| 2004年05月25日(火) |
2)私の中の妬み・・誰にもあって当然の話。 |
昨日に引き続き「いじめと妬み」 土居健郎 渡部昇一 PHP
「現代は妬みが消えた。」という、それは妬みという人の気持ちがなくなったのではなく 単に、「妬み」という言葉が使われなくなっただけ。 「憎しみよりも妬みは上。平等が妬みを消すが、全く平等な世の中なんてない。」とこの本に書かれている。 「妬みを無くそうとは言わない。その心が発展に役立つことがあるから、 その妬む気持ちを違う方向にもっていくことが肝心だ」とも
本当に、そうだと思う。 この世は妬みで溢れている。 無くそうなんて無理な話なのも解る「よりよく、なりたい」という気持ちには 何かに比較している気持ちがあるからで、何かと比較してよくなろうという気持ちは生きていく上で必要だから。 昨日と同じで、有るものを無いと教えている「妬み」もその1つ。
妬みと嫉妬の違いは、外国語に訳すとよりわかると書いてありました。 私は子どもの時から嫉妬深い子どもだったと自覚している。 兄弟が1つ違いで生まれたのも関係していると思う。 母親の愛情を独り占めする時間が短すぎたのだと、育児学の本などでも書いてあった。 でも、そんな自分がイヤだったので、がんばって克服しようと思った。
そして、他人から妬まれて、いやな目にあったことも少なくなかったので 余計に、妬むことのいやらしさを痛感して、そういう気持ちを無くしたいと思ってきた。 そして大人になったとき、運は自分に付いて回るという事がわかったので 他人を妬む暇があったら、自分の運をよくする努力をしろ、と思うようになった。
かなり、そういう事が板についてきたかな、と思っているときに 「いじめと妬み」の第2部 第1章「妬みと聖書」でかかれている妬みをあらわすエピソードを読んでまだまだだと思い知る。 「妬む者は自分が妬んでいることに気づかない」らしい。そうかそうなのだ。そして私も妬んでいた。
「マタイ伝20章のブドウ園」の話、聖書の「放蕩息子とまじめな息子」、ルカ伝の「マルタとマリア姉妹」の話しを読むと 職場で怠け者に対して、腹を立てることは、同じ事で、私は怠け者の職場のオヤジたちを妬んでいるのだという事になるからだ。
聖書のブドウ園の話は有名らしいのですが、ブドウ園主が朝から夕方近くまで労働者を雇って、いろんな人が参加した。 夕方近くになって参加した人と朝から働いた人は同じ報酬をもらう約束だったのだけど、朝から働いた人はそれが不公平だと怒る。するとブドウ園主は、「約束通りのお金を支払っている。後から働いた人にもその約束通りのお金をはらってあげたい。自分のしたいようにしてはいけないのか?それとも、私の気前のよさを妬んでいるのか」という話し、
そして、この話しは決して「妬んではいけない」という話しでなく、違う見方を提供しているのだという。 妬むことは当たり前に存在しているから、それをするなというより、考え方を変える。 そして「甘え」が妬みを緩和するから、「甘える」相手を作るという事が大切。 そして「妬まれないように、目立たないよう、慎むことの大切さ」とも書いてありました。 これはとってもよく理解できます。他人は自分が思いも寄らないことを妬んだりするものなのです。
以上のことから、この本や例にあげた聖書は実に建設的なお話だと私は思います。 私も「突っ張っている」「世の中の不正がゆるせない」タイプに分類されるので妬みが強い、というのも納得できるし 職場での不公平には、いつも頭を悩まされてきたので、痛いところです。
少し前まで私は、職場で働かない人に対して、私と報酬が同じかそれ以上もらっているくせに! と憤りを感じることは多々有りました。ちゃっちゃと働けよ!と思っていました。 でも、今は自力でそういう考えを止める事が出来ました。 いつの頃からか、「雇い主が好きで、仕事しない人を雇っているんだし、私が給料を出しているわけでないのだから放っておこう」と思い始めていた。
仕事をしない人が複数いて、しわ寄せが来るのは辛いのですけど、その人たちのカバーしろとは言われていないし 好きで真面目に働いているのだから、自分のせいであると、今では思っています。 それでも、自分の仕事に影響が出るほどの、ミスやでたらめにはムカっときますけどね。 やっぱりまだまだかな・・
自分の心に潜む妬みを自覚すると、少し生き方が楽になる・・かもしれません。 自力でできない方は、この本でも心理学の本や聖書でも、読んでみるといいかもしれません。 ちなみに私はクリスチャンでもありません。聖書は読んだことないです。
|