週刊誌の八百長報道の中始まった大相撲春場所だったが、結婚を控えた白鳳が優勝。仲間からの祝福でなくて、なんであろう。
でも、優勝よりもあからさまなのが、かど番の大関栃東が勝ち越しを決めた途端の休場であることは既に書いた。その後の報道によると、栃東は12日目から休場し入院した大阪の病院からこのほど退院。報道陣の取材に応じ、「引退は半々。5月場所までには時間があるので、元の体調に戻してから考えたいが、(現役を)やらなきゃいけないという気持ちはある」と、冷静な口調で話したという。病院での検査の結果は心臓には異常がなく、頭部に過去の脳梗塞(こうそく)の影が認められ、現在は鎮痛剤と降圧剤を服用している状態で、帰京後主治医による再検査を受けるという。
病人を追い詰めるのはどうかと思うが、栃東はプロの格闘家だ。勝ち負けは透明でなければいけない。筆者の素朴な疑問は、高血圧で検査が必要な人間が相撲という過酷な格闘技で勝てるのかどうか。筆者には、勝てるなんて、あり得ない・・・高血圧で入院を必要とする患者が相撲を本気で取れば、命にかかわるし、しかも、本気で向かってくる相手に勝とうとしても、力が出ない、と思える。
栃東の勝ち越しは、前に書いたとおり、相撲業界が共同で病人を援助したと考えたほうが自然だ。かど番を脱出させておいて、ゆっくり療養させたわけだ。相撲界特有の互助の精神が発揮されたと。
さて、千秋楽、朝青龍が立会いに飛んで2敗を守り、白鳳は決定戦で立会いにはたいて朝青龍に勝った。白鳳が朝青龍に勝ったのは、朝青龍からの結婚プレゼントだと考えたほうが、これも自然だ。モンゴル出身者同士、相手は結婚を控えた後輩、がちんこで勝つ(か負ける)よりは、意表をついた負け方で決着したほうが角が立たない――相撲業界の暗黙の了解、阿吽の呼吸・・・八百長と表現するのは適正ではないかもしれないが、相撲業界特有の互助の精神が発揮されたと考えたほうが、これも自然ではないか。
大相撲が本気の勝負であるかどうかの判定は、非常に難しい。その理由は、勝負があまりにもあっけなくつくようなルールだからだ。一番一番の本気、無気力、八百長を客観的に表面的に判定するのは困難だ。八百長の有無は、内部告発しかない。
だが、筆者には、そんなことはどうでもいいことなのだ。筆者の想像する相撲のメカニズムは以下のとおりだ。力士は厳しい稽古をする。力士は部屋の稽古⇒同門の稽古⇒出稽古を通じて、力士同士、何番も何番も勝負する。勝ったり負けたりを繰り返す。その過程において、力士間の実力が判定されていく。実力者が次第に決定されていくわけだ。さらに、その力士の実力に加えて、人気、タレント性、話題性等の要素が加わり、次期横綱以下の序列が決定されていく。
本場所では、次期横綱以下に指名された力士は、互助の精神に育まれ、順調に出世していく。横綱に昇進すれば、白星を重ね優勝するときもあるし、優勝を逃すときもある。できるだけ流れが不自然でないような15日間の物語が紡ぎだされるというわけだ。だれがこの筋書きをつくり出すのかは不明だが、重要なのは、相撲人気を維持することであって、人気のある力士、強いと思われている力士を頂点とする形式を維持することなのだ。本場所が常に戦国場所になり、横綱の権威が崩壊し、だれが優勝するかわからないような状況になれば、大相撲という秩序を価値とする芸能は存立し得ない。
だれが優勝するかわからないのがスポーツであり、横綱が優勝することが前提となっているのは、芸能だ。もちろん、大相撲は後者だ。たまには横綱が優勝しない場所もある。そのとき優勝する力士は将来の横綱候補か、あるいは、優勝する理由をもった力士だ。将来部屋を経営する境遇にある力士に優勝経験が必要であるため、優勝をさせることがあるかもしれない。ほかにもいろいろ、「優勝」する理由があるのかもしれない。
必要なのは、相撲が芸能であることの相撲界内部からの声だ。内部告発があっても、芸能であるからといって、力士が弱いという証明にはならない。力士が強いことを証明したければ、引退力士が総合格闘技で勝てばいいし、逆に引退した力士がプロレスラーと相撲をとって勝って見せればいい。それで十分、力士の強さは証明できる。
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