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■ 犬と桃
桃香の体の下には、五十鈴が仰向けで倒れている。じっと見上げてくる顔は、どうしたらいいものかという困惑がはっきり表現されていた。このままでは立ち上がることもできない。 どうしたらいいのかは、桃香も同じだった。誰か知っているなら教えてほしい。体の下に五十鈴を置いて、上から多いかぶさって顔を見つめ合う。かれこれ7分は経つだろう。そろそろ何か言わないと、何かしないと。頭の中でそう思うばかりで、指一本動かない。五十鈴の体を潰さないようについている両腕も、そろそろしびれてきた。 「あの」 相変わらずの地獄からのビブラートといった調子の声が、桃香の下から聞こえた。 桃香は一瞬体をびくっとさせた。 「つ、つらくないですか、桃香さん」 理不尽な体勢で沈黙を強いられているというのに、五十鈴の言うことは優しい。桃香は状況を忘れて少し感動した。 「いや、つらいっちゅうことはないんじゃけど」 「そうですか……」 五十鈴がほっと一息つく。 本当は限界まであと5分ほど。でもここでそれを言ったら、この状況は終わってしまう。別に終わらせたっていい。桃香の頭は確かにそう思っているのに、体が動かない。何がそうさせているのか自分でもわからなかった。 目のすぐ前に、五十鈴の顔がある。不気味な髪に覆われていた時は想像もできなかった可憐な顔。正直、14年生きてきてこんなにギャップのある素顔の持ち主は初めてだ。世の中には意外性のある人はいくらでもいるが、五十鈴はかなり上位クラスなのだろう。 嬉しい予想外、と一人の時にふいに口をついて出て、桃香は一人で大いに慌てた。 「別に、そういうつもりと違う……」 そういう、とはどういうつもりなのか。独り言の言い回しがどこか気にかかっていた。 楔束以来、一途に自分を慕ってくれている瞳が桃香を見上げる。少し変わった人柄なのはもう十分にわかってる。そんなことはもうどうでもいい。頭に血が昇った。 「桃香さん」 「ん?」 五十鈴は片手をついて少し体を起こした。顔が一層近くなる。反射的に桃香は自分の顔を近づけた。 「いや、じゃないですか」 「してもうてから聞かれてもなぁ……」 遠慮しているのか恥らっているのか、その両方なのか。五十鈴は桃香の腕の中で体を縮こまらせている。 「や、やっぱり私とじゃ、いやですよね」 悲しげに顔を俯かせる。影のようなオーラが彼女の周りにできた。この特殊効果だけはいまだに謎だ。桃香は五十鈴の顔を覗き込んだ。 「まだなんも言っとらんじゃろ」 自信をすぐに失いやすい相方を持つと苦労する。いつも表してやらないとしょげてしまう。そんなところも犬みたいで、名前にふさわしいと思う。 「あんた以外と、こんなことようせぇへん」 五十鈴の目のふちに光る涙を、桃香は舌で舐め取った。 塩辛いけど甘い。 「桃香さん」 「わんこはなんちゅーか、冷やっこいな。夏じゃからちょうどいいわ」 暑い部屋の中を風が通り抜けていく。風? 桃香が首を捻ると同時に、五十鈴は小さく「あ」と言った。玄関から入ってきた空気が止まっていた時間を動かした。 五十鈴の位置からなら向こうが見える。 「わーー!」 桃香は叫んで後ろに飛び退いた。飛び退き過ぎてハシゴの最後の3段ぐらいをすっ飛ばして床に転がる。桃香が転がったのと同時に、「ただいまー」という呑気な声がした。 「あれー、もかちゃん何してんの?あ、犬ちゃん」 「く、くろがね……」 逆さまに見てもピンクのチビはピンクのチビ。元気に片手をあげて五十鈴にも挨拶する。五十鈴がベッドの二階にいることは何も気にしていないらしい。気の利いた言い訳を考えていなかったから、ちょうどよかった。 「もしかして邪魔だった?」 能天気な調子で、風貌にそぐわないセリフを吐く。桃香は立ち上がろうとしてつんのめり、上からはヘリに頭をぶつける音がした。 「そ、そーゆーんとちゃうわ」 五十鈴と視線が合って、桃香はまた頭が痛くなった。一目でわかるほど、ヘコんだオーラを出していたから。はやての前ではフォローもできない。送ってくる、と言って二人して部屋を出た。 さて、今度は何と言おう。
2005年10月08日(土)
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