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2007年10月21日(日) 亀田騒動と日本社会の変容

そもそも亀田ファミリーは違法商品なのだ。WBCルール第38条には「家族のセコンド禁止」の規定があるが、JBCが認めていた。元WBC世界フェザー級王者越本と、父英武会長らの前例もある。ルールよりも、「親子鷹」の人気を優先してきたのが日本ボクシング界だった。それが仇となって、今回のように史郎トレーナーは大毅の反則行為を止められなかったばかりか、反則指示疑惑まで浮上していた。しかも、史郎トレーナーにはトラブルを起こした「前科」があった。JBCがWBCルールを厳格に適用すれば、今回のような反則試合は起きなかった可能性が高い。それができずに、違法商品である亀田ファミリーの存在を許してしまったのだ。

いまになってWBCルールの適用がなされていないといっても手遅れというもの。亀田ファミリーがブーム化する前に、JBC、スポーツジャーナリズムがその違法性を指摘すればよかった。今回、内藤陣営が亀田ファミリーの違法性に異議を唱えたが、JBCもスポーツジャーナリズムも無視した。内藤陣営は孤立無援のまま試合を迎え、試合直前のルール説明のとき、史郎トレーナーから恫喝を受けた。JBCが亀田ファミリーという存在そのものの違法性に目をつぶったのだから、大毅が反則をしてもいいとまでは言わないが・・・

さて、筆者は当コラムで、亀田ファミリーは“ヒール”を演じているのではなく、“ヒール”なのだと書いた。“ヒール”とは悪役の意味。米国のプロレス界で発展したキャラクターで、“ヒール”を演ずるレスラーはルール無視、反則の常習者。反則技や凶器攻撃でハンサム(善玉)を痛めつけておいて観客の怒りを買い、ハンサムの反撃を望む声が高まった頂点で、結局はハンサムに撃退される。

米国社会は格差社会である。その構造を大雑把に言えば、WASP(白人・アングロ=サクソン・新教徒)を頂点にして、それ以外の白人が中位を形成し、イタリヤ系、アイルランド系等が白人社会の下層を形成する。さらに、その下にカラード(アフリカ系、アラブ系、アジア系、中南米系)が位置する。微妙なのがユダヤ系だが、プロレスの“ヒール”とは関係ないので、ここではそれに触れない。

米国プロレス界の“ヒール”は、概ねWASP以外である。プロレスの観客がWASP以外の白人層から支持された時代(1950〜1970年代)は、第二次世界大戦の敵国・日本人(日系)・ドイツ人レスラーが“ヒール”のはまり役だった。東郷兄弟、ハロルド坂田、ハンス・シュミットらが名高い。その後、プロレスの客層が拡大し、ソープオペラと呼ばれて階層の上下にファンが拡大するに従い、“ヒール”が人種・国籍に規定されることは少なくなった。日系、アジア系、アフリカ系レスラーがむしろハンサムになり、「汚い」白人レスラーをやっつけるという図式も広まった。

だが、いずれにしても、プロレスの“ヒール”は役割・役柄であって、演技の範疇にある。“ヒール”というキャラクターを格闘技風に演じるのがプロレスである。何が言いたいのかといえば、米国の“ヒール”には、米国社会の実相が反映されているということだ。大げさに言えば、米国のプロレスの“ヒール”は社会学の分析対象となる。かつて、社会の上層にいけない白人は表向き人種差別を控えたものの、心の奥底で非白人に敵愾心をもっていた。彼らのカタルシスは、プロレス会場で“ヒール”の非白人をののしることによって、解消された。

筆者は、亀田ファミリーは“ヒール”を演じていると思っていたが、実は“ヒール”そのものなのだ、と当コラムに書いた。

亀田ファミリーの「謝罪」会見で史郎トレーナーが記者からパフォーマンスをどう思うかと問われ、彼が「そのことはいま、わかりません」と答えたのが印象的だった。この回答から、亀田ファミリーには、「パフォーマンス」=「ヒールを演じる」という意識がないことがわかる。史郎トレーナーは「とりあえず」を連発し、「自分達のスタイルを続ける」といい続けていた。「自分達のスタイル」というのは“ヒール”を演ずることではない。“ヒール”=彼らの地で、この先も行くよ、と話したかったのだ。「とりあえず」というのは、「自分達にはそれしかない」「それ以外はない」「ほかに考え付かない」という意味だ。だから、彼らが普通のボクサーに戻る保証はない。試合が決まれば、おそらく相手選手に罵声を浴びせ、無礼な態度で記者会見に臨み、相手選手に襲いかからんばかりに睨みを利かせるだろう。

史郎トレーナーは、反則指示について記者から聞かれ、「(反則指示は)していない・・・そっち(記者)がどうとらえようと自由だが・・・」と答えた。おそらく、史郎トレーナーの頭の中では、二男大毅が試合で反則をしたとは思っていないのではないか。史郎トレーナーには反則という概念がないと思う。

そればかりではない。もう一つのキーワードは「そっち」である。「こっち」と「そっち」つまり「亀田家」と「社会」もしくは「世間」との対立軸である。史郎トレーナーは常々、「自分達の前進を邪魔する奴をぶっ倒す」という意味の発言を続けているらしい。筆者にとって、亀田ファミリーとは、プロボクシングの世界から突如出現したモンスターに見える。彼らはどんな生き方をしてきたのだろうか。彼らが頑なに「こっち」に閉じこもる所以はなにか、その価値観はどこでどのように形成されたのか・・・

報道によると、彼らは、プロボクシング界で有名になる前、大阪の下町で、あまり裕福とはいえない生活を送ってきたようだ。史郎氏はボクサーを目指すも挫折し、解体業を営みながら子供たちにボクシングを教えてきたという。その間、史郎氏は離婚。亀田ファミリーの父子の発言をテレビ出演、記者会見で聞く限り、かなり粗雑なしゃべり方をするし、相手に敬意を払うことや礼儀作法を知らない。社会常識、教養はなさそうだ。その態度・言動からうかがえる基本的姿勢は、邪魔は許さないというものだ――たとえば、車二台がすれ違えない狭い道路にあって、史郎トレーナーが対向車に道を譲ることは絶対にないだろう。彼らは混雑した電車の中で座席を独占し、そっくりかえって座席に腰を掛け、足を投げ出したり、足を組んだりして、周りの乗客に迷惑をかけるようなタイプだ。

こうした人物はどこにでもいるし、珍しい存在ではないのだが、ボクシングでのし上がり、しかもマスコミのおかげでその生き方が容認されだしてから、かれらはモンスターに成長してしまった。地球外生物が地球にやってきて、地球上の「悪」を吸収して巨大化し、凶悪なモンスターに変身するSF映画があったが、そのような現象が亀田ファミリーに起きてしまった。たとえば、およそ、読むに耐えない史郎トレーナーの「教育論」が活字になり、書店の“教育書コーナー”に並んでいるらしい。この本を出版した出版社と編集者は、責任を感じるべきだ。かれらは本質的な“ヒール”であり、反則容認の家族なのだから。テレビ特番もあったらしい。見ていないので間違っていたら訂正するが、この特番も家族論・教育論が視点のようだ。彼らが「理想の家族」ならば、日本は反則(犯罪)王国になってしまう。

「勝てば世間は、(自分達への)態度を改める」という勝利至上主義も話題になっている。これまで実際のところ、亀田ファミリーは勝つことによって、ルールを無視できた。親族がセコンドについてはいけないというWBCルールは適用されなかったし、勝つことにより周囲の亀田家に対する扱いは破格のものになっていったのだろう。残念なことに、マスコミ(TBSテレビ)やスポーツジャーナリストらが、亀田家を下にも置かない扱いをしたのだろう。彼らの哲学が正しいことが証明されてしまったのだ。

亀田騒動は収束に近づいているが、亀田史郎トレーナーの心の闇の部分が解明されたとはいえない。筆者には、日本社会において亀田家が象徴するものが仄かに見えているものの、そのイメージをいまだ言語化するに至っていない。彼らは日本社会の変容と無関係ではない。たとえば、学校におけるモンスターペアレントや給食費不払者らと共通するような気もするし、そうでないような気もする。あるいは、急速に進みつつある社会の階層化と無関係ではないかもしれない。指標は定かではないが、日本社会を構成する特定集団として彼らを象徴的に規定できるような気がする。もし規定できたとしたら、その存在が日本社会にとってプラスだとはいえない。

戦後、日本プロボクシングの歴史は白井義男から始まったといわれ、その後継者は具志堅用高だった。白井は貧しさから世界を目指そうとする戦後復興の象徴であり、カーン博士との二人三脚は日米安保体制の象徴だった。そして、ウチナンチュー具志堅が世界王者になったことは、沖縄本土復帰の完全なる成就(日本の完全独立)の象徴だった。二人が象徴する「日本人」が日本を支えてきた。つまり、日本のボクシング王者は強くして奢らず謙虚だった。彼らはまちがいなく、日本社会のプラスのイメージであり、日本ボクシング界には白井の遺伝子が脈々と伝えられたきたはずだった。

しかし、その王道は、亀田ファミリーによって大きく崩れてしまった。ストイックで謙虚で強いというボクシングのプラスイメージが変容したということは、日本人のストイックさ、謙虚さ、そして強さが否定されたことに通じている。

ボクシングファンの筆者が亀田騒動で言いたかったのは“日本人ボクサーの美学とは、実は、日本人そのものの美学にほかならない”ということだ。亀田ファミリーはその真逆の存在であり、筆者には、その存在が耐えられない。


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