池ポエム
ハンス



 君が好きで

 気づいたら夕方になっていた。部屋から出ようとドアに近づく。手がノブに触れようとして、一瞬何か嫌な予感がした。明らかに尋常でない足音が向こう側に響いている。
 そして、全身に大きなものが体当たりしてきて、部屋から出るどころか奥のソファまで吹っ飛ばされて今に至る。その大きなものは自分にしっかりまとわりついて離れない。そろそろ帰りたい。素直に口に出したかったが、この状況では憚られた。録画するのを忘れたテレビ番組のことなんかが頭を過ぎる。
 熱く、柔らかい彼女の体はどこか遠い出来事よう。
 「ねぇ」
 一時間ほどそうしていて、初めて声をかけた。
 彼女は顔を上げない。泣いているのは最初から知っていた。猛然と部屋に飛び込んできた時、すでに瞳は濡れていた。
 「ごめん。ほんと、ごめん」
 何を言ったらいいものか、この部屋で半日ほど考えたけど、気の利いたことは思いつかなかった。謝ることしかできない。自分よりずっと大きな体で抱きしめてくるから、全身彼女に覆われているようで、もうそんな資格はないのに、申し訳なくなる。
 「……とに、どうしたら、うちは」
 鼻をすする合間から途切れ途切れが本音が零れた。
 「普通なんだよ。すごく、普通なの。私は」
 使い慣れない昔の話し方は、全てが終わったことをより一層はっきりさせる。言わなければよかった、と後悔する。せめていつもみたいに言っていれば辛さは半減したのに。
 「もう、行かせて」
 指をひとつひとつほどいて、力を無くした彼女の腕はだらりとソファに垂れた。夕日もあらかた沈んでいた。薄暗い部屋に泣く彼女を残して、自分は行かなければ。ここで、振り返って、嘘だよって言ってうるさいぐらい笑って、泣いてる彼女は笑い、バカヤローってどつき合って、また何も変わらない明日が来ればいいのに。
 テレビのニュースはこの可能性を全てかき消して、現実だけを映している。

2005年04月16日(土)



 理由はまだない

 「いたーっ」
 一際大きな声が、夜のドラスタ本部を揺るがす。
 灯りがついている一室には三人の人が集まっていた。一人は患者で、もう一人は医者である。
 「も、も」
 「も?」
 「もっと優しくして、だってさ」
 腕をまくってやたら薬を塗られている人物は、言葉にならない言葉を途切れ途切れに口から吐き出している。そのサポートとして、三人目の付き添い人が代弁する。
 「優しさじゃ傷は治らん」
 医者はにべもなく却下した。手は、剥きだしの患者の腕をしっかり掴み、赤黒い色をした患部をがしがしと消毒している。その度に腕の上方から呻く声。
 「でも、ほらなんだっけ。あの痛み止め」
 付き添い人が思いついたのは、某有名な薬だった。
 「優しさでできてるんだよね、半分」
 「だから効きが悪いんだ」
 医者が眉間にシワを寄せて元も子もないことを言う。付き添い人は肩をすくめた。患者はというと、そんな会話も耳に入らないらしい。
 「大体な」
 包帯を巻きつつ、患者に言って聞かせる。
 「手当てがイヤなら、ケガなんかせんことだ。アンタはしょうもないケガばっかりして、それで大騒ぎするんだ、いつもいつも」
 ぶつぶつと医者の小言は続く。とりあえず傷が覆われて、やっと患者は人の言葉を話せるようになった。
 「わかったわかった。悪かったよ。でも痛いもんは痛いんだよ」
 「子供じゃあるまいし」
 患者の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。本気で痛かったらしい。
 「まぁいいじゃないか、ドクター」
 ほっとくとあと三時間は続く小言をうまい具合に遮ったのは、傍らでぼーっと突っ立って眺めていた付き添い人だった。他にすることがなかったのだ。とりあえず現場から患者を速やかに搬送してきたはいいが、治療室では素人はすることがない。患者の手を取って一緒に呼吸でもしたらいいのかもしれない。
 「たまには涙を流すってのも、必要なことだよ」
 どこかで聞いた風なことをしゃべってみた。
 「そうなの?」
 目尻に残った涙を指で拭きながら患者が食いついてくる。
 「聞いたことないぞ、そんな話」
 「泣かないでいると、涙が溜まるんだよ。それで、たまに悲しくもないのに涙が出ることがある。そうやってバランスをとってるんだ」
 本当かどうかは話している当人もしらない。多分嘘だと思うし、本当かもしれないと思うフシもある。医者はあからさまに信じていない顔をしているし、患者はへーと考えなしに頷いた。
 ある晩に、三鞍は窓の外を見ている社長を見かけた。彼女は音もなく泣いていた。
 「そういえばこの人はよく泣くなぁ」
 声をかけるとか、理由を考えるより前にぼんやりとそう思った。

2005年04月10日(日)
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