池ポエム
ハンス



 空白の一日

 「浅葱、行ってくれるかな」
 間接的な言い回しをする子供、なんてあまり可愛いものではない。窓を背景に、腕を組んで物憂げに話す十代前半なんてもっといやだ。
 浅葱はあからさまに従姉妹を睨んだ。
 「そんな怖い顔しないでよ。まだ慣れないけど、一応社長なんだよ」
 「わかってる。これは癖だ。気にするな」
 「気になるんだってば。浅葱、目つききついから」
 余計な一言を加えたので、さらに目を細めてやった。
 「陸路のところに」
 「断る」
 目の前にいるのは、五つ下の従姉妹。一族内でも可愛いと評判の、整っていてなおかつ愛嬌のある顔で、それなりに小柄でいたいけな容姿。しかし、浅葱は可愛いと思ったことはあっても認めたことは一度もない。そう、お願いされても総却下。
 今まではそうしてきた。
 「頼むよー」
 数ヶ月前に社長になって、慣れない正装をしてウロウロ歩き回るようになってからも、関係は変わるはずもない。いきなり立場の差ができても、向こうもこちらも以前と同じだった。
 「それは、社長としてだろう?」
 子供っぽい顔つきが、一瞬にして引き締まる。真剣な顔になると、瞳は猫の目のようで、人を真っ直ぐに射る。
 嫌いな顔だ。
 「そうだね」
 彼女の母親もそうだった。明るい顔と、怖い顔。落差の激しいところ、そのどちらも本当でしかないところがあまり好きになれない。
 「怖い声で、命令してもいいんだけど」
 奥のドアが軋んだ。すぐに飛び出してこれるよう、控えているのだ。それだけ用意周到なのに、隙だらけのふりをする。
 「アニーだよ。アニー以外は誰もいない。本当だよ。知ってるだろ」
 忠実な下僕を一人側に置いて、後は誰もいない。厳重に見えて、空っぽの部屋。それが社長室。先代のやり方を踏襲しているらしい。
 「アニーか」
 お互い、少しため息をついた。
 「陸路は、やっぱりいないとダメなんじゃないかな」
 「それは全体の意見か」
 「ううん、私の」


2004年05月17日(月)



 回避行動

 世界の果てには六つの道がある。
 正確な地図はまだ普及していなかった頃。大きな大陸と米粒ほどの島々で構成された世界を前にして、あの人は語った。
 道。誰が言い出したか知らないが、世界の輪郭を暴き出すという夢想に憑りつかれた人達は、六つの道を信じていた。なぜ六つなのかは、今日の研究においても明らかにされていない。
 まだ、この大陸の端がどこにあるのかもわからないというのに。どこかを通って、どこかに通じる道が、全てというものを覆っている。
 「陸路。いい名前だろ」
 日の出を告げる鐘が鳴る。窓辺に座り、朝日に背を向けて地図をかざすあの人は、見慣れているはずのいつもの顔とは違って見えた。
 「うん」
 朝になったのは偶然。
 まだベッドに腰掛けたまま、まぶしい光の中の地図を追う。六つどころか、道などろくに見えない。
 地上にある道の全て。たどることができれば、行けない場所はこの世にはない。暗闇の中で、かろうじて囁かれたこの人の声が言っていた。嘘か本当か。どちらでもいい。ただ、いつもうるさいこの人が、決して誰にも、向かい合っている相手にすらも、聞こえないように、聞かれたくないようにつぶやいた言葉だから。
 「陸地の陸に、道路の路」
 画数が多いかな、と心底心配そうな顔をしている。
 「書けるよ」
 根拠もなく、強い口調で言った。
 あの時は、ひらがなしか書けなかったけど。
 自分の名を書くたびに、生まれ直したあの日を思い出す。


2004年05月08日(土)
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