銀の鎧細工通信
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2009年04月19日(日) Garnet (有栖川有栖川 アリ江)

 

 きみの上に照る毎日毎日を最後の日と思いたまえ。
 そうすれば君の予期していなかった時間を君は感謝を持って受け取ることだろう。
 −ホラティウス−








 あなたのことなど、いっそのことはじめから知らなければよかった。



 
 「なんですかそれ。んん?関数?・・・¬A の際にはA⊃Bも否定される。しかしA⊃Bは¬A∨Bと書き換えられる??暗号ですか」
 学館の机の上に広げられたプリントを覗き込んで望月が首を捻る。もっともらしく顎に手を当てている。
 「いや、論理学や」
 「論理学ゥ?えらい数学的やないですか」
 「ああ、お前の云うた通りや。これは命題関数」
 望月の素っ頓狂な声に興味をそそられたのか、はたまたEMCの面子の中では比較的数学に強いためか、織田が首を伸ばして会話に加わった。
 「へえ。でも論理学なんて云うたら江神さんお手の物やないんですか」
 望月もうんうんと首肯する。窓外で新緑の葉の間を縫って落ちる光が眩しい。江神さんは少し目を細めた。僕はそれを離れて眺めている。
 「そうでもない」
 「なんでですか?」
 肩透かしの様にあっさりと返された言葉に二人が首を傾げる。それを後ろで眺めている僕には、二人がまるで申し合わせて「せーの」でタイミングを揃えたように息のあった動作であることがよく判った。ついつい小さく口元がほころぶ。
 「命題が絶対のもんやからな。たとえば、」
 と江神さんは少し思案するように親指を顎に当てた。
 「マリアの弁当が何ものかに無断で食べられてしまった、とする。その犯人はー・・・アリスをAやとしようか、モチがBや。で、犯人はAまたはB、論理記号で書くとこうや」
 江神さんは手近にあった裏紙にA∨Bと書き付けた。名指しされた以上は僕も首を突っ込まざるを得ない。がたがたと椅子を引き摺って近寄る。弁当の盗み食いという不名誉な濡れ衣は謹んで返上したい。
 「これやと犯人は必ずAかBのどちらかなんや。共犯はありえない。けど実際はどうや?二人でこっそり食ったんかも知れんやろ。数学的な領域には嘘や矛盾やアリバイは関係ないんや」
 QED、とばかりにペンを挟んだままの長い指をひらひらさせる。
 「それでかえって江神さんには考えにくい、と」
 「そういうことや」
 織田がふうんともううむともつかない声をあげると、望月がそっと呟いた。 
 「『人間的、あまりに人間的』ゆえにかえって考えにくい、というわけですか」
 「なんや、詳しいやないか」
 江神さんは花が開くように笑う。エラリアンの後輩が、ミステリ以外の作品の名を挙げたことが面白いとでもいうように。もっとも望月がミステリのみならず文章による作品を幅広く愛していることはEMC内では周知のことである。
 人間的、あまりに人間的、やて?それは「罪を犯す者」がか?それとも江神さんのことがか?胸の奥がなんだかきしむ。
 「しかし哲学科ってのはこんなんやるんですねえ、なんや意外です」
 他学部の講義内容というのは案外と判らないものだ。経済学部と法学部は2人ずついるために、自然講義や試験や課題のことが話題がのぼる。その中には学内古参学生の江神さんも聞いたことのある名物教授の講義や、或いは内容をある程度想定できる名称のものあった。江神さんは先ず話題に出さないが、西洋哲学史や倫理学概論など、哲学科においても他学部の学生に内容の予測しえるものがあるにはある。ようだ。
 「哲学は総ての学問の基礎やと云う教授もおる」
 「そりゃまた凄い」
 織田が肩を竦めた。
 「あながち否定もできんけどな」
 「たとえば?」
 今度は望月が合いの手を入れる。 
 「卒論は何でもありや。フランス哲学からカミュへ走って文学論をぶつ奴、バタイユとメルロ=ポンティで芸術論をかます奴、ベンヤミンの暴力論からいじめについて書くも良し、ハイデガーでヘヴィ・メタルについて書いた奴もおるらしい。イグナティエフで淋しさについての考証、つう先輩もおったな」
 幾人かは名前を聞いたことがあり、また幾人かは存在どころか国籍さえ不明な名前が並べられる。淋しさについての考証という言葉に、神倉でマリアに話したことを想起する。
 江神さん、江神さんには、淋しさという言葉が、その意味が自分なりに解釈して理解できているのだろうか。彼の存在は、淋しい。それは傍で見ている僕が感じる印象だ。彼自身は、淋しいと思うことにまるで縁がなさそうだと僕は思う。根拠はない。これもただの印象だ。
 「案外つぶしがきくんですね」
 「何でもあり、や」
 「じゃあ江神さんの卒論のテーマが人類協会でもあり、と」
 望月がにやにやしながら口にした。やはり江神さんと卒論が結びつかないようだ。或いは、彼こそ卒業論文を前にしているからこそ出た言葉かも知れない。
 「そうやな。宗教や信仰と哲学は切り離せん。せやから卒論ではつぶしが利くけど、実生活に具体的に役立つようなことはあまりない」
 「なるほど。でもそない云うたら経済学やってそうですよ」
 4人で笑っていると、マリアがやってきて保坂明美から送られてきたという香り豊かな柑橘を配った。







 かくり、と首が揺れた振動で瞼を開く。どうやら眠ってしまっていたらしい。
 背後の窓を見やって景色を確認する。夜に包まれているため判然とはしないが、どうやら寝過ごしていはいないようだ。こき、と首を回して軽く息をつく。随分と他愛ない夢を見た。あれは俺が出る直前やったから、一ヵ月半前くらいのことだったろうか。
 初夏の緑が眩く、小汗ばむような陽気の日だった。つい最近のことに違いは無いのに、どこか夢うつつのようにふわふわと淡い。同時に目を焼くほどに鮮やかにきらきらしい。
 美しいもの。愛しい日々。
 時折アリスが思案に耽るような顔付きをしていたかと思うと、不意に顔を上げて俺を見た。その、目。まっすぐな。
 俺が「現実への復讐」と云った言葉を、画家は「自らに云っているようではないか」と投げ返して寄越した。優雅な生活、現実への復讐。
 復讐、とそのざらつく言葉を俺は口の中で転がしてみる。
 その言葉は、強すぎる。形にしてしまうと、随分と大仰にも格好付けのようにも聴こえる。
 そうやない。何かもっと、不確かであやふやで、漠然としたものだ。強いて表現するなら復讐という単語の枠の中におさまる程度のもの、というだけの、何か。嫌悪?侮蔑?違和感?諦念?疎外感?悪意?
 どれもしっくりこない。
 改めて瞼を閉じる。電車の走行音が振動とともに鼓膜を打つ。
 葉の間から零れてきらめく残光が瞼の裏側で弾ける。自分の髪からは土の匂いがした。現実は、現実には美しいものも多く用意されている。それは常に馴染みのない新鮮なものであり、また見慣れた懐かしさをも俺に与えきた。
 そう。確かに俺は優雅な生活を送ってきたんやろう。授業料は安いものではなかったが、それでも好きな時に好きなだけ本を読み、好きな時に起きて好きな時に眠った。気が向けば授業に出た。それには興味深いものもそうではないものもあったが、どれも楽しいと云うには充分だった。そして、俺は延々と学生でいることを選んだ。それは確かに復讐じみているだろう。
 予言などは当たらない、と笑うために?
 予言の通りになるという可能性を消去しないままで否定するために?
 だとしたら、俺の行動は母への復讐なんやろうか。それとも、父への?そうした親のもとに生まれたという「運命」への?
 やはり随分とオーバーになる。そんなにご大層なものでもないはずだ。
 それでも俺は考えたんや。兄の死について、親父が俺より先に死ねば予言の構成条件が変わるということ、そもそも大学に行かないこと、すんなりと卒業してしまうこと、愚にもつかないような妄想から現実的な問題から、俺は俺なりに考えて選んできた。投企、アンガジュマン。
 確かに実の肉親に死を予見され、先天的な病でも何でもなくそれが実際に起こるという経験はそうは転がって居ないだろう。
 兄が死んだ時、勿論母は哀しんでいた。けれど、
 「やっぱり」
 と涙声で呟いた声は、やっぱり忘れられん。
 何がやっぱり、や。どんな予定調和やろうと、人が1人死んで、やっぱりもなにもあるか。
 母も死なずに済めば良いと思ったろうか。思っただろう。
 けれどそうはならなかった。兄貴は死んだ。
 それを仕方が無いと諦めるのか。仕方が無かった、で人が1人いなくなることを受け入れられるものか。諦めきれるものか。
 つきりと頭の奥が痛む。この3年間、あまりに人が死ぬ、否、殺される場に出くわしすぎた。これは間違いなく異常だ。その異常さは、正直なところ、俺にますます死んでなるものか、死んでなどやるものか、という思いを強くさせた。
 (俺は人でなしやったんやな)
 言葉で語りきれるほど、「現実」とやらはシンプルでもなんでもない。 
 −運命なんて犬と同じだ。逃げる者に襲いかかってくる。−(有馬マリア)
 なんて。以前に独白めいて呟いた後輩の言葉は、なんと潔く勇ましく、逆ギレじみた人間臭いアフォリズムだろう。秀逸やな。
 瞼を開けて眺めやる窓外の景色は、飛び去っていく中にも人間の生を確かに感じさせる光がある。
 生きているものの、生きていくものの、放つ光だ。
 俺には、どこか遠い。




 下宿に戻ると植木鉢の位置が少しばかりずれている。あれ、と思って戸を開けると、真っ暗な部屋でアリスが振り向いて悲鳴のような声をあげた。それは単に驚いたようにも、俺の名前を口走ったようにも聞こえた。 
 「どっ・・・どこ行ってたんですか?!」
 大股で俺に歩み寄ると、胸倉に齧り付かれた。随分と切羽詰った表情と声で問われる。
 「奈良や」
 やっぱり心配をかけたな、と心苦しくも、俺はいつも通りの顔を作ってみせる。自覚はあるが、こうした素直さを持つ相手に接する際には、これは誉められたことではない。
 「奈良ぁ!?」
 下宿中に響き渡りそうな大声が寄越されるので、俺は慌てて人差し指を自分の唇に持っていった。察したアリスがしまったという風に目を丸くする。
 「何でまた奈良なんですか・・・っ!僕の推理は丸外れやったってことや!」
 なんや、賭けでもしとったんか、と俺は云おうとして、やめた。そんなはずが無いことなら、この素直な後輩を見ればよく判る。茶化すことも煙に巻くことも、誤魔化すことすらも躊躇われるほどの真っ直ぐさは、時として暴力じみている。何かを圧倒的な力で持って左右するという意味において。暴力には、きっと本来純粋に力の作用という含意がある。
 「何で、ってバイトや。長期発掘の」
 俺の言葉が、真摯に彼の耳に届いたらいいと思う。
 言葉にならないという風に、後輩はえもいわれぬ珍奇な顔になって口をパクパクとさせる。失敗したか?
 「だっ、だって・・・!休学届けも出さないで試験は、単位は、卒業は!」
 「待てアリス。落ち着け」
  すう、とひと呼吸大きく吐くと、「あの意味深な葉書はなんです」と云った。そう来るか。ひた、と俺を見つめている。
 「片付けしとったら、出てきたんや」
 「は?」
 「フィニの絵。なんかの時に話題に出て、観たい云うとったやないか」
 呆然と無言になってしまった後輩は、どうやら例の「予言」を知っているらしい。マリアが話してしまった、でも人に簡単に話していいことじゃなかった、と謝ってきたのだ。人が人に振り回されることは、ひどく無惨で腹立たしい。
 違うんや、アリス。俺があんな状況であんなことを口走ったら、マリアが気にしないはずはなかったんや。俺にはそれが、解っていた。それでもふと口をついたのだ。気に病んだマリアが、誰かにそれを溢したことは何も悪くない。
 せやから、そんなに憂いてくれるな。
 俺に、振り回されたりしたら、あかん。

 「単位はもう、揃っとるんや。せやから、試験もレポートも関係ない。奨学金を少しでも返しておきたいと思ってな」
 立ったまま暗い部屋の中で詰め寄られている理由が見えてきた。思い違いや。神倉でのことがあった後やから、ナーバスになるやろうと思って一筆書いた。大きな誤差や。こいつは、絵葉書のメインである絵すら見ずに、俺の言葉に気を取られた。そうさせたんは、俺や。
 電気を点け、腰を下ろして灰皿を引き寄せた。明るくなった部屋を見回して、「これで片付けたんですか」とアリスが揶揄を寄越して腰を下ろす。
 「そうやけど」
 と俺がきょとんとするのが面白かったのか、アリスは派手に吹き出した。気が緩んだのかも知れん。「茶か、コーヒーか」と訊きながら立つと、コーヒーと背中に応えが寄越される。
 「アリス」
 「はい?」
 白々しいほど煌々とした蛍光灯の下で、煙を換気扇に吹きかける。渦を巻き、引き千切られては吸い込まれるそれ。
 「俺は卒業するつもりや」
 「・・・・・・そうですね」
 察しがいいことは、時として不憫だ。
 30までに死ぬ、ということは30歳になる前であればいつでも有り得るということだ。今ガス管が破裂して死ぬことだって構成条件としては有りだ。いや、それだとアリスが巻き添えを食うから、やっぱりなしや。俺は捨て鉢な冗談を胸の奥に押し込める。ただ、アリスが気にしているのはそういうことなのだ。
 本当は、予言なんかなくとも人はいつ死ぬか判らないというのに。
 なのになぜ、こんな風に縛られなければならないんだ?
 俺が復讐すべきだというのなら、それに対してこそやないのか。
 取りとめもなく、そして何遍も繰り返し考えてきたことを遮るように薬缶が悲鳴を上げる。
 俺は卒業するつもりや。そうしたら、30になる頃には学生やない。それだけのことや。アリス、それだけのことや。
 
 光は、いつもどこか遠かった。
 ただ、君という光が真っ直ぐに俺を見つけて飛び込んでくる。
 どうか俺に、つよい「力」を。
 睡蓮の葉の船から降りて、見送るだけの。
























 卒業式の後に、江神さんはみたび姿を消した。下宿はもぬけの空だった。
 今度は葉書も届かなかった。
 「ほな、またな」と云って別れたのが最後だった。彼は笑っていた。

 彼はきっとどこかで生きているのだろう。
 江神さんの「必ず帰る」と、「またな」の言葉が、僕に残された予言だ。

 







END



バッドエンドのつもりじゃないですよ?(二回目。
一応、両想いなんですよ?すれ違うだけで。

だめですわ。ムーミンにはスナフキンを引き止められないんですよ。そういうことなんですよ。どこかに行くことを、それこそスナフキンの四肢をもいで阻んだとしても、そうしたらそれはもうスナフキンだけど自分の敬愛するスナフキンじゃなくなるってことを、ムーミンはわかってる。だから淋しいけど、毎回見送る。つまりは、そういうことなんですよ。
学生アリスの結末に、私はどうしても江神さんが失踪することを考えてしまう。自由になってもならなくても、彼はどこかに行ってしまう人に思えてならない。それを、アリスはたぶん止められない。付いて行くことも、きっとできない。

いやあ。しかし江神さんモノローグ、難しい。しかも初っ端から核心をつこうとしてしまった私が愚かでした。いやしかし江神さんを書く際に「予言」は無視できないんだ。それを他人ではなく、本人に語らせたかったんだ。
(私の頭の中の)江神さんてなんか時々ふっと喋り出すんだけど、そういう断片の言葉以外を喋らせようとすると、客観性がやたら強くなって一人称の文じゃなくなるみたいになる。説明口調で。なんなのこの人。いやなんなの私の江神さん観。

イメージはCocco「ガーネット」、宇多田ヒカル「光」
だったのに、何故かリリィ・シュシュの「共鳴(空虚な石)」を聴いていたらしっくりきてしまって参った。

本文内のマリアの言葉はモノローグなので、本当は口に出されてないです。単に私が好きなのです。


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