人生事件
−日々是ストレス:とりとめのない話 【文体が定まっていないのはご愛嬌ということで】
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| 2003年12月10日(水) |
あなたのことが気になると、そういう視線を |
サービス業は、目が命。
他者の双眸を見るというのは、慣れないうちはとても嫌なものだ。昔、まだ私が現役いじめられっ子だった小学生時代とか、非常に内気だった中学時代とかは、誰かの目を見て話すだなんて行為は、自傷行為に近いものがあったように思う。それくらい、相手の視線が怖かった。視線の中にある相手の自分への負の感情に傷つくことが嫌だった。
今はと言うと、アイコンタクトへの苦手意識は薄れてしまった。むしろ、「ああ、この人は視線を合わすことのできない人なんだな〜」とか、余裕で見ていたりする。視線をぶつけないと負けてしまう、飲まれてしまうということを覚えたからであろう。初対面でもにっこりと笑いながら相手を見据えることができるようになってしまった。 看護という学問を勉強したからだろうか。病んだ人をある一定期間ずっと見るという実習の中で、人と接するにはまず相手を見ないとどうにもならないということを頭と身体で理解したから。
入学試験とか就職活動では相手の目を見るのは難しいだろうから、面接官のネクタイの結び目を見なさい、と教諭から指導された記憶がある。そんなんじゃ、いかんだろうと思うのだが。日本人はアイコンタクトの苦手な民族、というのを何かの授業で聞いたことがある。それを身をもって知ったのは、サービス業である今の職業についてからだ。
とにかく、目を合わそうとしない大人が多い。聞いてる?分かってる?と揺さぶって視線を上げさせてやろうかと思うことが、時々あるほど。反応が分かりにくくて、付き合っているほうも真剣味を欠きそうになってしまう。わざと視線を外しているのかどうかは、ある程度見極められるようにもなってきた。わざとでない人が圧倒的で、ちょっと考えてしまう。
子どもはそうじゃない。子どもと接したことのある人は分かると思うが、子どもはある意味不躾なほど、興味津々な瞳で人を見てくる。相手から何かを得ようと、じっと見上げてくる。興味がありますよ、ということを目から身体いっぱい訴えてくる。 人は人と、一体いつから視線を合わすことができなくなるのだろうか。
目は口ほどにものを言う、というのは正しい。感情は表情、特に目元に現れる。好意も悪意も、瞳の光から溢れ発せられる。
私は思う。アイコンタクトを取れないままじゃ、本当に欲しいものは一生手に入らないだろうと。
感情を込めて、目を見て。
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