池ポエム
ハンス



 名前には意味があると思っている

 「陸路」
 「……はい」
 振り返った先には、ニコリと笑ってこちらを見ている社長の姿。
 「遅い。まだ5秒ぐらい間があるな」
 ご丁寧に腕時計を見ながら言う。
 「なんか、まだ慣れなくて」
 「まぁこれからだね。これから陸路は陸路になるんだから」
 数日前に名前をもらった。自分の名前を持つのは生まれて初めてだから、いまだに呼ばれてもピンとこない。そんな自分を、昨日から名付け親の社長が頻繁に呼んでいる。たくさん呼ばれることが慣れる近道だ、とかなんとか言って。
 「それに社長以外に呼ばれないし」
 村の女たちには一応言ったが、別れまでの間に名を呼ばれることはなかった。彼女たちは最後まで、陸路ではなく芽奈の子と口にした。
 「これから幾らでも呼ばれるさ」
 鈴寧だけは、少し驚いた顔をして、それでも小さな声で一度だけ呼んでくれた。名前の通り、鈴の音のような声だと思った。
 名は体を表す、と昔老婆が言っていた。だから陸路には名がないのだとも。果たして、生まれて途中で名をもらった者も、名に沿うような人間になれるのか。陸路は社長の顔を見る。
 「我ながらいい名前をつけたなぁ。陸路」
 陸路。陸にある道。配達屋である社長が、これがある限りどこへでも届けにいくと心に決めている、その象徴。
 「お前は配達屋の子なんだよ」
 砂雨の夜、岩陰でボロ布をかぶって聞いた社長の声。村を飛び出して社長を追いかけたあの日、陸路は人になった。
 「ねえ、社長」
 「うん?」
 これからは胸を張ろう。貴方にもらった、ただ一つの名があるから。

2005年03月20日(日)



 思い出

 「ねぇ」
 「ダメです」
 遠慮がちに袖を引く。窓を開けたままにしていたから、今夜は誘われるのではないかと思っていたけど。
仕事が一段落して、海の匂いにあの人は気づいた。
 「見て、アルディラ」
 夜空に浮かぶ月がことのほかきれいなことにも、気づいてしまったらしい。先程までの、眉間にしわを寄せた表情とは違って、優しい眼差しが月を捉えている。
 「ダメですよ」
 それなのに自分は素っ気ないことしか言えない。本当はこの人を喜ばせたい。その術も、最近は何となくわかるようになった。でも言えない。理解することと、実行することは同じではない。それも同時に学んだことだった。
 不正解とわかっていてそちらを選ぶ。人間は随分と難しいことを、時に簡単に行ってしまう。それを愚かの一言で済ませられなくなったのは、目の前にいる人物のおかげだ。
 「大丈夫だよ。見つからないって」
 窓から身を乗り出して、外の空気を吸い込む。自分と違って人間。だから自然を求める。そういうものだろうか。機械で構成され、機械に囲まれて生きてきた自分は、それほど自然に関心がなかった。この人が腕を取り、風に触れさせてくれるまでは。
 それから、お湯も。
 「マスター」
 多少低い声で、今にも飛び出して行きそうな後ろ姿に声をかけた。
 「は、い」
 窓にそっと手をかけて、静かに閉める。外気の残りが室内にわずかに残る。食事中に待てと言われた動物みたいな目で、こちらを見つめてきた。思考のどこかが鈍く熱くなった。なぜだかわからないが。
 「浸かり過ぎは、よくありません」
 「いや、大したことないよ、あれぐらい。東の国には朝昼晩と湯に入って怪我や病気を治すという治療法が……」
 「貴方は全くの健康体です」
 部屋の隅の椅子に腰掛けて、背を丸めてしまった。わかりやすい。
 「マスター」
 「たまにはさ。君と入りたいと思ったんだ」
 ガツンと何かぶつかった音がした。よく見ると手元に持っていた資料が全て床にバラバラになっている。
 「珍しいね。君が物を落とすなんて」
 ぼーっとして立っていると、あの人が素早く落ちた紙や本を拾ってくれている。慌ててしゃがんで二人して拾った。手が触れた。
 「私よりも、君の健康が心配だな」
 「いえ、私は」
 「夜ならば見つからないよ。近いうちにきっと、行こう」
 あの人の手の平は温かかった。結局、その夜の約束はどこか長い時間の中に埋もれてしまって、今に至る。この浜辺で、別の人間と共に在る。
 だから謝らなくていいの。貴方はあの人に似ているから。

2005年01月30日(日)
初日 最新 目次 MAIL HOME