池ポエム
ハンス



 仮想記憶

 記憶について。
 新しいことを覚えたら、古いことは忘れていく。そういうものだ。自分の物覚えの悪さは自覚している。そう言ったら、伊織さんが何か思い出したらしい。
 「そういえば祀、小学生の時に一週間連続で募金忘れてたよね」
 伊織さんの記憶の方がどうなってるんだか。確かに、五年生の時、募金の金を持ってくる持ってくると言いながら、朝になるとすっかり忘れて、忘れに忘れて一週間経ってしまって、ついに募金しなかった。払いたくなかった訳じゃない。本気で忘れていた。なぜああも見事に毎日忘れられるのか、と当時も伊織さんは笑っていた気がする。
 「募金は忘れたけどさ、忘れたことは今覚えてるんだよなぁ」
 伊織さんは、そうね、と少し目を伏せた。
 「大事なことはいつまでも覚えてるものじゃない?」
 「その、私の募金忘れ事件が大事なの?」
 「そうじゃないけど、インパクトがあって忘れられないことってあるでしょ」
 大事なこと。どうでもいいことばっかり覚えてるような人もいるけど。例えば赤峰のノリピーとか。彼女は週末のロンドンの天気を覚えて、明日の集合場所を忘れるような人だ。
 優先順位だけは当人にしかわからない。
 「大事件が起こると、それまで自分が何考えてたか忘れちゃうよね」
 今朝は、台所にゴキブリが出たって妹が騒ぐもんだから、英語の辞書をカバンに入れるのを忘れてしまった。ゴキブリはインパクトが大きい。そのことを言ったら、眉毛が下がり気味になった。
 「祀の人生って楽しそう」
 そうでもないよ。言いたかったけどやめた。大事件といえば、アレだ。アレしかないよね、伊織さん。私の周りで、何もかも忘れてしまうぐらいの事件といえば一つしかない。伊織さんが言いたかったことは正しい。
 「伊織さん、私より私のこと覚えてそうだなぁ」
 静かに笑って、麦茶に口をつける。
 「ちゃんと覚えててね、色々と」
 「祀のことをそんなに記憶したら、自分のことが覚えられないよ」
 彼女なら二人分は軽いだろう。それでなくても、何十人分の、忘れてしまいそうな小さなことを感じ取る人だから。でも私のことは事実で覚えていてほしい。なんとなくでなく。
 「伊織さんのことなら、私が覚える」
 忘れっぽいのに、と笑って空のコップを置いた。


2004年06月13日(日)



 仕事にかける情熱(椅子女編)

 またドアが開いた。
 「よー」
 「おっ。珍しい人が来たな」
 作業着の女性と、後ろから小柄な学生風。
 「ここ、本当に入っても大丈夫なんですか?」
 「あれぇ。やっちゃんまで。本気で珍しいや」
 「うわっ、エンペ」
 最初に入った友人は、慣れた様子で新作の棚に入っていってしまった。
 「話には聞いてましたけど」
 何やら友人の視線が冷たい。
 「そういや、やっちゃんは来たことなかったね」
 やっちゃん、と呼ばれた友人はしばらくカウンター内の水瀬をうさんくさそうに見つめていたが、やがて何か諦めたように先に入った牧の後を追いかけていった。
 「あ、そうそう。牧さーん。頼まれてた物、入ったよ」
 「おお」
 新作・日本映画、の棚の間からくぐもった返事が返る。水瀬が挟まるように棚の間をすり抜けると、やはり二人とも挟まるようにして立っていた。
 「ありがと」
 「何々?何て映画ですか、それ」
 斉藤が牧の手元を覗きこむ。人一人分の隙間しか空いていないから、長身の牧が立つと、水瀬と斉藤は顔を見ることもできない。牧は紙袋から出して、斉藤に渡した。
 「い、椅子女?」
 パッケージには、半裸の美女と椅子が融合した、何とも言いようのない斬新な生き物が描かれている。
 「牧さんのお兄さんも変わってるよね。いくら椅子が好きだからって、そういうのまで椅子がいいんだ?」
 「に、人間椅子みたいなものですか」
 「いや。それはCGを使って、ほぼ完璧に椅子と人が合体している」
 斉藤は黙って牧の手に戻す。
 「リクエストする兄貴も兄貴だけど、ちゃんと探し出してくるエンペはすごいな」
 「まぁ、商売ですから」
 「私はよくは知りませんけど、その商品知識、なんか偏ってませんか?」
 「いや、こんなもんでしょ」
 狭い棚の間を脱出して、カウンターに戻る。ついでに手招きして斉藤を呼ぶ。
 「世の中にはさ、色んな嗜好があるもんだよ」
 と、言いつつ斉藤の前に大きな表を広げる。
 「ほら、これ」
 「何ですか。この、白い方とか黒い方とか痛い方とか湿ってる方とかいうのは」
 水瀬は、学校の先生が使うような指示棒を出してきて、表をびしっと叩いた。先っぽがボールペンにもなる優れものだ。
 「なんだかんだ言って興味津々なやっちゃんに、特別講義をして差し上げよう」
 「違います!」
 「いいかね、まずこの湿ってる方っていうのは」
 「ちょっと、勝手に始めないでください!」
 土曜の昼下がり。店内には、「熱烈集中講義人間の嗜好の多様性について」が繰り広げられ、全て終わるまで三時間を要したという。


 ほんとはこっちに載せるつもりじゃなかったのに、1000字以上で弾かれたので。つれないぜ、某純文日記。


2004年06月05日(土)
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