池ポエム
ハンス



 

 彼女が置いていった雑誌をめくっていたら、背後から暖かいものがのしかかってきた。新手の霊現象ではない。田舎育ちの三鞍はそんなものはいくらでも見たことがあって、珍しくともなんともないもので、リアクションは薄めになる。それはともかく、首の辺りを冷たくて尖ったものが刺激するので、間違いなく彼女に違いなかった。
 「重い。それから、頭ちゃんと拭け」
 いつもは遥かに頭を見上げなければならないから、こういう時は何よりもまずやらずにはいられないらしい。彼女は頭を頭の上に、身体を身体の上に乗せる。少しでも高いところにいたい。何とも煙めいた性分なのだ。
 そんな子供っぽいところは嫌いではない。というか、三つも年上だというのに。
 「ちょっとそれ取って」
 人の背に抱きついたままで、彼女が言う。まるで人の上だろうが下だろうが気に止めていない。多分人の中にいても気にならないんだろう。
 「はい」
 三鞍が手を伸ばせば届く位置に、爪きりがあった。
 「爪は夜切らない方がいいぞ」
 「そう言うね」
 耳はよく聞こえているが、内容はなんだっていいのだ。
 器用に二人羽織りみたいになりながら、自分の指の爪を切る。構わず雑誌をめくる。
 「そういえばさ、三鞍勝手に読んでるよね」
 「さっきから読んでるだろ」
 何の雑誌かは知らなかった。ろくに表紙も見ずに、開いたところから前に読んでいる。内容はなんだかわからないが、気に入った写真があったから別によかった。この人がどんな雑誌を好むのか、全然知らない。読み物の話題は普段二人の間には出ない。そういうことは、どちらかというと医者と話す。あの人は昔から、それこそ絵本を読んでた頃からの付き合いだから、何を見たり聞いたり読んだりしたか、ただなんとなく話しても気が咎めない。そういう知り合いも三鞍は大事だ。
 「あ、ごめん」
 透明の破片が表面に乗った。
 「いいよ。社長のだし」
 「それもそうね」
 二人羽織りでは手が届かなかったから、三鞍が代わりにそれをつまんだ。三鞍の小指の先ほどの小さな爪の欠片だったが、それは驚くほどよく曲がった。
 「うおっ」
 思わず手の平に乗せて、目の前に持ってきて眺める。
 「何?何か変な色でもしてた?」
 「い、色は普通だけど」
 人差し指と親指で弄ぶには少し小さな。丁寧に、機械を分解する時みたいに指に神経を集中させて、それをちょこちょこと動かした。爪は決して割れなかった。柔軟性に富んでいる。
 「社長」
 曲げていた背を伸ばし、手で二人羽織りの黒子の方を後ろへ投げる。たたでさえ小柄な黒子はひっくり返り、三鞍は素早くその足を掴んだ。
 「あ、足」
 「足」
 靴下でも履かされるみたいに、足を両手で持ち上げられる。
 「アンタ、爪柔らかい」
 「みんなこんなもんじゃないの?」
 彼女は自分で足の爪をびよんびよん曲げた。自在に、かなり融通の利く感じで、爪が曲がる。折れない。
 三鞍はたっぷり三十分。己の爪の硬さについて語って聞かせた。どうやら彼女は足の爪は皆多少の柔軟性を持って、環境に対応するものと思っていたらしい。三鞍はついに裸足をでんと出して、鋼鉄の爪を披露した。硬いというのはそれはそれで、どんな過酷な自然にも耐えうる。三鞍の様々な冒険にも負けない爪は硬いもので、社長のどんな運命にも負けない爪は柔らかかった。
 爪談義の終わりに、彼女はつぶやいた。
 「じゃあ三鞍、タイガーナックル向きじゃない?」


2004年07月10日(土)



 触れていたい

 永倉は庭を眺めている。少し前から右肩の辺りに重みを感じているが、それより今はここのところ続く雨のせいで稽古ができないことの方が気に掛かる。しばらく経って、重みの他に変なうめき声が聞こえてきたので、さすがに右肩に触れてみた。
 ぼそぼそとした手触りがする。
 「新八……気づくの遅すぎだろ!」
 原田の短く刈った頭が、そこにはあった。
 「左之助。お前、いつからいた?」
 「本気でびっくりした顔してるしよォ〜。お前がここに来てすぐに、俺も来たんだよ」
 憮然とした表情で、全体重をかけてもたれかかる。原田の軽い頭とはいえ、さすがに肩が凝ってきた永倉は、無造作に頭を押しのけた。
 ごつん、と重みのない音がした。
 「ひどーい、新八ちゃん」
 畳で頬を押しつぶした珍妙な顔で永倉を見上げる。
 「肩が痛い」
 妙な上目遣いをされてもちっとも嬉しくない。永倉は立ち上がろうと刀を手にした。
 「待てよ」
 今度は素早く起き上がって、背を向けた永倉にしがみつく。決して小柄ではない原田に背中から抱きつかれて、それ以上進むのをやめる。
 「離れろ」
 「やーだよ。何のために俺がお前んとこに来たかわかる?」
 原田の腕が力強く全身を抱きすくめる。これではかなり本気を出さなければ、振りほどけそうにない。何かというとくっついてくる原田だが、これほど固く抱かれたことはあまりない。
 「用があるんなら、最初から言え」
 原田を背にくっつけたまま、その場に座り直す。永倉とて、用のある友人を無碍に扱うほど薄情ではない。
 「用っていうか、さぁ」
 永倉が座り込んだのをいいことに、原田はさらに体をくっつけてくる。体格は永倉の方が遥かにいいが、この男は時々、相手を包んでしまうような抱き方をする。
 「一番抱き心地いいんだよね。新八が」
 「趣味が悪いな」
 「なんで?」
 「お前、前に小柄な女が好きだと言っていたじゃないか」
 「言ったっけ?いつ?」
 「ずっと昔だ。いつかは忘れた」
 原田が頭を掻きながら笑う。
 「女と男じゃ全然違うんだよ」
 「そういうものか」
 「そうそう。何つったらいいかな。求めるものが違う」
 男に抱き心地を求めるのがそもそもどうか、と言おうとしたが、原田の暑苦しい体温が伝わってきて、なんとなく言わずにおいた。
 「それにさ」
 雨が部屋の端に降りこむ。風が強く吹いているらしい。
 「戸を閉めた方がいいな」
 永倉が立ち上がろうとする。
 「左之助」
 二、三度頭を叩いたが、原田は離れない。顔を永倉の肩にうずめて、俯いている。やがて永倉は異常に気づいた。
 抱くというより、それは締め上げるという言葉が似合っていた。両腕にこめた力をゆっくりと強めていって、次第に永倉の分厚い身体を軋ませる。
 「左之助!!」
 低い声が部屋に響く。
 松原ほどではないが、原田でも全力を出せば無抵抗の永倉を絞め殺せるだろう。容易に予想はついたのに、なぜか抵抗する気にはならない。同じ男の自分に抱きついて、黙って締め上げる男の気持ちなど永倉にはわからないが、原田を斬る気にはなれなかった。
 そのうち、力が抜けて原田の腕はだらりと垂れた。
 「気が済んだか」
 肩の上に顎を乗せて、顔を上げる。
 「あぁ」
 「さすがに少々痛かったぞ」
 「あぁ」
 「わかっているのか」
 「……わかってるよ。やっぱりアンタが一番だよ」
 なぁ新八、と原田は妙に気の抜けた顔で呟いた。
 襖を隔てて、山南と土方の声が聞こえてきた。


2004年06月28日(月)
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