一度だけの人生に
ひろ



 卒論2

太宰の随想「感想について」を読み、
そして卒論を書いていながら思うことがある。

僕は太宰の小説や随想や
その他年譜、聖書、書簡を使って、
太宰に僕の望む、あるひとつの表情をさせようとしている。

太宰のことを書いていながら、
いつの間にか自分の事を書いているような気に
なってくる。

自分の思う方向に太宰を導いているような
そんな感じ。

それは感想であれ、論文であれ、
仕方のないことだとは思う。
けれどもなんとなくつまらない思いもする。

書いていながら思う。
太宰はただの甘えん坊、夢想家で感傷家。
友達が言っていた。
「金に困ることのない
お坊ちゃんが書いたと言う感じたっぷりの・・・」

それはますます、強く思う。

けれどもそんなお坊ちゃんの言うことの中に
どうしても苦労人が否定できない何かが、
太宰本人曰く「盗人の三分の理」と言う、
その「三分の理」が確かにあるような気がして、
それを自分なりの方法で明らかにしたいと思う。


「まかり間違うと、鼻持ちならぬキザな
虚栄の詠歎に似るおそれもあり、または、
呆れるばかりに図々しい面の皮千枚張りの詭弁、
または、淫祠邪教のお筆先、または、
ほら吹き山師の救国政治談にさえ堕する危険無しとしない。」

                太宰治『父』


僕の卒論もそんな危険を無しとしない。
いや、おそらくほとんどそんなものになるだろうと思う。
そしてまた三分の理を明確にしても盗人は盗人。
この世の中の、秩序と倫理に沿って
【正しく強く】生活している苦労人からの
嘲笑と面罵は免れない。苦笑され、呆れられると思う。

けれども「孤独と焦燥の地獄」である青春の締めとして
この地獄の悲鳴と、悲鳴の中の小さな「本当」を
探し出して、書いてみたいと思う。





2003年11月18日(火)
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