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風紋 もくじ / この前 / この後
自分でも何故なのか理由もよくわからないままに、ただひたすらに、ある物事に憧れることがある。見てみたい、聞いてみたい、感じてみたい、行動してみたい、近付いてみたい…など。そういう時、私は、“他人にきちんと説明できるような理由もないのに…”、“こんな私が、近付いてみてもいいのか…”と、怯んでしまう。 夕方、少し身体がだるかったので、横になっていた。横になったものの、眠り込んでしまってはいけないと一生懸命頑張っていた…のだが、少しばかり、うとうととしてしまっていた。 そのような、夢なのか現実なのか、よくわからない感じの中で、突然「これで、自分自身の物語は語り終わった」という文字が、目の前に字幕のように現れた。それは、見えたというよりも、感じたというのに近い。ちなみに、「これで」というのがどんなことを指すのかも、「自分」が誰を指すのかも、夢と現実の間に居た私にはわからない。何の脈絡もなく、その言葉だけが飛び込んできたのだ。あるいは、その文字の上に何か文章があるのが見えた…かもしれない。 しかし、その言葉に対して、私は「終わり」を感じなかった。確かに、「自分自身の物語は語り終わった」のかもしれない。しかし、その物語は何らかの形でずっと続いていき、終わらないのだということを、強く感じていた。「自分自身の物語は語り終わった」地点から、何かが始まるということ、あるいは何かが生まれるということを伝えたいという思いが込められた文字のように見えた。 そこで、家族の1人がばたばたと音を立てて戻ってきたので、ようやくはっきりと目が覚めた。現実に戻った。目の前には、見慣れたリビングルームの風景があった。…あれは何だったのだろう。やはり夢だったのだろうか…夢なんだろうな。やっぱり。冷静に考えると、夢。しかし、やけに印象に残る…。 それは、昨日購入した「犠牲 わが息子・脳死の11日」(柳田邦男著、1999年、文春文庫(単行本:1995年、文藝春秋))を読み終わり、その続編の「『犠牲』への手紙」(柳田邦男著、2001年、文春文庫(単行本:1998年、文藝春秋))を読みかけていた間の出来事だった。それと関連するのかもしれないし、しないかもしれないのだけれど…。 そう言えば、この場所で日記を書き始めてからちょうど1年が経った。1年経った感想としては…気が付いたら1年経っていたというか、こんなに続くとは思っていなかったというか、そんなに頑張ったつもりもないのに1年経っていたというか…。 ずっとWeb日記を書きたいと思っていたけれど書けずにいて、でも“書いてみたら?”と私の背中を押して下さった方が何人かいらっしゃって、それで、すいっと書き始めた。何のために、誰のために書いてきたのか(書いているのか、書こうとしているのか)、今でもよくわからない。もしあの時に、この場所で日記を書き始めていなかったら私はどうなっていただろうと思うことが時々ある。それでもそれなりに生きてはいるのだろうけれど。 どんなきっかけであれ、この場所に立ち寄って下さった方々に、心からの感謝を申し上げます。読んで下さる方がいらっしゃらなければ、私は書けなかったと思います。そして今の私は、書き続けることができることを幸せに思っているのです。 怖さも抱えながら、ですが。 ちなみに、この日記を書き始めた頃に、私は自転車に乗っていて派手に転んで怪我をし、その後数日間はそれを日記に書いていたのだけれど(こちらの後、数日間など)、結局、うっすらと痕が残ってしまった。右膝の右下あたりに、今でも薄い茶色の直径3cmくらいの痕が残っている。ほとんどわからないほどのものだし、ロングスカートやスラックスだと隠れてしまうので、あまり気にしてはいないけれど(それよりは、最近の虫刺されの痕の方が目立っている)。 自転車に乗る時は、小さい段差や落ち葉などに引っ掛かって転ばないように、どうかお気をつけて下さい。 ちなみに、あの日にガーゼや消毒薬を買って来てくれたり、手当てをしてくれたり、心配してくれたり、記念に傷をデジカメで写真に撮ってくれたりした同僚や後輩とは、今でもとても仲良しです。大切な人々です。
昨夜は日付の変わる頃に、何故だか涙をつるつると流しながら眠り、夜中に2〜3度目が覚めた後、朝の6時30分頃に一度起き上がった。その時に、「そよ風」(こちら)に写真を掲載したり、少し作業をしたりしていたのだけれど、やはり疲れたなと思ってもう一度横になったら、そのまま眠り込んでしまって、再び目が覚めたら10時だった。…寝過ぎ。 「犠牲 わが息子・脳死の11日」(柳田邦男著、1999年、文春文庫(単行本:1995年、文藝春秋))(詳細)という本を先日注文していたのが届いた。思っていたよりも届くのが早かった。少しずつ読もうとしている。 帰りに、ヒメヒマワリの花を持って、「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ旅立った友人」に会いに行って来た。 帰りがけに、偶然にも住職の方とお会いして、いろいろお話をさせていただいた。大切な時間だった。 とにかく、毎日、何かをこの場所に書こうということは、つい先日に決意したことだ。 それでも、時々は、書けないと思うことがある。書く気持ちそのものが起こらない時と、書きたい気持ちを抑えねばならないと思う時に分かれるように思う。 時々は、打ちのめされる。私がここで書き続けることは、誰かを傷つけることにしかなっていないのではないかと思うと、申し訳なくて絶望的になり、もう二度と書けないと思う。 それでも、今の私は、書ける時に書けることを書くという方法を取る。 つらい・悲しい・後ろ向きというだけでもない、かと言って、嬉しい・楽しい・前向きというだけでもない、そんな“何か”をここで生み出していきたい。 夜、近所の家に月下美人の花を見に行った。静かな道を歩くと、サンダルの音が、“ぴと、ぴた”と響き、その音が家々の塀に反響して“ぱん、ぱん”と響いていた。 花は、それはそれは、見事なものでした。 BGM:「風をみたひと」(「女声合唱とピアノのための『ファンタジア』」より。訳詩:木島始/作曲:木下牧子) 風をみたひとが いるかしら? あなたも わたしも 見ちゃいません でも 葉っぱが 垂れて ふるえていたら 風が 吹きすぎているのです 風をみたひとが いるかしら? あなたも わたしも 見ちゃいません でも 木々が 頭で おじぎをしていたら 風が 吹きすぎているのです (クリスティナ・ロゼッティ(木島 始 訳詩)) 追記: …と書いた後で、不思議な恐怖にとらわれている。自分があまりにも無意識に、あまりにも無自覚に、あまりにも無防備に、言葉を発しようとしているのではないかという恐怖。どこでもないこの場所に書くことによって、確かに何かが生まれるのかもしれない。ただ…、ただ。 今は、…、……。 (2003/09/06, 00:30)
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