Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2004年02月26日(木) 孤独

たとえ卒論が終わっても、結局何一つ改善されない現状。この無意味に広い研究室にただ一人であることは何ら変わりはない。新しく4年生が二人来ることになったが、いったいどれほど顔を出すことか。メッセンジャーでは好感触だったが、メッセンジャーと実際に会うのとは別世界だ。基本的に僕は、まともに顔を見て話すときよりネット上のほうが愛想がいい。そういうのが似合わない外見だから…。それはきっと僕だけじゃない。誰もが別のメディアでは別の顔を持つに違いない。

それはそれとして、この一人という状況はやはり耐えがたいものがある。覚悟して入ってきたはずだったが、時間が経てば経つほど、慣れるどころか苦痛は増していく。世の中には孤独にさいなまれて悩む人は大勢いて、そんな人と比べれば僕の置かれている現状なんてどうってことはない。家族もいるし、友達もいる。作られた偽りの世界もあって、その世界は確かに僕を受け入れてくれる。踏み出したら抜けられない麻薬のような世界だが、この世界があることで、僕は僕であることを保てる。

しかし、研究室に足を踏み入れれば、そこはただ一人の世界。たいしたことのない作業でも、一人でやるのはこの上もない苦痛だ。ただ研究室の机のサイズを測り、ただ本をスキャナにかけて取り込む。なんてことのない作業だし、僕はこのたぐいの単純作業は好きだ。なんせ日記だって、もともと文章を書きたくてやっているのではなく、キーを叩きたいだけなのだから。しかし、ひたすらそれを続けるのは苦痛でしかない。もともと、僕は一人が好きだった。家ではずっと弟と相部屋で過ごしてきたし、一人になれる空間と時間が欲しかった。しかし、1年にもわたって1日のほとんどを一人で過ごしてきて、その苦痛を思い知った。何もしないのなら問題はないのだ。ただ、何かをしようと思ったとき、一人ではなにもする気が起きないのだ。感情を高ぶらせてくれるような刺激がない。自分で何かをしない限りなんの変化も起きない部屋。それが魅力に感じたこともあった。しかし、それは苦痛だった。

プライベートで、何もすることがないのであれば、一人は落ち着くだろう。しかし、やらなければならないことがあるとき、自分を奮い立たせなければならないとき、自分でない誰かはかけがえのない力を与えてくれる。それは世の多くの人がごく自然に手に入れている力であるにもかかわらず、とても大きな力なのだと思う。

事務連絡なんてメールですればいいと思っていた。いちいち会って話すなんて面倒なだけだと思っていた。世の中、人間関係に縛られてべたべたしすぎだと思っていた。しかし、失ってみなければ気づかない。それらはとても重要なことなのだ。少なくとも社会の中で生きていくためには、無駄と感じようとも必要なのだ。広くて何もない部屋からは、何も生み出せないのだ。

人工知能の世界では、創造は環境から生まれるという考え方があるらしい。今までになかったものを作り出す。しかし、誰かが作り出す以上、どこかにその元となるものがあるはずだ。そして、それを自分が持っていないのなら、あとはその環境にあったとしか考えられないではないか。こんな、考え方だ。自分が多くのものを持っていても、周りに何もなければ、自分がさらに成長することはない。常に変化しつづける環境があってこそ、人はその環境に対応するために変化するのだ。

安定した環境もいい。心が安らぎ、落ち着く。しかしそれでは何も生み出せない。前に進みたければ、少しくらい荒れていることが必要なのだ。自分が何もしなければ何も起こらない。そんなのはもう、うんざりだ。



2004年02月20日(金) ようやく一段落

さてさて、ようやく一段落して落ち着けそうだ。

今日はミーティングをやった。んで、毎日来いと言われた。そ、そんなこと言われても、バイトしないと前期の授業料払えませんがな…。奨学金をもらえなかったら大変なことになりそうだ。

まあ、落ち着いたということで、まずは寝よう。そして、やりたかったことを一つずつこなしていくことにしよう。



2004年02月18日(水) 雲散霧消

卒論発表が終わった。内容は…知らん。

とにかく、帰ろう。明日からはゆっくりできる…かもしれない。



2004年02月17日(火) 食い違い

僕の卒論には、そもそも自分が何をやっているのか分かっていないという根本的な問題があるのだが、明日発表という土壇場に来て、さらなる問題が起きた。

それは、教授と助教授の食い違い。助教授は「論文は日記ではない。だから論文には、自分がやったことを書くのではなく、一般的な事実や考察を書くべきだ。」と言う。教授は「論文は自分の研究の成果を示すものだ。だから論文には、一般論だけでなく、自分がやったことを書かねばならない。論文には自分が研究をしたことが分かる証拠を示すべきだ。」と言う。おそらく、彼ら二人の言葉には矛盾がなく、その両方を満たすような答えがあるのだろう。だが、僕にはそれが分からない。自分がやったことを書いてはならず、かつ、自分がやったことを書かねばならない、と言われているように感じる。

どちらにも説得力がある。一般的でなければ論文として意味を持たないのは自明である。一応書いておくと、僕がやったらできたけど、他の誰かがやったらできませんでした、ということでは役に立たないからだ。そしてこのときに、自分のやったことなど不要というのが助教授の意見であり、必要というのが教授の意見であるように感じるのだ。だが、それでは矛盾している。矛盾はないはずだ。あっては困る…。経過ではなく結果を書けばいいのだろうか。だが、経過がなく結果だけでは何の証拠にもならない。日記じゃないから自分のしたことを書いてはならない、というのは少々おかしい気もする。 まあ、肩書きを考えても、助教授よりも教授の意見を受け入れるべきか。



2004年02月12日(木) 余裕

卒論発表会は2月18日で今日が12日か。まだプレゼンテーションの資料どころか論文の修正も終わっていない。論文を修正しなければ、論文の発表資料など作れないと言うのに。やれやれ…。卒論が大変なのは当然のことだが、問題はやる気がまったく出ないことか。プログラムは言われて書いても構うことはないが、さすがに好きなことを書けない論文というのはどうかと思うなあ。僕の考えではなくて教官の考えを記しているものを、僕の名前で発表していいものなのだろうか。

こういう状況になってみると、なおさら余裕ってことを考えさせられる。やっぱり、評価される人間に共通することは、余裕があることではないかと思うのだ。同じことをやっても他の人よりも余裕があるからこそ、ほかの人には気づかないことができる。そして余裕があるからこそ、同じようにやっている人よりも一歩先へ進むことができるのだ。先を目指すにしても、人と並んで歩むにしても、常に余裕を持ちつづけることが大事ではないかと思う。自身のすべての力を一つのことに使ったとき、その他のあらゆることはどうなると言うのか。今の世の中は片付けなければならない問題が毎日山のようにある。社会生活をする以上は、最低限社会のマナーを守らねばならない。必死ではいけないのだ。

掲示板に「必死だな」と書かれることがよくある。その指摘が妥当かどうかはその時々だと思う。しかし、この言葉自体を考えたとき、批判としてはきわめて妥当な言葉だと思うのだ。つまり、「必死」であるということそのものが批判の対象となるということだ。必死にがんばるのは、本人は楽しいし、周りから見ていてもほほえましいと言うか、好ましいことではあるだろう。しかし、一つのことに必死になっていると言うことは、その他のすべてを投げ捨てているということにつながりかねない。もし周りのすべてを投げ捨てていないのなら、それは本当の意味で必死になっているのではない。どこかで自分を見つめる目を持ち続けているのだ。

自分がどれだけつらくても、どんなに苦しいときでも、自分の周辺の環境は消えたりしない。つらいから、苦しいからって、周りに迷惑をかけていいということにはならないのだ。だからこそ、余裕を持たねばならないのだ。どれほどつらくても、マナーは守るべきだし、人とのコミュニケーションをおざなりにすべきではないのだ。何をやるにも八分以下の力をもってすべきなのだ。



2004年02月04日(水) 恋愛成績表

一時期、はやったようなきがするが…。ちょっと測定してみた。まあ、見ての通りほぼ全滅である。6項目の5段階評価で全部足して7ってどういうこっちゃ…。まあ、そんなもんだろうとは思うが。おおむね間違ってはいないが、難しい話やややこしい話は割と好きだったりするのだが。診断結果が間違っているのか、あるいは自分がそう思い込んでいるだけなのか。



2004年02月03日(火) ミーティング

今日は研究室でのミーティングがあった。で、やはり卒論の修正を指示された。そもそも目的がずれてるってどうすべきなのか…。船長モデルのシミュレーションをするシミュレータを作ったわけだが、肝心の船長モデルは利用者が書くことになっている。いったいどう説明すればいいのか。

ところで、そのミーティングの中で社会人修士の先輩の研究についても話した。簡単に言えば、船ってものが体験できるようなゲームを作るって話だ。コンセプトとしてはおもしろいのだが、その内容として、教授とその先輩との間で完全な食い違いがあった。先輩は、どんなゲームにするか、ゲームの目的は何か、そのために必要なのは何か、問題点は何か、という考え方をしていた。まあ、正攻法だろう。一方教授は、そのゲームで何を体験させたいのか、ゲームに盛り込むべき要素は何かという点から考えていた。これだけだと食い違っていない。しかし、先輩はゲームの目的として船を使った貿易をして発展を図るとか、船だけでない要素を盛り込んで、ゲームとして魅力的なものを作りたいと言った。だが教授は、ゲームをさせることで船に対する啓蒙を図りたいと言った。つまり、そもそも研究の目的自体がずれているのだ。先輩はゲームを作りたいと言い、教授はゲームを使って啓蒙を図りたいと言っているのだ。先輩の最終的な目的はプレイヤーを楽しませることであり、教授の最終的な目的はプレイヤーに船の経験を与えることなのだ。完全に逆ではないが、先輩は利用者の視点から見ており、教授は開発者の視点から見ている。なかなかおもしろいことになった。結局のところ、研究室に所属して研究をする以上、教授の意向に従うのは至上命題だ。他の研究室では知らないが、少なくとも僕のところはそうだ。だから先輩の「利用者が楽しめるゲーム」を主題に据える考えかたは通らないだろう。ところが、ミーティングが終わったあとに先輩に聞くと、この点にはどうしてもこだわりたいのだそうだ。それはなぜか?理由はきわめて簡単。作っていて楽しくないからだ。教授の考えは、悪く言えば利用者に知識を押し付けるものだ。そもそも啓蒙というのはそういうニュアンスがある。

啓蒙
〔「蒙」は、知識不足の意〕 情報の寡少な一般人に必要な知識を与え、知的水準を高めること。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

とまあ、ここまで書いたところで放置してしまっていた。このときに何を考えていたのかなんてもう覚えていないからこのまま載せてしまおう。


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