| 2007年10月27日(土) |
父の不在が痛々しい。 |
一見、「亀田騒動」に終幕が訪れたように見えるが、TV報道で興毅の会見を見た限り、父・史郎トレーナーの不在が「亀田騒動」の闇の深さを暗示している。本来子供を守るべき父親が姿を見せず、長男が世間に詫びる姿は痛々しい。二男の不祥事に対して父親が逃げだし、父親の代わりに兄が謝罪する「家族」が、いったいどこの国にあるというのだろうか。
史郎トレーナーは自分が果たせなかったボクシングの夢を子供に託し、幸いにして子供達がボクシングで成功することにより、大金が転がり込んだ。しかし、安易な金儲けが続くものではない。このたびの二男の敗戦、反則騒動で世間の非難・批判が高まるや、一転して責任のすべてを、試合をした二男になすりつけ、形ばかりの謝罪会見でお茶を濁そうとした。
最初の会見では反則指示の疑惑を否定したものの、それを受けて世間の非難・批判がより高まるに及んで、長男を身代わりに立て謝罪をさせ、自分の疑惑をうやむやにした。父は反則指示に対する謝罪を最後の最後まで拒否した。
史郎トレーナーがセコンドライセンスを返上したといっても、WBCルールに基づけば、そもそも親族がセコンドを務めることはできないのだ。ルールが適用されれば、この先、父親は息子の試合に臨めない。史郎トレーナーに失うものはなにもない。父の本心は、謝罪だけは何が何でもしない、ということのようだ。父・史郎トレーナーの“ヒール”の面目躍如といったところか。何度も書くように、亀田史郎という人物は、“ヒール”そのものなのだ。
この先、亀田兄弟は金平ジムで練習をし、普通のボクサーとして、試合をこなしていくことになる。1年間試合ができない二男は、6回戦から出直して、日本ランカー入りをまず目標とするべきだ。3ヶ月試合のできない長男は、フライ級で世界王者を目指す前に、日本ランカー上位者と試合をすることが禊の条件の1つとなる。そこで負ければ、先の世界ライトフライ級王者の「実績」が作為であったことが証明され、勝てば、世界ランカーとしての実力が認められることになる。
かつて当コラムで書いたけれど、プロだからパフォーマンスが許される、演出は構わない、という日本のスポーツ風土は間違っている。プロというのは、その道の専門家なのだから、専門分野で人を惹きつけなければ、プロといえない。たとえば、米国MLBにいる松坂が投球で人を惹きつけられなければ、どんなにキャラクターや言動に特徴があっても、評価されない。松坂は投手なのであって、タレントではない。松坂が歌っても踊ってもかまわないが、野球で活躍できなければ、スポーツ選手として失格である。こんな当たり前のことが日本のスポーツ界に定着していない。亀田がボクサーとして実力があれば、それだけでファンは試合を見に行く。日本のボクシングが低迷したのは、実力のある選手が少なくなったからだ。その間隙を縫って、つくられた世界チャンピオン・亀田が出現したが、あっという間にメッキがはげた。
スポーツに即席、作為、演出は不要だ。物語は要らない。野球は筋書きのないドラマであり、サッカーはファイナルの笛が鳴るまで何が起こるかわからないのだ。だからこそ、人はスポーツに魅せられる。ボクシングだって、逆転KOシーンがあればこそ、ではないか。亀田の勝ちがわかっている試合に大金を出してチケットを購入する客がいること自体が不自然だとは思わないか。
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