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2008年10月28日(火) 原ジャパンとは奇怪

迷走を続けていたWBC日本代表監督問題が、原(現・巨人軍監督)の就任で決着した。NPB(日本プロ野球機構)が、わけのわからない委員会を組成し、既定路線の星野五輪代表監督で押し切ろうとしたものの、MLBのイチローの苦言で覆った。WBCで実際に戦うのは俺たちなのだから、監督についても一言言わしてほしい、NPBの既定路線はおかしいぞ、というのがイチローの主張だった。イチローの主張は、筆者の考えと極めて近いし、現役の、しかもMLBのトップクラスの選手の言葉なので、重いものがあった。

ここから先は想像であるが、イチローの苦言の背景には、日本プロ野球における大卒勢力とそれ以外の勢力との出自の対立があるように思う。日本プロ野球界における大卒勢力を代表するのが星野だ。彼は明大野球部出身だが、明大野球部に限らず、どこの大学野球部でもOB同士は固い絆で結ばれている。星野の場合、一大学にとどまらず、その人脈を六大学野球OBにまで広げていることはよく知られており、北京五輪代表チームのコーチ陣を六大学の法大OB・田淵・山本で固めたことは周知の事実だ。

そればかりではない。星野は経済界、政治家にまで人脈を広げ、北京五輪で金メダル獲得に成功していれば、彼は英雄として凱旋し、政界への進出も考えられた。もちろんそのこと自体は間違いではない。政界だろうが経済界だろうが、スポーツ界で活躍した人間が、その野望を各方面に広げることを否定しようもない。

ところが・・・である。星野に限れば、彼は大学体育会の悪しき伝統を受け継ぐ野球人だ。物的証拠はないものの、プロ野球にあっても、監督時代、ある選手に鉄拳制裁を加えていたことは疑いようがない。大学体育会は先輩が後輩をしごくのはあたりまえ。先輩が後輩に対して無理難題をふっかけて、それができなければ殴って当たり前の世界であり、大学野球出身者は、その伝統をプロ野球界にまで持ち込んだ。

スポーツ・マスコミはそうした事実を知っているのか知らないのかはわからないのだが、星野を熱血闘将と書き立て、理想の上司と奉った。社会通念では、上司が部下に鉄拳制裁を加えれば、理由の如何を問わず、傷害罪が適用される。しかしながら、スポーツ・マスコミは、星野を理想の指導者であるかのように報じた。職業野球の世界では、監督と選手は、事業者同士であり、役割上、監督は選手の起用に関する権限を持つに過ぎない。だから、選手は監督の指揮の下に入るが、それだけの話だ。

イチローは、日本人メジャーリーガーを主体としたWBC日本代表が星野監督の下で好成績をあげたとしても、監督(星野)が脚光を浴びるだけで、選手に対する評価が正当になされないことを――そして、WBCで日本が優勝したとしても、日本のスポーツ・マスコミによって、その成果が星野にわたることを――さらに、日本代表がWBCで勝った日のスポーツ新聞の見出しが、「星野監督、北京のリベンジ」で埋まることを――察知したのだと思う。

単身米国に渡り、MLBで活躍している選手の経歴をみると、井口が青山学院大を卒業しているものの、彼以外の日本人メジャーリーガーの松坂、イチロー、岡島、岩村、松井稼、松井秀らは高卒だ。日本人がMLBで活躍する門戸を開いた先駆者・野茂もそうだ。

日本の高校野球界と大学野球界とでは、共通する体質もあるが、大学野球界=体育会のもつ風土には独特のものがあり、それは日本のスポーツ界の暗部だと言って言いすぎでない。
MLBで活躍する高卒選手は、自分の実力をもって、米国で大金を稼ぐことを一義とする一方、大学卒業の一部の選手たちは、日本のプロ野球界というドメスティックな分野で人脈を駆使して生き残ろうと喘いでいる。そして、その頂点の一角に位置するのが星野であり、星野はその象徴的存在だといえる。星野に代表される体育会的風土とは、鉄拳制裁=暴力体質を保持し、その体質で指導を行った子飼いを勢力下に従え、政治力、OB人脈を駆使して利権構造までつくりあげてきた。その体質が読売グループを介して、NPBに持ち込まれているのだ。

筆者はイチローを好きではないが、彼が明快に星野=日本のプロ野球の大学体育会人脈に「ノー」をつきつけたことは痛快だった。イチローが、読売や大学野球人脈に対して、インターネットを通じて異議を唱えたことは、日本野球界の近代化に資する。

NPBの醜悪なダッチロールは、原(読売)監督の代表監督就任をもって終焉した。こうした人事を、「妥協の産物」と呼ぶのかもしれない。それはそれとして、日本プロ野球が現役の球団監督を代表監督に選んだことは誠に奇異というほかない。サッカーにたとえれば、人気クラブの浦和レッズの監督が日本代表監督を兼ねるようなものだからだ。

原巨人軍監督がWBCにおける日本代表監督を兼ねるということは、巨人球団の監督としての任務の一部を放棄することを意味する。そうまでして原に代表監督をやらせなければ、監督の選びようがないという現実が、日本のプロ野球界の悲しい貧困を物語っている。元監督、元名選手、元コーチの評論家や名球会会員等々の指導者予備軍が掃いて捨てるほどいるのにものかかわらず、日本代表監督を任せられる専門の監督が見当たらないのだ。

野球とサッカーはその環境をまったく異にするスポーツだから、代表チームのあり方も、代表監督のあり方も違うのは仕方がない。野球日本代表が、南米やアジアの国の代表チームとテストマッチ(親善試合)を行う機会はいまのところない。FIFAのような世界的指導団体が主催する、W杯、アジア杯、地域大会もない。唯一の世界的ビッグイベント・五輪大会は、北京で終わってしまった。残されたのはMLBが主催するWBCだけ。そんな状況で、専任の代表監督を置くことは難しいことは理解できる。だから、「五輪〜WBCをひとりの監督(=星野)に任せる」という既定路線に合理性がないわけではない。但し、その合理性は、「星野」でなければ、という条件の下で成立する。北京五輪を見た日本国民は、星野の「代表監督」としての手腕と体質に異議を唱え、さらに、現役の日本人メジャーリーガーがそれに同調し、彼を代表監督の座から引き摺り下ろした。当然である。前述のとおり、星野の野球への取り組みは、大学体育会のそれであり、暴力と人脈によって築き上げた利権体質そのものであり、健全なスポーツとは遠いからだ。

そんなわけで、WBC日本代表及び原新代表監督に期待するものは何もない。野球をサッカーと対照しつつ、「日本代表」を論じることが非論理的だ。でも、「星野」でなかったことは、日本プロ野球界のささやかな前進だと評価してよい、と筆者は思っている。


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