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■ 今、ほしいもの
「親方」 「親方だなんて、また。芽菜の娘、私のことは……」 砂漠の小さな嵐が現れてから一時間後。村の中心にある館の二階。 老婆はため息をついた。顔中に刻まれた人生の様々な紆余曲折がそのまましわになっているような老婆だ。目の前の突然押しかけてきた、自分の孫ほどの年の子供に手を焼いている。 子供は村の見張り台を自分の巣のようにしている。勝手な縄張りを作るんじゃない、と軽く小言を言うために呼びつけたはずなのに、いつの間にか一時間も居座られていた。 「わかってるよ。でもあんたは私にとっては親方だ。それより」 「仲間に入れたつもりはないよ。勝手に勝手な呼び名で呼ばれる筋合いもない」 甘くしたつもりはない。厳しくしているつもりもないが、この子供は他の村の連中と違って優しくはできない。 万年ゆがんでいるフレームのメガネから覗く瞳は、子供だった。 「名前がほしい」 「だめだ」 「だって、不便だよ」 「何遍も話した通り、ここでは自分の女親以外に名づけの資格は誰にもないんだ。たとえ管理人の私でも、ね」 よその人間が聞くと奇妙極まりない話だが、子供は名前がない。 「それがわからないんだよなぁ。別にいいじゃん」 「そんな風に軽く考えているうちは余計名前を与える訳にはいかないよ」 この問答は、子供が生まれてから何百回と繰り返されている。 「なんで?名前ってのはつまり、人の呼ばれ方でしょ」 「違う。それならただの呼び名にすぎん。お前が芽菜の娘と呼ばれているのと何も変わらない」 「変わるよ。芽菜の娘ってのは私のことだけど、私の名前じゃない」 「芽菜という者がお前の母親だったんだ。仕方なかろう」 その母親は、今はもういない。 「でも、それと私の名前は関係ない」 子供にとって、顔も見たことのない母のことなど、何度言われても他人同然なのは仕方ないことだ。老婆も、母のことは名前以外は話したことがなかった。 「ほぅ、ならばお前は名前とは何だと思う?」 「名前ってのは、その、私のことだ、と思う」 風に吹かれすぎて始終ざわざわしているような脳みそで、なんとか答えた。ほんの時々だが、この子供はちゃんと考えることができる。 「だろう?大切なことだ。軽々しく他人が決められない。たかだか、町外れの駆け込み宿の管理人風情が」 「でもさ、私はあんたのこと嫌いじゃないんだよ」 「その程度ではだめだな」 老婆はこの子が嫌いではない。
2003年06月07日(土)
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