銀の鎧細工通信
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2009年06月04日(木) |
003:傷つけて、傷付いて (EMC頭髪問題、歪んだあなたへの100題) |
「ほんまあん時は血の気が引いたわ」 織田が両の掌で顔を覆い、渾身の重い溜息をつく。 「大袈裟な。大体お前の頭とちゃうやないか」 紙コップからコーヒーをすすりながら望月が顔をしかめた。ねえねえ何の話?とマリアが隣に座っているアリスの腕のあたりを突付く。 「ああ。昨日ラーメン喰いに行ったんや。そん時にな、ってそないな顔するな。マリアはバイトやったやないか。しゃあないやろ」 べっつにーとふてくされた顔で応える。で?と促すので、アリスは肩を竦めてから話を先に進めた。 「でな、江神さんが」 アリスが傍らで机に突っ伏して眠っている部長にちろりと視線を送る。マリアも釣られて一瞬そちらを眺めた。人は眠っていても自分の名前には敏感だという。つい声を低めた。江神は身じろぎひとつしない。昨日の夜間工事のバイトはハードだったと云っていたから、疲れているのだろう。 「文庫についてた輪ゴムで髪をくくったんや」 「うん。・・・で?」 (あかん。マリアにはさっぱり話が見えてへん。めっちゃ不細工な顔になっとる) ここで詳細な解説をするのは織田の傷を抉るような真似になるではないか、とアリスは憂鬱になった。いちから説明するには事はあまりにナイーヴなのだ。 「ええか?」 織田が切迫した声で話を引き取ったので、進んで残酷な真似をせずにすんだとアリスは安堵する。 「つるっつるの直毛やったらまだマシなんや。やけど、この人のはご覧の通りや。こないな髪、輪ゴムでくくってみい、抜けるで結構!」 痛ましい声音に怯むことなく、マリアは「そうですねえ」と呑気な声を出した。マリアの父である竜三氏は頭髪の悩みとは無縁そうな人物である。ぴんと来ないのも無理はないのかも知れない。 織田の家族を知らない者には判らないことではあるが、織田の血縁には両親ともにある特徴があった。父も、父方の祖父も父方の親戚も、母の父も兄弟も親戚も、皆。 「俺は忘れられへんのや!ちっさい頃から姉貴に『あんたも将来は禿げまっしぐらだてね』ゆうてからかわれ笑われたことがぁ!」 「ああ、なるほど」 織田の異様なまでの熱弁の理由がわかったらしい。マリアは神妙な表情を作った。が、その頬が笑いに引き攣れそうになっているのをアリスは見逃さない。女性だって薄毛と無関係ではないとはいえ、世の男どもの薄毛問題への過剰なまでの関心の高さは女子の文脈とは違うのだろう、とアリスは解釈した。ザビエル型かM字か。迫り来る恐怖と「いやまだいける」の感情の温度差も。 アリス自身、遺伝で云えば完全にセーフではない。細い猫っ毛なのも気にかかる。同様にこしの強くない細い髪をしている望月はといえば、いやに冷静であった。遺影の父親は、年齢もあってか豊かな髪をしていたが。 「部長が外した輪ゴム見られへんかったわー・・・」 織田がはぁあ、と再び重苦しい溜息をついた。日頃のきびきびと潔い言動を思うと、そのしょげかえりようには哀れを・・・さそうわけがない。アリスとマリアは対織田への切り札を握った、と云わんばかりに目を合わせてにんまりとした。そもそも、力尽きゆく毛根に諾々としたがうようではまったく織田らしくないではないか。 望月が憔悴した織田を引き摺るようにして講義へ向かい、2人はいってらっしゃいとひらひら蝶のように手を振って送り出した。 「いやー・・・すごい思いつめようね」 「うん」 見送った姿勢のまま、2人は並んで口を開く。 「信長さんにとって、非っ常〜に重大な問題だということがよく解った」 「ほんまに。毛根は労わったらんとあかんなー」 「あれ?あれぇ?アリスくんも頭髪に関してお悩みが?」 くるりとアリスに向き直ると、マリアは露骨ににやにやしながらその猫っ毛を両手でかき回した。この、通称”シャンプーの刑”はある程度の髪の長さがないと威力が発揮されない。日頃の犠牲者は主にマリアだった。 「無関係やないなと思っただけや」 マリアの手を押さえようとじゃれていると、アリスの背中が机にぶつかった。2人の背後からむにゃむにゃと何か呟きがもれる。 「こない騒いどって起きへんなんて、随分疲れてはるんやな」 「ほんとだね。あっ、見て見てアリス。珍しい、眉間に皺寄ってない?ほら」 机の上に上半身を伸ばし、マリアは江神の眉間を指差した。 「僕らがうるさいからやろ」 唇に人差し指をあてる真似をすると、マリアも肩を竦めてそれに倣った。 いい子や。 アリスは心の中で呟く。 「苦労が多いと禿げるっていうよねぇ」 「それは白髪と違うか」 「あれそうだっけ。まあいいや。なんにせよ、江神さんっていろんなこと考えてばっかりっぽいし、ちょっと心配」 ぺたりと腰を下ろしながらマリアは神妙な顔をした。今度は純粋なる本心からのようだ。 「なんや、やっぱり江神さんの毛根が心配になってきたんか」 マリアの云うのが毛根に限定しての心配ではないとアリスにも解っていた。しんみりしてしまうとそんな懸念が濃密に近づいてきそうで怖かった。だから、茶化した。 「ううん、どうかな。別に禿げても江神さんは素的に違いないし。ああ〜でも落ち武者は勘弁」 長髪のままで頭頂部だけ薄くなったことを指すのだろう。アリスは思わず吹き出した。確かにそれはきっつい、と応えるとマリアがすいと席を立って、江神の横に回りこんだ。手首にはめていたゴムで、江神の髪を器用に後ろでひとつにまとめてくくってしまった。 緑のラインストーンが瞳に嵌めこまれたプラスチックの白い猫のついたゴム。 「嫌がらせか」 「善意よ」 マリアは真剣な顔できっぱりと云った。 (やけど三十路手前のごつい男に白猫ちゃんはなあ・・・) とはいえ案外似合うじゃないか、とも思った。似合うというよりも、微笑ましいと云うべきか。 「お前あほやろ」 握った手を口元に当て、笑いを噛み殺しながらアリスが云うと、「そうでもない」とマリアは得意げににやりとした。はじめの頃こそ関西のノリに困惑しきっていたマリアだが、今では慣れたものだ。言葉をそのまま受け止めるということはない。それでも会話に必ずオチをつけないと座りどころが悪い、というアリスの言葉には理解不能だと云った。
しばらく講義の話と、それ以上のミステリ談義に花を咲かせていると、むっくりと江神が起き上がる。長い腕を思い切り伸ばしてあくびをひとつ。 「「おはようございます」」 はもってしまった言葉にアリスとマリアがくすくす笑っていると、江神はごきりと首を鳴らして「うん」とだけ応えた。ぼんやりと灰皿を引き寄せる。いつ気がつくだろう、とマリアが目を輝かせている。 「えらい疲れてはりますね」 「そうやな、いや単に昨夜遅うまで起きとったせいかも知れん」 江神の寝起きは悪くない。バイトで疲れて帰宅した後に、更に読書ででも夜更かしをしていたら眠たいのも道理だ。まだ眠そうに目を擦っている。またひとつ、大あくび。 「コーヒーでも買うてくるわ。欲しいもんあるか?」 「あったかい紅茶」「烏龍茶」と口々に応える2人に、「うん」と頷いて江神は席を立った。「ごちそうさまでーす」とアリスが笑うと、「あほ。奢りやないぞ」と白い歯を見せて笑う。 「ねえ、全っ然気付かないね・・・」 「そうやな」 背中を見送りながらマリアはむしろ驚きだ、という顔でいる。 「江神さんが日頃如何に髪を気にしてないかってことよね」 「ああ・・・なるほど」 マリアや他の女の子たちは机に突っ伏して眠ったりしたら髪や化粧を気にするのだろう、とアリスは一人で得心する。アリスはむしろ寝癖を気にせずに済む分、こういう時のほうが無造作にいるだろうと思った。 缶コーヒーと小さなペットボトルふたつを大きな手で楽々と持ちながら江神が戻ってくる。座っているマリアの横まで来ると、そっと頭を撫でる。優美ともいえるほどの優しい仕草。 「これ、マリアのか?」 軽く頭を振ってみせる。 「ようやく気付きました?」 大きな掌の下でマリアは子どものような顔で笑う。江神はもう片方の手で持っている紅茶をアリスに受け取るよう促した。 「江神さん、輪ゴムで髪縛るんでしょ?痛そうだから、それあげます」 「おおきに」 花が咲くように江神が笑った。 「いつ気付きました?」 ペットボトルを両手でおし包んだアリスが訊くと、「自販機の横の窓を見て」と江神は云った。 「なんやえろう頭がすっきりしてるな、思うて」 「見ないと気付かないなんて迂闊ですね、推理研の部長ともあろう人が」 そろそろくすぐったくなってきたのだろう。マリアが皮肉を口にするが、ひどくあたたかな表情で云ったところで、人の気持ちを和ませることにしかならない。江神は口角を上げると缶コーヒーに口をつけた。
どんなにささやかなことでも、この人が笑う世界がいいと思った。 誰かを傷付けることからも、何かに傷付くことからも、どうかこの人を白い猫が守ってくれればいいと願った。 形を変えて繰り返し紡がれる祈りのように、あえかな願いのように、マリアはそれからもたまに江神に髪ゴムをあげた。いつもさりげないやり方で。そっと。 先輩連中はそんな思惑に気がついているのかいないのか、「今度のはリンゴやった」「それはもう古い、俺は飴ちゃんのを見た」などとささやかな報告会を催している。江神は江神でそれらをどれも丁寧に扱った。大切に使っているのがありありと見てとれる。 アリスが江神の下宿に行った際、台所兼洗面台の流しの脇に酒瓶が置いてあり、その首にまとめて髪ゴムがかけられているのを目にした。「マリア・コレクションや」と江神は笑って云った。
END
某サイト様の拍手絵から触発された妄想を培養してみた結果。 髪を括ってる江神さんが好きです。でも、その髪ゴムがマリアからもらった可愛いやつだったりすると、もっと好きです。 妄想にお構いいただきまして、心よりの御礼を! これは謹んでひっそりと献上させていただきたく思います。
お礼の気持ちを込めて以下後日談。
「そういえば、モチさんは心配やないんですか?頭」 「失敬な奴ちゃなぁ、なんやアリス」 盛大に怪訝な顔をされ、アリスは自分の訊き方が大いに誤解を招くものだと気付いて慌てて訂正した。 「すいません、ちゃうんです。頭髪のことです」 「わかっとる。人に頭心配されるようなこと思いあたらへんよ」 ですよねー、とアリスは胸をなでおろした。望月がなにやら鞄の中をごそごそしている。取り出したものはパウンドケーキだった。どこか憮然とした表情で「食うか?」とアリスに差し出す。 「ええんですか」 ぱあ、と音が聞こえてきそうなほど顔を輝かせたアリスが問うと、俺は甘いもんは得意やないんや、と云った。 「でも、せやったら貰いもんやないんですか?ほんまに僕がもろうてええんですか」 開きけかけたラップから指を離し、真面目な顔をしている。 「ああ、ええんや。食うてくれ」 追い払うような手付きで望月は促す。 「髪なー」 頬杖をついてぼそりと呟く。「これうまいですよ」と喜色を浮べていたアリスは顔を上げる。 「そう頭髪。モチさんえらいクールやないですか。余程自信がお有りで?」 「そういうわけやないけど」 珍しく歯切れが悪い。甘いものが苦手にもかかわらず貰ったというケーキといい、望月には何か諸々思うところがあるようだ。「謎」の気配にアリスは目を輝かせる。「落ち着け、別に面白い話があるわけやない」と望月は冷静な、というよりはいささかうんざりした雰囲気でそれをたしなめた。 「頭髪に無頓着な人を見てるせいや。江神さんもそうやけど、単に慣れの問題なんや」 その誰かを思い浮かべているのか、望月の目はどこか遠くを見ている。単純に迷っているわけではなく、煮え切らないでいるだけの望月は珍しい。本格推理の申し子としてロジックと整合性を愛している男なのだ。 突っ込んで訊きにくい雰囲気を察してアリスは「そういうもんですか」とケーキを飲み込んで云った。返答は期待していなかったが、案の定望月は「うん」ともなんともつかない声を出した。
「うまかったろ」 長身の望月より数センチ高いだけの距離から傲然と見下ろし、自信満々に男は云った。それは問いかけの形を成してはいなかった。 「アリスが絶賛してましたよ」 「なんだそりゃ。あんたは食ってないのかい?少しも?」 無造作に伸びた蓬髪の間からよく輝く目が望月を捉える。その声音は不満げではあるが、面白がっている響きのほうが強い。 「っ・・・〜、俺は甘いもんは得意やないんですよ。云ったやないですか。味は、よう解りません。けど、不味いとは思わへんかったです」 呻くように言葉を詰まらせたかと思うと、望月は一気にまくし立てた。さらりとした髪の間から覗いている耳が赤い。それを見止めたのか、詩人はにやついている。 「そりゃ結構」 云うなり望月にしなだれかかり、がぶりと耳に噛み付いた。
END
頭髪に無頓着極まり無さそうな男、志度晶。
シドモチ、書きやすいかも知れません。楽しいです。 江神さんとより絡ませやすいことに気付いてちょっと衝撃。
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