楓蔦黄屋
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2022年09月19日(月) 乙亥・敬老の日・邦楽と洋楽とリンパ流し

どうやら長文が好きだ。

好きなアイドルでもライターでも、ブログが更新されたりすると積極的に読みに行く。
インスタでも、コメントが長いと嬉しい。
長文っていいよな。なんでかな。

日本語には書いた文字でもリズムやメロディがある。

星野源と上白石萌音の対談をYoutubeでやっていて、
「英語のほうが歌いやすい」と仰っていた。
英語のほうが不思議と気持ちもこめやすいのだと。
今の日本のミュージックシーンの音楽といったらほとんどの源流が洋楽だから、
そりゃ英語のハマり具合とは根本的に違うよね、みたいなことを話してた。たぶん。

日本の「歌」といえば、その源流は和歌だ。

そして和歌というのは耳で聞くと同時に、目で見るものでもある。
声で披露すると同時に、お手紙として書いたり読んだりする機会も多かったんだと思う。

日本語は視覚情報としての役割も担っているのだ。
だから漢字とカタカナと平仮名がある。
ひとつの文字じたいが意味や情報を持つ。
そこがアルファベットとの大きな違い。
「a」単体と、「阿」単体の情報量の差。

どっちが優れているとかの話はしてないよ。

英語の歌は聴覚情報、とくに音そのものが持つ役割が非常に大きいと思われる。
メロディありきで言葉を乗せている。
言葉で伝えるというより、音の響きそのもので想いを伝えている。
英語の歌において、歌詞はメロディの補助なのだろうと思う。

和歌は目に見えるもので想いを伝えている。
季語をいれるのも、詠んでまず風景を思い浮かべやすいからだろう。
洋楽のメロディにのせるには、おそらく情報量がありすぎて重くなるのだと思う。

私は邦楽が好きだよ。
大好きな曲は視覚にも訴えてくる。いろんな風景が広がる。
洋楽も同じ。
たまーに、バッキバキにカッコいい黒人の男女のMVなのに、歌詞みたらまるで中学生のラブレターみたいなこと歌ってたりするギャップもまた好きだ。

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リンパ流しを始めた。

運動しても食事に気をつけても何してもたいした変化がなかった身体が
リンパマッサージをするようになってから半月で細くなったよ。
体重も体脂肪も変化はないけど、服着たときのボディラインが明らかに違う。
肩にカドができてきたし、ブラはゆるくなったし、腹は薄くなって足はむくみがとれた。

足のリンパ流しをしたら3日後に怒濤のような便通がきた。
1日3回、3日続けて出た。

そうかそうか、私に足りなかったのは「排出」と、それに至る「流通」だったのだな。
いくら摂取に気をつけても、燃焼をがんばっても、流れ出てってくれなきゃそりゃ痩せないわな。

リンパ流しのいいとこは、気がついたら手で身体をさすったり揉んだりしてるとこだ。

2022年08月22日(月) 丁未・長潮・好きと嫌い

嫌いなものに無自覚だ。


好きなものには無自覚で突っ込んでいくタチなのだが、
だからこそだろうか、自分が嫌いなものがどうもはっきり自分でわかってない節がある。

というか、嫌いなものにも無自覚で突っ込んでいくタチだ。
それで、吟味して、考えて、なぜこんなに腹が立つのだろうと思い、
ダンナに話してやっと「あ、私はこれが嫌いなのか!」と自覚する。

「これが嫌いということなのか!」と、北島マヤが演じたヘレンばりに雷に打たれたように自覚する。

どうやら私にとって、「嫌い」は「好き」と同じぐらいの熱量を持っているようで、
だからとても紛らわしいのだ。
「嫌い」に対しては怒りが湧くので、それが好きと嫌いを分けている。

ついきのうも、どうにも納得がいかない漫画を2作立て続けに読んでしまって、
それについての自分の心の動きを怒りながらダンナに話して
それでやっと、私はその漫画が嫌いだということに気づいた。

好きなものと同じ労力をかけないと、私は自分の嫌いなものがわからなかった。
きのうやっと、わかった。


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ただ、好きなパターンと嫌いなパターンの把握はまだできていない。
今私が好きなもののことを、どうして私は好きなんだろうな。
嫌いなもののことはどうして嫌いなんだろう。
理由が説明できない。好きになったり嫌いになったりする気持ちが言語中枢をまったく通ってない気がする。

高温で真っ赤に溶ける鉄が心の中にある感じだ。

私の喜怒哀楽といったら全部その真っ赤に溶けている鉄で、
どれがどれだか自分で判別がつかないのだ。

その鉄が「きれいなものになりそうだな」と感じるか
「ロクなものにならなさそうだな」と感じるか、ただそれだけの違いだ。
真っ赤に溶けているその様が、きっと自分にとって一番大事なことなんだろうと思う。
それが何になるかは二の次なのだ。
しかし二の次だからといって、ほっぽりっぱなしはよろしくないと気づいた。きのう。

でも本当に、「きれいで美しいものになる」or「つまらんものになる」という確信しか判断基準しかないな。
前者がつまり「好き」ということで、後者が「嫌い」ということなんだろう。

なるほど。
書いていてわかった。
私はいつもそうだ。アウトプットして初めてわかるのだ。

それでいいのか。そうか。



夏があっという間に終わりの始まりを迎えている。



2022年06月06日(月) 庚寅・芒種・3回目ワクチンとイボ

3回目のワクチン副反応も結局なんてことはなかった。

打った日の夕方からどんどん体がだるくなって、
熱も2分ぐらいあがって「お、ついにくるか?」と
しばし寝て起きたら熱は下がっていた。2分。

未知のものへの抵抗力が弱いな。

まあこの場合、本当の意味での抵抗は「接種しない」という選択だろうから、
結局打つんなら抵抗しようがしまいが結果的にはたいして変わらないよな。
苦しまないぶん助かったともとれるし。

ダンナは2日間、熱に苦しんでいた。
熱がひいたあともだるそうだった。

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とったイボのあとはすっかりきれいになって、他の肌と変わらない色になっている。

こうなるともう、イボのあったことなど忘れそうになる。

覚えておかないといけないものなんだろうか。
若い頃ならなんつーか、そういうある意味「苦い経験」を
戒めとか楔とかそういう感じでいつまでも持っていないといけないと思っていたが
しかし今はそうも思わない。

覚えておける脳の領域が少なくなったせいもあるんだろう。

40をすぎたらもう、そういう戒めとか楔とか、もう充分じゃん、という気持ちになる。
そんな自分の内側のことより、外側にある大事なもののことを繰り返し、刻んでおきたい。

イボをとったのは、自分の脳の領域を空けたようなもんだと思う。
空いたとこに新しい大切な記憶を迎え入れる。

2022年05月10日(火) 癸亥・理解できないよ、でも知りたいよ

CDが気軽に聴けるってやっぱいいな。
プレイヤー買ってよかったよ。

おかげでCDが届くのが楽しみになりました。

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イボをとってだいぶ経つ。経過も良好。
鏡みるのが憂鬱だったんだな、とあとから気づく。

こんなに小さなイボですら、自分の顔がイヤになる。

ユニークフェイスのことを考える。

だいぶ昔からとても気になっていることのひとつだ。
私は当事者には該当しないがしかし気になっている。
知人にもそういう人はいないがしかし気になっている。
気になったところで何もできないがしかし気になっている。
本も読んだ。

ユニークフェイスの人、といったって別に
そのカテゴリの中にいるわけではなくて
その要素を持っているというだけだから
もちろん結局は人それぞれだ。
もし知り会う機会があったとしたって、気が合わなければ別に仲良くもならないだろう。

もし当事者になったら、と考えているわけでもない。
その時はその時だ。また別の話。

当事者じゃないからこそ気になる、という領域はたしかに存在する。
当事者からすればムカつく存在のやつ。

なるべくムカついてもらわないようにするにはどうしたらいいだろうと考える。

私にも少なからず「当事者」経験はある。
そこで一番鬱陶しいのは、やはり「当事者として」または「当事者寄りで」接してこられることだ。

当事者にすら当事者として接してほしくはない。
要するに「理解してますよ」できてほしくないのだ。

「理解できないよ、でも知りたいよ」できてほしい。

「おかえりモネ」の脚本家の人もそういえばそうインタビューで言ってた気がする。

まあ、知り会うこともないんだけど。今んとこ。



2022年05月03日(火) 丙辰・ワクチン3回目をむかえて

もうすぐワクチン3回目を打つ。
あれ、ワクチンのことって日記に書いたっけ、と確認したら案の定書いてあった。
書いてないわけがないのだった。なのに書いたっけ、ってなる。それが俺。

「ワクチン打ってもなんともなかった」という記憶しかないので
「抵抗力が落ちて喉と耳をやられた」という2回目の日記を読んで
あーあーそうだったそうだった、気をつけなきゃな、と気をひきしめた。
ありがとう過去の私。こんなにわかりやすくこの日記が役に立つこと、めったにないよね。

そうだそうだ、先天性耳ろう症。
というかついこないだ耳からちょっと膿っぽいの出たじゃん。
先月めちゃくちゃ忙しくて今体力めっちゃ落ちてんじゃん。
あぶねー。ワクチンがんばろ。

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先日、イボをとってもらったわけですが。
経過は順調です。
皮膚がちょっと赤いだけでつるつる。やったー。
これならコンシーラーだけでじゅうぶんかくせるぞ。

楓蔦きなり

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