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■ 猫は側溝で力尽きる
生温い風が、開け放したままの窓から流れてくる。 どうぞ、と言われてそのままなんとなく上がりこんでしまった。いつかは訪ねたかったが、多分来ることはないだろうと思っていた。彼女の部屋。思ったよりあっさり、静かな夢は叶った。 目的のソフトをカバンから出して、片手に持ったまま突っ立っている。この部屋の主がせめて何か言ってくれたら、バカみたいに固まっていなくて済むのに。彼女の頬を、決して心地よくはない風が撫ぜていった。 「目ぇ覚ましてよ、陣内」 ぼつりと、小さな声で言ってみた。起きる気配はない。起こす気もあまりなかった。 縦になって、横にいる時はあまり気にしたことのない、彼女の胸が規則正しく上下している。寝ているんだ、と当たり前の事実が頭を横ぎる。自分でも意識しないままに、入り口の襖を閉めていた。 ベッドには薄い青のタオルがかかっていた。 立膝をついて、そっと覗き込む。 見慣れた不敵な笑みも、図々しい眼差しも、そこにはない。白い顔をして、汗もかかずに横たわる人が一人。伸びた手の指を、いたずらにいじってみた。力のない、変な感触が指に伝わる。 「貴方は本当に陣内?」 それどころか、生きている人間なのかどうか。呼吸をしているのは確かなのに、急に不安になった。
目を覚ますと、学校の友人が自分の胸元に耳をつけてじっとうずくまっていた。 「えーっと」 人は過去に経験したことのない状況に置かれると、どうしていいかわからなくなる。 「あんたは人の上で何してんの」 こちらからは後ろ頭しか見えない向きだった顔が、急にぐるりと向き直った。頭をつけたままだったから、少しくすぐったかった。すぐにでも叩き倒してやろうと士気を高める。 「あっ!」 彼女の表情は真剣だった。例えていえば、子供がかぶと虫やコオロギを観察している時のような。 「な、何」 「生きてる!」 「は?」 そりゃあ生きとるわ、と言いかけて言葉を飲み込む。続けざまに彼女の表情は大きく変化した。泣いてるような、心底ほっとしたような顔。 「よかったぁ」 「はぁ、まぁ、よかった、のかな」 「死んでるみたいだったんだ」 その言葉が二人の間にストンと落ちた。彼女が最も恐れていること。 「ねぇ陣内」 服の裾が硬く握られているのに、今気づいた。 「貴方は死んだりしないよね」 「部長」 どうでもいいTシャツにシワが寄るのは別に構わない。彼女の手は必要以上に強張っていて、手を重ねても激しく力を抜くことを拒絶している。 「あんたを置いて死ぬなんて、とんでもない」 薄い靄がかかったような目が、すっと正気に戻った。 「死んだ後にすぐ追っかけてきそうだもん」 それこそ川の手前の土手で追いつかれて、すがりつかれるだろう。 「何それ。すごい自信家」 「違うの?」 パッと二人の間に距離ができる。彼女はアメリカ人みたいに、肩をすくめるジェスチャーをした。 「そうそう、返しにきたんだから、わざわざ」 床に放り出されたソフトが寝起きの陣内の頭に突き出された直後、母が声も掛けずに襖の向こうから参上した。麦茶を手に持って。
2005年08月05日(金)
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