池ポエム
ハンス



 約束しよう

 向き合った順が、腰を低く落として鋭い目つきになる。久々のこの感覚。二人、向き合った時にだけ感じられる、ゾクゾクする感じ。空は雲ひとつない。鳩が校舎と校舎の間を飛び交う。
 風が、一筋吹いた。
 それを合図に順が足を踏み込む。距離が一気にゼロになる。順の剣が風を裂いていく。夕歩は体を外側に開くだけで、それをかわした。頬をナイフのような風圧が掠めていく。空いた手で飛び込んできた順の体を押す。普通の剣待生ならこれで少し先まで転げていくのだが、長年一緒に稽古してきた順は違う。左足で踏みとどまって、剣の軌道を無理やり変えてきた。予想外の場所から順の攻撃が伸びる。反射的に剣で受け止め、しばらく押し合った後、順は後ろへ飛びずさった。
 再び低く構える。他ではめったに見られない、真剣な瞳。その眼には今、夕歩しか映っていない。バサバサという気の抜けた翼の音が、空から降ってくる。次の攻撃はいつだろうか。夕歩は息を整えながら順の様子を窺っていたが、やがてその必要がないことに気づいた。
 「フッ」
 順がふいにニヤリと笑った。
 「あっははははははは!!」
 続いて、体をいっぱいに伸ばして爆笑。突然の稽古相手の様子に、夕歩は目を丸くした。頭には当たっていないはずだけど。
 「順?」
 「たっのしいー!やっぱり夕歩と稽古するの、楽しいね」
 あぁ、そうか。二人でこうして稽古をするのは久しぶりだ。うんと小さい頃から稽古をしてきたけど、数年前に夕歩が入院してからはそれもめったになくなった。今、何とか退院して剣待生なる者になって、家から離れて生活している。おかげで、こうして剣を持って順の相手もできる。
 子犬が尻尾をはちきれんばかりに振っている。この頃は、まだ夕歩も順も小さくて、二人して子犬みたいにじゃれてる時が何よりも楽しくて。
 「順はほんとに剣が好きだね」
 呼吸が整った夕歩の前で、順はニコニコしている。順が楽しそうなら、夕歩も嬉しい。
 「うん、剣も好きだけど」
 下から切り上げるように剣を振り、一回転してさらに脇をえぐるように一撃。宙を舞うような動きは見ていて心が躍った。これが順の素振りなのだ。傍目には曲芸にしか見えないけど。
 この時振り返った順の目が、いまだに忘れられない。
 「夕歩と稽古するのが一番楽しい」


 今より少し昔の話。
 熱の籠もった瞳が、自分を見ている。自分だけを見ている。体温が上がる。顔が熱くなって、そこで夕歩は目を覚ました。机の上に、読みかけの本がある。しおりを挟むのも忘れていて、何ページを読んでいたのかわからなくなってしまった。
 自室の机で、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 随分懐かしい。小さい頃の自分と順。まだ入学して1ヶ月の頃だったろうか。広い学園内の、他に人がいない場所を探しては、よくああして遊んでいた。やっと体が動くようになって、順と一緒に学園に来ることができて、それなのに、昔と変わらず二人で稽古をしていた。よく飽きないな、と思う。二人にはお互いしかいないことを、小さくてもわかっていたのかもしれない。
 それに、これは順にも言っていないけど。
 稽古をしている時の順は、真っ直ぐに夕歩だけを見ている。幼い顔でも、飄々とした顔でもなく。ただ目の前の相手と戦うためだけに、集中した顔で。
 鼻の辺りに触れてみる。血が出ていないとわかって、ほっとした。何かにつけて、興奮すると鼻血が出やすい。だから普段は、務めて冷静でいようとするのだけど。今は、きっと頬に赤みが差している。
 もっとずっと、違う場面で。もっと、順の望むように。もっと、他の何も気にしないで。
 求めてくれたらいいのに。

 「!」
 誰もいないのに、ハッとして周りを見回す。それからため息をついた。
 自分たちは大人になる。周囲を取り巻く環境の一部になって、そこから抜け出す術はない。大人になればなるほど。入学した数年前、自由になったと思った。そうでもないことに気づいたのは、しばらくしてから。順が、笑わなくなった。夕歩の好きだった笑顔が、変わっていく。
 諦めることが大人になることだなんて、簡単に口にはしたくない。
 ゆっくりとドアが開く音がした。
 「おかえり」
 同室の増田がカバンを置くのが見えた。呼ばれて、気のいい顔を向けてくれる。が、すぐに慌てて夕歩の側まで駆け寄ってくる。
 「夕歩、顔赤いよ。大丈夫?」
 「う、うん」
 そこまで赤い顔をしていたのだろうか。指摘されて、恥ずかしくなる。理由が理由だから。
 「熱あるんじゃない?」
 増田の手がヒヤリとして、少し冷静になれる気がした。
 「久我さん、呼んでこよっか?」
 「ううん、大丈夫」
 順はいいルームメイトに恵まれたと思う。自分もまた、親切なルームメイトでよかったと思った。
 「恵、何が頭が冷えるような話、してほしいんだけど」
 「えぇぇ!? な、南極物語とか??」
 「……よくわかんないけど、そんな感じで」


 中等部の卒業を待たずに、夕歩は休学になった。4年目の桜は順と一緒には見られないだろう。
 先のことはわからない。なのに、あの入学した頃のように、近頃の夕歩は晴れ渡る空のような気持ちでいる。手術だってこれからだし、その後のことも色々あるだろうし。それでも。
 「しっつれいしまーす」
 主に、見舞いに来る時の侵入経路が失礼な刃友がガチャリと個室の戸を開けた。今日は、花束を持っている。花瓶の花は枯れかけていたので、古い方を取って差し替えた。刃友の横顔を黙って眺める。数ヶ月前に抱いていた不機嫌な気持ちは、今はない。
 「よしっ」
 殺風景な病室に、花と刃友。言うことなしだ。
 「改めまして、姫」
 「……だからその呼び方やめなよ」
 「いいの。だってよく考えたらさぁ」
 殺風景な病室に、順と、自分。添えた手が冷たい。頭を冷やすには、といつかみたいなことを思ったけれど、それは無意味。触れた唇のせいで、手の冷たさは感じなくなった。
 「夕歩はあたしだけの姫だもん。他の誰にも呼ばせない」


 それは幼い夢なんかじゃない。昼寝で垣間見た、叶わぬ希望なんかでもない。
 地に足をつけたままで、君と遠く遠く遠く。
 これからは、きっと。

2006年04月17日(月)



 ハード・ムービー・ナイト(おまけ)

 途中で途切れたビデオの続きはほっぽって、暗い廊下に出た。
 深夜2時の寮の廊下は、ただただ暗闇。非常灯の光だけがポツポツ廊下の向こうの方に見える。先を行く順の足音はほとんどしない。その足運びは、順の在り方そのものなのだと思う。ポケットに両手を入れて、軽やかに弾むような歩みなのに。夕歩は後ろからそっとついて歩く。一人きりなら、夜の廊下を歩きたいようなテンションではなかったけど、先を行く背中があるなら胸がほっと温かくなる。
 自販機のある一角だけが、夜中でも煌々と明るい。が、3時になるとこれも消えるのだと言う。夕歩はそんなに遅くに自販機を利用したことはなかったから、今聞いて初めて知った。本当に、こういう情報だけは詳しい。
 こんな時は、『あったか〜い』に属する缶しか目に入らない。
 「あっち」
 ホットコーヒーをポケットに入れて、順は夕歩の分もついでに買ってくれた。
 「熱いから気をつけて」
 コーンポタージュ。粒が底に溜まって、きれいに飲むのは至難の業。どうしてこれを選んだのか、順のチョイスが気になった。
 恐怖は、どちらかというと人の体温を下げるのかもしれない。熱いから、と順は直接大きめのポケットに入れているが、夕歩の手の平にはこの缶の熱がちょうどよかった。手は思ったより冷えていた。
 部屋に戻る途中、電灯がきれかかっている箇所があった。ゆっくりと暗くなっていき、突然パチッと全開で点灯したかと思うと、またゆっくりと闇を増やしていく。真っ暗になるのも心細ければ、パチッの瞬間に反射的に体がビクッとしてしまう。わずかに足が止まったのに気づいたのか、すぐ順が戻って来た。
 「戻ったらあたしが持ってきたやつ見ようよ」
 「まだ見るの?」
 これを飲んだら寝るつもりだったから、順の言い出したことは予想外だ。何を持ってきたのかも気になる。順には悪いけど、あまり信用ができない。夕歩の不審な眼差しを知ってか知らずか、にやっと形容するのにちょうどいい笑みを浮かべている。
 「じゅんじゅんセレクション、ピンク映画三本立……ぅあっちー!!」
 何か中学生にはふさわしくない単語が飛び出しかけたから、言い切る前に防いでみる。熱々の缶を頬に押し付けられて順は後ろに飛び退いた。
 「熱いっ、それ熱いよ夕歩」
 「どっかのおっさんかっての」
 夕歩の冷たい視線を受けて、涙目で頬を抑えながら順は苦笑い。
 「ま、それは冗談冗談。ハウル見ようよ、宮崎の」
 なぜか、ハウルの動く城。確かに、まだ見てなかったけど。ホラー映画とは180度違う。が、夕歩も順も特に宮崎アニメのファンというわけでもないのに。脈絡のないチョイスは、コーンポタージュ以上に不思議だ。
 「あー、なんて言うかさ」
 至近距離で疑問の眼差しを受けて、順は頬を掻いた。
 「ほら、刺激の強い映画ばっか見たから」
 “夢見が悪くなりそうでしょ”
 なるべく心温まる物でも見て、相殺というか中和というか。とにかく順が言いたいのはそういう意味だった。誰かさんのために、わざわざ考えたアイディア。思えば部屋に突然現れたのも、最初からそれが目的だったようだ。
 「一番心温まりそうなのはやっぱトトロかなーと思ったんだけど」
 「それ、何回も見てるよね」
 「そう」
 二人で肩を並べて、小さい頃に幾度も見た。
 「もののけ姫は心温まるってのとはちょっと違うしさ」
 「そうだね」
 部屋までのわずかな暗闇。どちらからともなく、手を繋ぐ。
 「紅の豚は、寝る前に見るとかえってエキサイトして寝れなくなりそうだよね」
 あたしは好きだけど、と付け加わった。
 眠っている二人を起こさないように、そっとドアを開けた。真っ暗な部屋に順が先に入る。その背中にポツリと、「ありがと」。
 部屋に入りかけた夕歩に、順は突然耳打ちしたのだった。
 「夢の中でも姫をお守りします」
 なんてね、と離れて笑った顔が、テレビの光に照らされていた。


 たとえこの手が届かない世界へ行っても必ず君を守るよ

2006年04月10日(月)
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