銀の鎧細工通信
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2009年08月29日(土) |
090:何もかも、わたしを置いて通り過ぎていく (江神さんを甘やかすシドジロ) |
台風が近付いて来るという夕暮れのことだった。いつもより尚、静かに低められた声が蜩の断末魔に掻き消える。 「・・・はい、はい。そうですか・・・」 不穏なほど鮮やかに西日に照らされた背中が、その影を濃くしていた。流れる汗もそのままに、志度はそれを凝視していた。オブジェのように、いっそ荘厳な彫像じみた背中は微動だにしない。 「良くない報せかい」 受話器を置いた背中に声をかけると、傾いた陽に照らされた背中が「訃報や」とやはり静かにぽつりと応える。穏やかな声は悲報に接したことも感じさせないほどで、詩人は完成されきったオブジェを眺める気持ちでそれを見た。無意識のうちに、(振り返れ)(振り返れ)と強く願った。こちらを見ろ、と。 そうして振り返った江神の顔は、丁度影となって壁にもたれる志度には見えなかった。物静かな影が「出てくる」と告げる。押入れを開けるとクリーニングのビニルをがさがさ鳴らしながら過たず一着取り出した。その一張羅の位置が埋没しきって判らなくならない程度の間隔で、彼に哀しい報せがもたらされることをうかがわせる一連の動作。 「今から?」 「ああ。空きがあったんで今夜が通夜で、明日に告別式やって。・・・明後日は友引やしな」 「死んでまで暦かよ、ご苦労なこった」 心底忌々しげに吐き捨てた志度の言葉に、江神は苦笑したようであった。音もなく空気が揺れる。もうそのものはこの世に存在しないというのに、尚何がしかに振り回される。 「・・・ほんまやなぁ」 その声は、ぞっとするほど深く、空漠としていた。諦念とも遣り切れなさとも、なんとも云えぬ寂寥を湛えていた。志度はぎょっとして目を見張ると、そのままぎょろりと江神を見上げる。陽射しが目に付き刺さり、その姿はもう全くといっていいほど見えない。 「あんた、大丈夫か」 「ふ、何がや」 がばりと勢いよく立ち上がると、光線は2人の胴に差し、志度はようやく江神の顔を見た。いつもと変わらぬ賢者のまなこが志度を見ていた。光線の具合か、はたまた部屋に籠もる熱気のせいか、炎を見つめているかのようにただ光を放っている静かな目。ふいにぐらりと詩人を既視感が襲った。これはあの村の鍾乳洞で、焚き火越しに見たものと同じだ。 (・・・悲憤?) どろりと複雑な感情に彩られた目だ。江神はしばしばこういう目をする。それもほんの一瞬のことだ。他のことに気を取られていたら、確実に気がつかないレベルの。 (それで、あんたは賢者のスタンスをキープってわけか) 立ち上がったついでに煙草を手にとり、開け放したままの窓枠に腰掛ける。今年の夏は涼しいと江神はいうが、それでも志度には充分に堪えるものであった。暑さの質が違うのだ。 詩人にも解っている。江神は好んで賢者のポーズを作っているわけではない。周りが勝手にイメージを仮託している。うっすらと感じることは、あらゆる感情や事象が江神には遠いのだ。激情に身を任せきることができない、直面した出来事の奔流に呑み込まれきることができないのだ。事象そのものへの情動よりも、そこへの遠さが江神の目に遣る瀬無い色を浮べさせる。 「あんたは、ものを考え過ぎたんだ」 「どうやろうな」 俯いてベルトを締める面は、そんなことはないよといいたげに微笑を作る。ち、と忌々しげに志度は煙草を咥えた奥で舌を鳴らした。自分でも何が不愉快なのかさっぱり判りはしない。果たして本当に不愉快なのかも。 「で?これからどちらへ?」 「山科」 「ふぅん」 「どこか解ってないやろ」 ネクタイを締めていた江神が顔を上げて笑う。どこかの家の風鈴がか細く鳴いた。もうじき太陽は山の向こうへと姿を隠すだろう。 「まぁね」 細く煙を吐き出しながら、志度はどうでもよさそうに応えた。西陣から見える景色は詩人を飽きさせることがない。たぶん詩人はどこに行っても見るものが尽きることはないし、何を見ても根本から変わるということもないだろう。 (どこに行っても同じ、何を見ても同じ) それはその景色と、それを取り巻く環境をなかったことにするというものではない。ないけれども、影響を受けつつも自分は変わらないだろう、変われないだろうと実感する類のものだった。おそらくは江神もそういう性質の人間だ。どこに行っても自分とは違って順応するし溶け込むだろうけれど、どうにもならないものを抱えたままに違いない。どうにもならないものが、ただ純然と、在る。 (まあ、25過ぎた人間がそうそうほいほい変わるってほうがレアか) 「ほな、行ってくる」 上着を小脇に抱え、江神はついと玄関に向かった。スーツにはおよそ非常識な長髪であるにもかかわらず、びっくりするほど似合ってしまうのが志度には不思議で仕方がない。 「なあ」 振り向いた江神にぽいと煙草を投げて渡す。 「持っていかないならそのままそちらへ置いてどうぞ」 玄関に隣接する半畳分の台所を指差す。「ああ、おおきに」と江神は笑って煙草をポケットへおさめた。喫煙者が煙草のことを失念するとは余程のことだ。どんな状況でも普通に見えてしまうのは江神にとっては不幸なことではなかろうかと志度は漫然と思う。 (余計なお世話だな) ふと渡したそれが最後の一箱であることに気がつき、志度はのそりと立ち上がると玄関へ向かう。 「見送りならいらんよ」 「つれないこと云うな、煙草屋までお供させていただくよ」 はは、と江神のあげた笑い声を聞きながら、今日はよく笑うと志度は思った。それに気がついてしまう自分も如何なものかと同時に思った。
「秋だな」 「日ぃ短うなったなあ」 つらつらと歩くうちに、すっかりと夜が町を覆った。こころもち風が涼しくなった気さえする。 「誰の葬式だい」 さほど興味はなかった。誰のものであろうと死は死であり、誰のものであろうと喪失に変わりはない。ただ江神の常ならぬ様子は気にかかった。 「恩師や。国語の先生で」 涼やかな声で江神は澱みなく応える。話す気ならそれでいい、と志度はポケットに手を突っ込んだまま鼻を鳴らした。煙草が欲しかったが、それは江神が持っている。 「理知的で穏やかなんやけど結構曲者で、美意識の高い人やった。学童疎開で山形へ行っとった人で、しなやかなタフさがあった」 「あんたにしちゃ情緒的な物云いだね。思慕のほどが伺える」 猫背のまま蓬髪をがしがしと掻いて、志度は首を傾げた。山の上に浮かぶのは金星だろうか。何かは解らない虫の音が聞こえてくる。 「そうやな。あの人の、白くなった睫毛に縁取られた透きとおった目が、俺は本当に好きやった」 「ふぅん」 志度は応えながら江神をじっと凝視した。何だと問われ、煙草おくれと応える。江神はああ、と云うと志度の視線から逃れるようにそっと、そっと目を伏せて胸ポケットに手を伸ばす。志度はそれでもじっと伺う様子を隠さずに江神を見つめた。 「あんた、小さい頃に可愛げがないって云われなかったかい」 「なんや藪から棒に。・・・・・・云われた」 にやりとして応える江神に満足げに目を細めると、志度は「俺はたいそう可愛げに満ち溢れた子どもだったぜ」と唇の端を吊り上げて云った。 「そりゃ結構なことや。今じゃこんなやけどな」 「余計なお世話だ」 2人はぽつぽつと静かに言葉を交わす。街灯に群がった蛾の影が躍るように足元に映っては消える。何も救いをもたらしはしない。けれど、何もかもが不幸でもない。
「結局駅まで来ちまった、あんたも罪な男だな」 「なんでや」 改札で切符を買う江神の後ろに立ち、志度は腕を組みながらにやついて口にした。煌々と光る蛍光灯は、不躾なほどに江神の黒いスーツ姿を照らし出した。どこに行っても変わらないだろう、どこに行っても救われないだろう。それでも尚、 「江神」 「ん?」 「行ってきな」 改札に入りしな、声をかけられて振り向くと、闇を背負ってチェシャ猫のように詩人が笑っていた。 「寝ててええからな」 俺は大丈夫やから、と言葉にはせずに江神は微笑んだ。他人の身にふりかかった出来事に、頓着するかはいつも志度が自身で決める。不幸に接して泣くも笑うも。今は明らかに気にかけている。そうさせたのは自分だと思うと、江神はいたたまれない心地がした。気が引けるような、後ろめたいような、ただひたすらにほの暗く冷たい罪悪感。 「饅頭貰ってこい」 志度は云い捨てるとふいと後ろを向き、雪駄をペタペタと鳴らして去っていく。丸めた背中に浮かぶ肩甲骨が、シャツにくっきりと影を落とした。一度瞬いてそれを眺めると、江神はくるりと向き直ってホームへと歩みを進めた。髪をなぶった風は、嵐の気配を感じさせるものだった。
END
・・・! ちちち違うんだ!!! こんな、こんなゲロ甘展開になるはずでは・・・!!!もっと陰気で淡々とした話のイメージだったんだ・・・・・・・・・・・・っ!!!! ちょっと志度さんに感情移入モードだったのがまずかったのか?それとも何か?無意識に江神さんを甘やかしたいモードだったのか?! なんだこの仲良し2人組み。 もう俺は駄目だ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
志度さんは江神さんの「理解者」じゃなくて、「観察者」でいいと思ってます。
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