FIFAクラブW杯決定戦が日本で開催される意義があるとするならば、世界のサッカーの今日的傾向(モダンサッカーの実情)を日本のサッカーファンが知ることができる点だろう。昨年のサンパウロに続いて今年はインテルナシオナルが欧州代表を撃破した。得点は2年続けて1−0。ボールポゼッション、シュート数、FK数、CK数ともに欧州勢(リバプール、バルセロナ)が南米勢を圧倒したにもかかわらず、2年続けて、南米勢が勝ちをものにした。
日本のマスコミ報道では、南米、ブラジル・・・と言えば、観念的に判でおしたように、ラテン、サンバ、個人技、自由、個性、創造性、攻撃・・・と続く。南米サッカーには組織性や規律がないかのように報じてきたし、いまでもその傾向は続いている。ところが、昨年のサンパウロ、今年のインテルナシオナルの勝利は組織力、規律、守備力の勝利だ。ブラガ監督(インテルナシオナル)も約束事を選手が忠実に守ったことを勝因に挙げている。
サッカーに限らず、勝負の戦略・戦術は、相手によって変わる。それが鉄則だ。インテルナシオナルの場合、相手がバルサならば、かくのごときゲームプランを描き、それを実践する。では、ホームで、相手がJリーグのクラブ程度ならばどうなるのか――おそらく、インテルナシオナルは攻撃的ゲームプランで打って出てくる。
オシム監督は、インテルナシオナルとバルサの試合を、“片方は生活のために戦い、もう片方は美を追求――見世物サッカーをした”と評したらしい。守備を放棄し利己的に攻撃に専念したロナウジーニョを暗に批判したようだ。バルサが本気でなかったわけではないが、インテルナシオアナルの方がしたたかだった。ブラガ監督の言うとおり、相手に“敬意を払った”が、もちろん、勝つことを放棄したわけではないのだ。隙あらば、足元をすくってやる、と全員が結束し、そのとおりにした。
どんな相手でも、攻め合って勝てればいい。だが、相手によっては、“敬意を払う”戦い方(守備的な)を選択するときもある。理想は相手かまわず、点を取るサッカーをすることだろうが、そうはいかない。南米リベルタドーレスを勝ち抜けるチームは、戦略・戦術の幅が広いのだ。
翻って、日韓大会終了後からドイツ大会までの日本代表を振り返ってみよう。日韓大会ベスト8をかけたトルコとの試合に負けた日本代表は、その後の4年間、攻撃サッカーに専念したように思う。攻撃サッカーに専念したと言えば聞こえはよいが、“相手に敬意を払う”戦い方を究明しただろうか。戦略・戦術の幅広い構築がなされただろうか。当時の日本代表は、自分たちは世界レベル、“敬意を払う”相手などいない、かのようであった。
この傲慢さは、先の大戦で日本は神の国、欧米列強、恐るに足らず・・・と、戦略・戦術もなく玉砕した日本帝国に似ていた。大戦当時、玉砕を鼓舞したのは大本営発表とマスコミだった。02―06年当時、それを鼓舞したのは、サッカー協会と代表監督とマスコミだった。
もちろん、世界に対して卑屈になる必要はない。でも、よくよく考えてみれば、欧米、アジア、アフリカ・・・を問わず、人間は相手に敬意を払う必要がある。それが世の常というものだ。たかがサッカー報道と侮るなかれ。サッカーはその国を表す文化である、とはよく言われる。そのとおりなのだ。日本サッカーの02年から06年は、日本が相手に敬意を払わず、自国を“サッカー大国”であるかのように誤認した4年間だった。それはあたかも、日本が大国であり不敗の神国であるかのように錯覚した、大戦時の日本の姿にあまりにも似ていないか。
昨年のサンパウロ、今年のインテルナシオナルから学ぶべきは、まずもって、日本のマスコミだ。南米、ラテン、ブラジル、サンバ・・・という紋切り型のサッカー評論を即刻中止し、南米のサッカーを見てほしい。少なくとも、リベルタドーレス、コパアメリカの2大会はテレビでいいから、チェックしてほしい。そうすれば、“南米”と一口で言えない、多様なサッカースタイルを確認できる。インテルナシオナルがリベルタドーレスを制覇できたのは、守り勝った結果だと断言できる。南米のサッカー大国・アルゼンチンとブラジルはまるで違う。パラグアイはW杯南米予選では常に守備的で、しぶとく出場権を得てきた。ラテンという概念は、陽気な音楽のラテンではない。
ロナウジーニョはトリッキーなプレーをするが、インテルナシオナル出身のドゥンガ(ブラジル代表監督)が重要な試合でそれを許すかどうかはわからない。その根拠は、ロナウジーニョは、W杯ドイツ大会で最も重要な試合だったフランス戦で活躍をしていないし、このたびのクラブW杯でも、インテルナシオナルに完封された。インテルナシオナルの全選手は、常に基本に忠実なプレーを心掛けていたように私には見えた。闘将ドゥンガがロナウジーニョに何を求め、どのような結果を出すか。ブラジル代表の今後も楽しみだ。
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