている友人を連れて行って見たらやっぱり「二度と連れて行かないで」と頼まれる(笑)
そうなんだよね。やっぱりね。私はかつてその店に入るのを躊躇した経験があるから友人の気持ちはよくわかる。
でも、最初に私を連れて行ってくれた人たちに私や私の友人たちの気持ちはわからないだろう。
というか、気取っているという風にみなされてしまうだろう。(私はこの気取りと常に戦ってきた。戦いたくなかったけど、なんだかそういう運命だった)

※気取りって何よ。と思われそうですが、上記のような店に行った時に「私、こういう店はちょっと・・」と難色を示すことを現して見ました。
知人たち全員が平気で入れる店に難色を示す方が勇気がいるので、この気取りと戦ったともいえる。
でも、この戦いがあったから私は結構どこでも平気になってよかったと思う。アウトドアでもOKさ!
アウトドアというと、そういう場所でのトイレ事情もすごいものがあった。でも周囲の男友達に「これだから女ってさ」と言われたくない
おかしな負けず嫌いなために私はそれをも乗り越えてしまった。まさに負け犬根性ともいえるかもしれない。
とまあ、気取りとエニシングOKの狭間で揺れ動きすぎたため、現在の私は自分でもどこがニュートラルなのかさっぱり分からなくなってしまった。

この場合は自分がイヤな気持ちだったことを踏まえて、相手のイヤにも理解しめせるチャンスがあったけど
最初から「イヤ」が少ない人には、「イヤ」が多い人の気持ちは永遠に理解できないだろうと思う。
なんでもいい、イヤの少ない人の方が生き易い事は明白な事実です。
一番、生き辛いのは、自分に「イヤ」が多いと気付いていない人だと思う。
自分で気付けない限り、そういう事を赤の他人が教えてくれる機会はとても少ない。
よっぽど気の置けない間柄でないかぎり、NOといえないのが日本人だから
ひょっとしたら、相手はイヤなことをずっと我慢してくれている場合もあるだろう。

私は家族や職場でいやになるくらい、それらを思い知らされてきて、ある時雷に打たれたように
「相手の気持がわかる人っているはずないんだわ」と思えた。
でも、逆にそう思ってからの方が生きるのに楽になったと思う。
話しの合わない、感覚の合わない人に、私の気持ちをわかってもらおうとすることは
ザルで水を汲む行為に等しい無駄な時間なんだ、と割り切った。

でも、どうしても打開しなくてはならない局面では、感情に訴えるのではなく
合理的な側面から、訴え、改善をはかるように案を提供することにした。
「こんなことされて困る」という気持ちだけではなく
「これをすることによって、どれくらいの損失があるか、どんな不利益を蒙るか」と
理路整然と、端的に述べる。そうすると大概の人は納得して、止めてくれるようになった。


長くなったので明日に続く。


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