風紋

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2003年05月25日(日) 近況報告(考えたこと) / 印象に残った文章 / 「ハンガリー狂詩曲第2番」 / 「そよ風」に写真を追加

風の強い日。風の音を聞き、右に左に揺れる木々を見ながら、少しわくわくしたり、少し不安な気分になったりした。

何があってもへこまない人間でありたいなぁ…と、現実にはとても不可能なことを、最近よく考える。私は、ちょっとしたことで気分が浮き沈みしやすくて(これは今までしつこいほど書いているが…)、気分が沈んだ時には何もできなくなってしまうことが多いので、いっそ感情などなくなってしまえばいいのにとか、何も感じなくなってしまえばいいのにとか、思ってしまう。しかしそうなってしまうと、花を見ても、人の暖かさに触れても、青い空を見ても、何とも感じなくなってしまうのだと思うと、何とも言えない気持ちがする。…喉の下の方が焼けるような気持ちが。

つらい時にはつらい、悲しい時には悲しい、寂しい時には寂しいと感じることも、その気持ちをきちんと自分で受け止めてやることも、きっと必要なのだろう。…とは思いながらも、つらさや苦しさに振り回されて、途方に暮れたり、もうどうなってもいいよと投げやりになってしまったりすることもある。

時折、全身から力が全部抜けていくような疲労や、先行きに対する底なしの不安を感じることはないことはないけれど、2日間休んだためか、少し元気にはなった。夜には、6〜7月にはどうやって仕事を進めようかと考えることもできた。できるかどうかわからないけれど、小さな目標と大きな目標を分けて、目標をできるだけ具体的な形にして、少しずつ進んでいこうかと思った。達成できても、できなくてもいい。達成できなくても死にはしない。

周りの人に心配をかけたり、心配してもらうのを待つばかりではなくて、私が自分でできることは自分ですること。私自身がどうしても限界だと思ったら、周りの人に素直に「無理です。助けて下さい」と言うこと。それも無理で何にもできなくなったら、素直に休むこと…などを実行に移せたらなぁ、と考える。周りからいい評価を得たり、頑張っているとみなされたりすることが、大切なことだとは限らないと、自分に言い聞かせる。もちろん、いい評価が得られれば嬉しいのだけれど。


朝日新聞2003年5月25日付け「中高生のためのブックサーフィン」中の「読書日記」(三浦しをんさん執筆)の文末を引用。

「『蟹の横歩き』と岡崎版『うたかたの日々』には共通する「気分」がある。それは、乾いた絶望感。どんなにあがいても、すべては意味もなく失われてしまうということ。そしてその後も、世界は淡々と続いていくということ。
 その非情さに耐えるためには、日常から小さな喜びを集めて生きるしかないのだろうけれど、それすらも見失われがちな今、この二作品は満を持して生み出された。たぶん、確固たる過去も未来も提示されないまま、寄る辺なく漂う若い人たちのために。」


『蟹の横歩き』も、『うたかたの日々』も読んだことはないのだけれど、この言葉が印象に残ったので。


今、聴いている音楽:「ハンガリー狂詩曲第2番」(フランソワ=ジュリアン・ブラン指揮/パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団)
聴いているのは吹奏楽に編曲されたもの。これが一番馴染みがある演奏。この曲も1度演奏したことがあるけれど、難しいうえに、当時の自分自身の状態があまりよくなくて、本番に出るのやめると我儘を言ってしまったり(なんて奴だ…)、周りに怒られたり迷惑をかけたり。好きな曲なのだけれど、当時の思い出があまりに強すぎて、気持ちが引き締まるというか…。

あの時と同じことを繰り返すまいと思っているのに、私は今も全然成長していないんじゃないか、同じことを繰り返しているのではないかと思う。他人に迷惑ばかりかけて。自分自身をコントロールできないで。


そよ風」に、写真を追加した。あまりうまく撮れていないけれど。花の綺麗な季節なので、本当はもっとたくさん花を撮りたかったのだけれど、今日は風が強くてあまり出歩くことができなかったので、そのあたりにあった雑貨類も撮ってみた。写真を楽しむくらいの余裕は生まれてきたのかなと思う。

明日からまた平日だから、早く寝ないと。


2003年05月24日(土) こんな1日 / 自分で自分のことがわからない / 聴いたCD(「COWBOY BEBOP O.S.T.1」) / 「あなたが居なければ生きていけない」

昨日、結局眠ったのは割と遅かったのに、そんなに遅くない時間に起きる。何を思ったか、午前中に洗濯、台所の掃除、自分の部屋の掃除、洗面台の掃除と、普段しないような家事までしてしまう(決していつもはこんなに働き者ではない)。でも、布団を干そうかなと思って布団を階下まで運んだものの、布団止めばさみ(?)がなく、探しているうちに洗面台の掃除をする気になって洗面台の掃除を始めてしまったので、結局、布団は干さずじまい。何のために階下まで持って下りたんだか…。

午後は仕事の整理、レポートの採点、時々ぐったり、など。レポートの採点に4月30日の日記に書いたユニボールシグノの超極細(0.28mm)(三菱鉛筆ホームページの商品情報から
こちら)の赤色を使っているのだが、かなりの数のレポートを採点してコメントをつけているので、ふと気が付いたら、赤色だけが他の色に比べてかなりインクが減っていた。


自分が、今どんな状態なのか、そもそも自分はどんな人間なのか、どんな人間だったのか、自分でもさっぱりわからなくなっている今日この頃。そのあたりのことは、案外、自分でなくて、自分の周りの人の方がよくわかっているのかもしれない。それは、自分の靴紐が解けているのには自分では気付きにくいのと同じようなものなのかもしれない。何か、私は肝心なものを見失っているような気がして仕方がない。

私は、自分で自分の状態を言葉にするのを避けているようなところがある。自分で自分の状態を言葉にすることによって、それが固定化してしまうのが怖いからだ。あと、それを言い訳に使ってしまいそうな狡い自分が許せないというところがある。例えば、私は人見知りが強くて、初対面の人の前ではかなり緊張してうまく話せないのだが(それはこの日記にも度々書いたけれど)、そう述べてしまうと、自分に対して「人見知りが強いから、多少初対面の人に失礼に見えても仕方がない」と言い訳をしてしまいそうで、それは狡いと思う。同様に「人前で話すのが苦手(従ってプレゼンテーションも苦手)」と言ってしまうと(それも事実なのだが)、「苦手だから多少まずくても仕方がない」と言い訳をしてしまいそうで、そんな自分がとても嫌だなと思う。

要は、そういう自分であるということを把握したうえで、そういう特性をもった自分として、どのように生きていくか・生きたいのか、そういう自分なりに何かできることはないのか、何ができるのか、ということなんだろうと思うけれど。最近は、自分にはもう何にもできない…と思ったりもし、できそうなことさえしたくない(というかする気力がない)。そう思うことは良くないなと思ったり。

最近、私は日記で、元気がない調子が悪い…と何度も書いているけれど、それも私は私自身に対して狡いなと思っていて、要するに頑張りたくない言い訳をしたいだけなんじゃないの?、元気がないというのも自分の思い込みではないの?と、後ろめたく思っている。そう考えると、自分の状態を他人にきちんと説明できない。あまり親しくない人だと「うーん、少し不調かな。でも大丈夫です」と言う。ある程度親しい人になると「もうほんとに酷くて…」とは言うものの、おいおいそんなに酷いか?と思うと、自分でもよくわからないのだ。

本当に正直なところを書くと、そんな感じ。私自身は、今の自分の状態を、本当に苦しいしつらいと思っているけれど、四六時中そう思っているわけではないし、時々は笑ってもいる。仕事もできるときはできる。ただ、落ち込み出すと際限なく落ち込んで止まらないだけだ(「だけ」か?)。

私はいったいどうなるのだろう。どうしたいのだろう。

また、「なく」が「泣く」と変換された。自分でもいい加減にしたい。


今日、聴いたCD:「COWBOY BEBOP O.S.T.1」(こちら

「カウボーイ・ビバップ」というアニメの最初のサントラ盤…らしいのだけれど、私はアニメ自体については実はよく知らない(最後の数回だけは見た。フェイという登場人物が私は割と好きで、でも最後はフェイを哀しいと思った…が、この解釈が合っているかどうかわからない)。が、この音楽はかなり好き。最初の音を聴いただけで、おおっと思った。

1曲目の「Tank!」(オープニングテーマかな)が一番好きで、何回続けて聴いても飽きない(3分30秒の曲だから、5回続けて聴いても17分30秒。10回続けて聴いても35分)。とにかく、すごく恰好いい。他の曲も好きで、8曲目の「Waltz for zizi」の果てしない優しさや、9曲目の「Piano Black」の切ない切迫感も好きだなぁと思う。

このCDを聴くたびに、こういう場面でサックスやトランペットを恰好よく演奏できたらいいなぁ…と思う。サックスもトランペットも吹けないけれど。

今、突然に「ハンガリー狂詩曲第2番」(リスト)を聴きたくなったが、それはまた後日。この日記で音楽についてよく書いてきたので、今まで、どの音楽を取り上げてきたのかよくわからなくなった。もしかしたら2回書いている曲もあるかも…。


「あなたが居なければ生きていけない」と、はっきりと思うことは…あるともないとも言えないけれど…(この場では秘密にしておきたいだけかも)、でも実際、自分でも気付かないところで、周りの人にすごく支えられているのだと、大袈裟に言えば生きるためのエネルギーを得ているのだと、最近思った。それは、直接何かをしてくれたとか、何かを与えてくれたということをしてくれなくても、ただそこに居るだけで、そして私が「その人が居る」ということを感じるだけで、それで十分なのだと思った。

一方で、「あなたが居なければ生きていけない」というような私であってはいけないとも思うけれど、誰かに依存しなくても、しっかり自分で生きていかなければならないと思うけれど、きっと、居なくなれば、日々泣き暮らすだけでは済まないだろうと思うし、本当に生きていけなくなるかもしれないと思った。

というわけで、いろいろな人に、いろいろとありがとうございます。そして、ごめんなさい。


5月20日の日記に、やや追記。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)