| 2006年07月19日(水) |
ダバディ氏の「10案」を読みましたか |
ダバディ氏が、日本サッカー協会会長立候補に係る「10案」というマニフェストをブログ上に公開した。おもしろい提案ばかりだけれど、その中味についてここでは議論しない。重要なのは、会長職を目指す者は、協会の職に与るに当たって、日本サッカーの方向を明示する義務があるということだ。いまの日本サッカー協会は、政治力をもった元有力選手達が学閥・企業閥で要職を独占し、スポンサー企業と組んでカネを稼ぎ、それを恣意的に再配分している状況にある。 日本サッカーの理念としては、地域を基盤としたスポーツ文化を育み、地域住民のアイデンティティの1として、彼らに娯楽と健康をもたらす媒介となることだった。その集約形として代表チームがある。代表チームは、各国との代表戦=W杯の覇権を争うことで、より高次のスポーツ文化を育むことが期待されている。Jリーグと代表は理念を共有し、相互が対等な関係において、日本サッカーをリードする構造をもたなければならない。 ところが、サッカー協会の実態は、「日本代表」ブランドを駆使した商業主体に堕してしまった。ダバディ氏は、氏自ら規定するように、商業主義が絶対悪だと断言するほどナイーブ(うぶ)ではないが、ジーコジャパンが辿った4年間は、商業主義優先による代表弱体化の軌跡だと換言している。日韓大会からドイツ大会までの4年間を振り返れば、現会長・代表監督合意の上、極端な商業主義優先を主導したことが了解できる。 当コラムで何度も書いたように、協会とマスメディアは「代表ブランド」に実態以上の付加価値をつけ、代表戦をスポンサー企業に売りつけた。マスメディアが醸成した代表幻想で洗脳されたサポーターは、高額なチケットを購入し、テレビ局はテレビ放映権料を支払った。 かつて当コラムで書いたことを繰り返せば、代表チームが稼ぎ出したカネ(サポーター企業が協会に上納した原資)は、選手の努力及びサポーター(チケット購入者)、消費者(スポンサー企業の広告費を含んだ商品を購入した)が身銭を切って収めたものにほかならない。サッカー協会の幹部達は、それを自分達が商売して稼いだものと勘違いしているかもしれないので、ここではっきり言っておこう――協会に集まった原資は、選手のパフォーマンスに対し、消費者が寄付した浄財だと。 このような認識においてダバディ氏の「10案」の意味を考えてみよう。氏が協会の機構、制度の改善を望む姿勢は、株主が企業経営者に経営改善を望む姿勢に近い。日本サッカー協会という組織は、「ソシオ制度」や「株式制度」で立ち上げられてはいないけれど、実態的なカネの流れは、選手のパフォーマンスに対して、サポーター・消費者が出資する形をとっている。日本サッカー協会が、あくまでも社会に対して閉じた組織として、元選手達が学閥・企業閥で要職を年功序列的に独占し、サッカー強化の具体的プログラムよりも代表ブランドを使った一時的な金儲けに走るのであれば、協会は浄財を私物化する輩として非難されて当然だ。 キーワードは、ダバディ氏が指摘するように、協会の透明化ということだ。透明化は明確なマニフェストによって担保される。川淵氏がドイツ大会の総括をせず、アンダーグラウンドで次期会長に就任するというのは、協会が選手と消費者の浄財を不透明に使い込むと同じくらい、犯罪的なのだ。 たとえば、川淵氏は、ジーコからオシムへの代表監督交代の根拠を明らかにしていない。オシムに期待するもの、オシムから逆に望まれるものが何なのか、はっきりと、サポーターに説明していない。だから、オシムのために言えば、川淵氏は自らの極端な商業主義が代表弱化につながった事実を反省し、協会が代表監督にどのような支援を行うかを、マニフェストの形で示さなければいけない。 ダバディ氏は会長立候補に当たって、独自のマニフェストを「10案」という形で示した。対立候補の一人である川淵氏は独自の路線を通じて、ダバディ氏への批判を展開してほしい。 そればかりではない。ダバディ氏は、イタリアサッカー疑惑追求の手は、あるスポーツジャーナリストの筆の力から始まった事実を、あるテレビ番組で明かしていた。日本に心あるスポーツジャーナリストが存在するのならば、現在の日本サッカー協会のあり方を解明し、協会からマニフェストを引き出すよう、川淵体制を追及してほしい。ジーコが代表監督に就任したとき、ジーコが掲げた、自由、自主性、創造性を大キャンペーンしたのがマスコミだった。それはジーコのあまりに観念的で壮大な夢想だったにもかかわらず、マスコミは競ってそれを報道した。今回、川淵氏が協会の会長に就任しようとしているのならば、あのときと同様に、川淵氏の「次の4年間」に向けたマニフェストを載せればいいではないか。 川淵氏に掲げるべきものが何もないまま会長職に就任しようとすることが事実ならば、その姿勢をこそ、マスコミは問うべきではないか。マスコミは川淵氏の広報係なのか。なぜ、それができないのか不思議だ。
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