| 2007年04月12日(木) |
脱税を見逃すな―アマに渡った裏金は― |
横浜球団が、アマとプロとで定めた契約金の上限規定を超えて、アマの指導者・関係者に不適切な金銭を渡していたという。選手の契約金に選手育成費を上乗せしたらしい。いまのところ、横浜球団だけが実態を暴露したかたちだが、この先、複数の球団、いや、全球団において、裏金の支払があった可能性を否定できない。
いまマスコミは、このことを悪事であるかのように報道しているが、筆者の見解では、これはまっとうな経済行為の結果報酬の受取りだと思うのだが、いまのプロとアマの倫理規程に違反しているという意味において、不正ということになる。アマは報酬を受け取らないと宣言している以上、アマが裏でその宣言に反し金銭を受け取ったのだから、アマは自分が課した規律に違反した。筆者は、アマは(実態に即してアマであることを自己否定して)、選手育成の対価をプロに要求すべきだと思うのだが・・・
重要なのは、プロ側が裏金を使ったことではない。裏金を受け取った側――つまりアマ側の問題を掘り起こすべきなのだ。
日本の野球界では、プロは金のために野球をやる不純な場所だとされる。“職業野球”という言い方がそれを象徴する。一方、アマは名誉や趣味や夢のために野球をやる神聖で純粋な場所であるかのようなイメージが流布されている。ところが、今回の裏金問題で、アマの世界が建前と本音の使い分けがはなはだしい、偽善に満ち満ちた世界であることが明らかになってきた(もちろん、そんなことは昔から常識でありながら、いまなぜか、大衆的に明らかになりつつあるのだが・・・)。
巷間既に話題に上っているとおり、裏金は税制において問題だ。アマ関係者がプロから金銭を受け取った場合、所得税ではなく贈与税がかかる。年間1000万円以上(控除額:225万円)の贈与を受けた場合の税率は50%。所得税でない理由は、アマの指導者・関係者が高校生・大学生・社会人に野球を教えた報酬は、アマという立場上、発生し得ないからだ。アマには、選手はもちろん、指導者、関係者にも野球に関する報酬はない(ことが建前になっている)。たとえば、アマ野球の監督の場合、彼の実態上の仕事は野球を教え、チームの指揮をとることだが、それに対しての報酬を受け取ることを禁じられている。アマの指導者は、アマ選手を育成する仕事及びチームの指揮をとる仕事しかしないにも関わらず、その報酬ではなく、教員、学校職員等の名目で所得を得ている。
このたびプロから裏金を受け取ったアマ関係者は、それを贈与として税の申告をしなければ、贈与税の未払いに当たる。横浜球団の件では、アマ側に流れた裏金は3,000万円になると報道されているので、かりに3,000万円が12球団の希望枠1選手の指導者等に渡ったと仮定すると、年間3億6千万円がプロからアマへの贈与となる。プロとアマのこのような不適切な関係が5年間続いたとすると、アマの受取り総額は18億円超となり、贈与税9億円が未払いとなる。これを当局が黙って見逃すのは、社会正義に反する。裏金を受け取ったアマ関係者を黙認するのは、巨悪を見逃すことになる。当局はこの実態に大いに関心を示すべきだ。裏金を受け取ったアマ関係者の罰は、粉飾決算で2年半の実刑を受けたホリエモンと比して、重いのか軽いのか――裁判所がこれら贈与税未払者にどれくらいの刑を課すのか興味がある。
さて、繰り返すが、今回の裏金問題を誘発した一番の要因は、アマでないものをアマとする“粉飾報道”にある。プロであるものをアマと称するマスコミ報道が悪(罪)の根源なのだ。たとえば、年がら年中野球しかしない高校生を純粋アマと規定できるのか、年がら年中、高校生に野球の指導しかしないコーチ、監督をアマの指導者と規定できるのか――常識として、まずもって、(高校生以上に)高校野球の監督・コーチはプロそのものであり、専門職にほかならない。高校野球の指導に付随して、人間教育や集団教育も派生的に行われることもあろうが、それが彼らの業務の本質ではない。高校野球の監督、コーチの評価は、まずもって、“甲子園”に一元化されているからだ。人間教育に長けた監督であっても甲子園に出場できなければ、彼らに高校野球部監督の「職」はない。
アマの虚像が剥がされている今日、プロがアマに不適切な金銭の支払を自粛したとしても、問題は解決しない。日本のプロが選手育成をアマ側に完全委託している以上、時がたてば、不正は復活するに違いない。
日本では、アマ野球がプロ野球以上に人気があるため、それを後援するマスコミ(全国紙)に莫大な利益が転がり込む。アマ球界で育成されたアマ選手は、プロ入団時に多額の契約金で報われる。プロはアマが育成した選手を入団させて、収益を上げる。ところが、野球によってもたらされるこれらの経済的恩恵の連鎖に一切与らないのが、アマの指導者たちだ。たとえば、高校野球で利益を上げるのは、朝日新聞と毎日新聞と野球名門校だが、アマ選手を育成しプロに提供する役割――つまり、現在のプロ野球を下支えするアマ球界の監督、指導者は、経済的恩恵を一切こうむることがない。せいぜい、“甲子園の名監督”という名声を博して、参議院議員(政治家)に転身するしかない。指導力に限界がくれば、使い捨てにされるだけだ。
さて、筆者のスポーツ観戦の目的は、選手(チーム)の高い技術と旺盛なファイティングスピリットの鑑賞だ。さらに、チームと地域の関係を重視する。筆者が東京(日本)に住む以上、東京以外のチームを、個人競技ならば、日本人選手以外の選手を、応援することがない。プロであるかアマであるかに関わらず、高いパフォーマンスのもので、その内容に満足を得られれば、入場料を支払う。
良いパフォーマンスを得るためには、才能のある選手を集め、適切な指導をし、勝つためのノウハウと勝利に貢献する規律を叩き込むことが必要となる。筆者はいまの高校野球の指導方法は、19世紀後半から20世紀中葉まで機能してきた産業労働者に規律を強いるフォーディズムとテーラー主義に近いものを感じている。21世紀、ポストモダンの社会では、このような規律重視だけでは、対応できない。選手の自由な才能を活かすためのシステム構築が重要だ。高校野球が日本の野球レベルの向上に果たしている役割と成果を認めつつも、限界が見えてきている。限界に達した主因は、アマとプロの自由な交流が阻害されていることが1つ、そして、プロ野球を目指す若い選手が“甲子園野球”以外の野球の道を閉ざされていることが2つだ。
とにかく、プロ野球12球団という受入先では立ち行かない。プロ球団数がもっともっと必要だし、才能をもった若者が甲子園以外の価値基準で野球をすることが重要だ。甲子園以外の価値基準とは、報酬を指す。実力があれば、下位組織から上部組織に上がれるシステムだ。甲子園に一元化された高校野球では、野球部に適応できなければレギュラーになれず、優秀な選手であっても野球部に塩漬けされるか、退部して、普通の高校生に戻るしかない。若者の野球の道が、高校の野球部(甲子園主義)に一元化されていることが危険なのだ。甲子園有名校で補欠であった高校生や退部した高校生が、日本のマイナーリーグでプロ契約をし、そこで腕を磨き、日本のプロ野球やMLBにいける可能性を残しておきたい。もちろん、いま現在、プロテストという入団方法があり、四国リーグという独立リーグがあることを承知しているけれど、この2つの選択肢は、才能発掘システムとしてはあまりに脆弱である。
プロ球界自らが本気で、素材の発掘とその受入の幅を広げれば、もっともっと多彩な才能をもった若者がプロに集まることになる。プロがそれをネグレクトしている以上、育成費という裏金がアマの指導者についてまわることになる。がんばって高校生を指導しても報酬を得られない現状がある以上、裏が機能するのだが、裏を機能させれば、日本の諸制度のどこかにひっかかるものだ。このたびは、裏金だから贈与税という税制度にひっかかったわけだ。税制というのは、たいへんわかりやすい。
朝日・毎日の大新聞社、高野連、野球有名校は、甲子園野球がプロである事実を認め、適正な報酬を選手(高校生)・関係者に還元すべきなのだ。プロは、甲子園野球に育成を依存するのではなく、自らが選手育成に励むべきなのだ。そうすれば、高校野球は普通の高校生のサークル活動のレベルに落ち着く。甲子園野球をプロと規定すれば、指導者(監督・コーチ)にそれ相応の報酬が支払われるようになる。また、才能のある選手は、甲子園野球を経ずに、プロ契約を締結し、プロとしての待遇と報酬を獲得するようになる。そうなれば、一軍で(はもちろん、そもそもプロとして)の実績がない選手に多額の契約金が発生す余地はなくなる。そればかりか、裏金が発生する余地もなくなる。プロはプロと規定したほうが、わかりやすいし、すっきりする。
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