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2006年07月16日(日) 引退特番

中田英の引退特別番組を見た。ドイツ大会直前、彼は、相当深刻な足の故障に悩んでいたことを初めて知った。それが代表引退の引き金になったわけではないのだろうが、中田英の晩年の現役生活が傷だらけだったことがうかがえた。
中田英のサクセスストーリーを振り返る映像を見た。イタリアに渡って、ペルージャでレギュラー、ローマでトットィの控え、ボローニア、パルマでレギュラーから控えに、フィオレンティーナで控え、そしてイングランドプレミアのボルトンで控えと推移した。純粋なサッカーキャリアを見ると、前にも書いたとおり、ペルージャからローマに移籍した時期をピークとして以降下り坂だった。イングランドに移籍してからは、イングランドのストロングスタイルになじめず、激しいタックルをまともに受けて、足を痛めたのかもしれない。
中田英の06−07シーズンの所属クラブは、未定だった。欧州のどのクラブからも、オファーがなかった。いまの状態ならば、法的にはフィオレンティーナに所属することになるのだろうが、八百長問題で混乱するイタリアに中田英がいる場所は見つからなかった。移籍したイングランドプレミアは資質として合わないとなれば、高額な移籍金を支払って彼を獲得するクラブは、欧州ではスペインしかないのだが、スペインのクラブは動かなかった。フランス、ドイツ、オランダも彼に関心を示さなかった。
中田英に残された選択肢は、日本のJリーグ復帰か、アメリカのMLSしかなかったが、そこまで落ちぶれてサッカーを続ける意欲は中田英にはなかったようだ。カネは十分、たまったということか。
ドイツ大会敗北の総括については、番組で彼が告発したように、初戦の豪州戦でジーコが小野を投入したことがすべてだった。それによりチームは混乱し、疲労した選手は豪州の圧力に抗し得なかった。味方選手の疲労度、相手の攻撃パターン、相手の選手交代をみれば、日本の3人の交代枠は自然に決まってくる。ジーコには、それができなかったということだ。何度も書いたように、ジーコには代表監督経験がないのだ。
また、ドイツ大会を通じて、中田英とDFラインが戦術不統一なまま試合をしていた事実が明かされた。宮本を中心とする日本のDFは、中田英が要求するラインの前への押し上げを拒んだという。中田英はボランチの選手だが、あくまでも攻撃的ボランチであって、たとえば、フランスのマケレレとはタイプを異にする。宮本が中田にマケレレのような守備的中盤を望むのであれば、4バックの守備陣形はブロックになる。しかし、中田英にはブロックの意識は最初からなかったようなのだ。
番組を見ていて、あまりにも基本的な意思統一ができていない日本というチームに腹が立った。その責任は中田英と宮本にあるのではない。守備の基本をチームに徹底させない監督が悪い。ジーコは人はいいのだろうが、中田英、宮本の管理ができていない。DFを上げるか下げるかを両人に示唆すればいい。それだけの話なのだ。
中田英は日韓大会を最後に代表引退を決意していたというのだが、その決意を翻したのはジーコの人柄だった、と番組で彼は述懐していた。聡明な中田英の最大の判断ミスは、ジーコの人柄と監督としての能力を混同したことだ。ドイツ大会で日本が優勝することはあり得ないにしても、ベスト16は可能だった。ただし、監督がジーコでなければ・・・という条件がついた。初戦の豪州戦、残り10分余りまで、日本は1点をリードしていたのだ。選手交代を当たり前にやり、カウンターを狙えば、日本は2−0で勝てたかもしれない。二戦目の相手・クロアチアは実力は日本より上だったが、大会中、コンディションが悪かった。日本はクロアチアに勝つチャンスがあったし、相手のミスもあった。つまり、二戦目までで、勝点を4〜6まで伸ばせたのだ。現実は、2試合で勝点1という結果に終わった。
中田英はブラジル戦の敗北の後、ピッチ上で仰向けになって泣いていた。彼のサッカー人生におけるラスト三戦はまったくふがいない戦いだった。彼の引退を飾るにふさわしくない内容だった。だが、それが日本サッカーの現実であり、中田英のそれなのだ。日韓大会で膨れ上がったバブルは崩壊したのだ。もちろん、中田英がバブルだとは言わない。彼は実力でいまの地位を築いたのだから。
中田英の引退特番は、代表バブルの崩壊、日本サッカーのバブル崩壊の激烈な証言だった。中田英が将来日本サッカー界に復帰するつもりならば、地道に一歩一歩サッカーの向上を目指す指導者であってほしいと筆者は心から願っている。


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