| 2008年08月12日(火) |
テレビはスポーツ中継の道具 |
五輪報道、甲子園報道について苦言を呈したい。日本人選手の栄誉や試合で活躍した選手を称えることに異論はない。メダルをとった選手、本塁打を打った選手は立派だと思う。だが、成功の裏に隠された「ドラマ」とやらを、ことさら、TV映像で見せられる側はたまったものではない。開き直って言えば、現在、世界レベルのアスリートたちは、すべて、驚異的な努力の基にあり、それなくしての成功はない。<裏>は<表>よりもすさまじいのであって、それを大袈裟に取り上げても仕方あるまい。<裏>を一々TV映像で再現されたのでは食傷してしまう。
“持続することが才能である”とは、最近良く耳にする言説だ。成功したアスリートたちは、科学的なエキササイズの積み重ねとその持続によって、栄光を手にする。もちろん、筆者のような凡人がトレーニングを持続したとしても、世界に通用するアスリートにはなれない。天賦の才に恵まれた者が、そのうえで、厳しいトレーニングを持続することによって、栄光に輝く。生まれつき才能に恵まれた者がそれだけで、五輪で勝てる確率は低いようだ。世界の壁は厚く、かつ、高い。
五輪で勝てるアスリートの条件は、恵まれた才能のうえに、さらに鍛錬を重ねることだ。鍛錬の積み重ねとは、忍耐とも言う。欲望、ケガ、故障、人間関係、家族・家庭環境、経済的環境・・・といった諸条件が鍛錬の持続の妨げになる。それらを除去するには、スポーツの才能だけでは不十分だ。アスリートを補助し支える者が必要となる。その代表的存在として、スポンサー、師(コーチ)、医師、トレーナー、家族,友人、恋人・・・などが挙げられる。それらを組合せることによって、スポーツを核とした「ドラマ」が生まれる。スポ根(スポーツ根性物語)がその代表的存在だろうか。
筆者は、アスリートの栄光の陰に隠れた「物語」を好まない。TVのグルメ番組が、厨房の中に入り込むことを快く思わないことと同じ価値観からだ。料理人はその昔、板さんと呼ばれ、“包丁一本さらしに撒いて”の流れ者であった。彼らは誇りを持った裏方であった。店の評判は店の名前に帰し、料理人の名前にでないという鉄則に潔く従っていた。店の暖簾と料理が脚光を浴び、厨房と料理人はそれを支えた。そのような中にあって、筆者は暖簾を支えている者の存在に畏怖を抱いた。見えない料理人の腕前をリスペクトした。最近のグルメブームは、厨房を公開し、料理人がしゃしゃり出てきて、料理に薀蓄をかたむけることが多い。筆者にはそれが不快でたまらない。しばらく前、数人の料理人がスタジオに集まり、限られた時間内で料理をして、それを芸能人が食して、順位を競う番組があった。愚の骨頂だ。「名人」と呼ばれる料理人が、テレビを騒がせる世の中になってしまった。
話がだいぶ横道にそれてしまったけれど、筆者とアスリートとの関係は、彼らのパフォーマンスの鑑賞にあるのであって、彼らの忍耐の持続や、まわりの者の手助けには向けられない。もちろん、厳しい鍛錬を見て感動する者もいるだろうし、それを好む人もいるかもしれない。相撲の本質は、本場所よりも稽古場にある、という「鑑賞のプロ」もいるが、筆者の趣味とは異なる。
アスリートを支えた恋人や家族の存在はアスリートにとってかけがえのないものであって、それだけのものだ。万人に共有されるべきものではない。いっとき問題となった亀田ファミリーも同じだ。TVは中継で、ボクサーとしての亀田選手の試合、つまり、スポーツそのものの美しさ、強さを視聴者に見せることに徹すればよかった。ところが、奇妙な父親が脚光を浴び、見当違いのファミリー(父と子)の「物語」が語られ、ナンセンスな「教育論」が飛び出し、最後に二男の反則に及んで「物語」は終わった。
五輪、甲子園に限らず、TVの役割は、スポーツそのものを中継する道具にすぎない。そのことをわきまえ、よく見える道具に徹してほしい。スポーツに必要な情報を提供することは重要だが、それとは次元の異なる人間関係や苦労話をつけないでほしい。ハイレベルのスポーツは、素材だけで美味なのだ。余計なソースやトッピングはいらない。
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