「隙 間」

2010年12月28日(火) 納会、ノーかい!?

納会であった。

会議室に菓子惣菜ビールビールビール日本酒ワイン赤に白、ヨックモックにビールビールまたビール、を持ち込んでまことしめやかに、幕を開けた。

しめやかに、そう、涙を噛み締めて、惜しまねばならない。

村木さんの送別会も兼ねているのである。

しかしすぐにエンジン全開の男が、いや紳士がいる。
社長の助さんである。
ビールをひと舐めしただけで、新橋SL広場で終電を逃し恐妻の元へ帰れぬ、いや帰らぬ冒険に挑む勇気、やる気、覇気、無謀にうち奮える酔っ払いに成り果てる。

まことに日本のサラリーマンのかがみのような方である。

わたしは一滴目から健康に気遣うお茶を紙コップになみなみとたたえさせ、チョビチョビと舌を湿らせる。

ヨックモックおいちい。
えびせんもおいちい。
ヨックモックまたおいちい。
ヨックモックまだまだおいちい。

どれだけヨックモック好きな阿呆なのかと勘違いしないでいただきたい。

なぜにヨックモックをそこまでシャクシャクかじり続けるのか、と訊かれれば、

そこにヨックモックがあるからだ。

と答えるしかなかったのである。

このままでは胃袋がヨックモックでモサモサしてしまう、という事態になりながら、しばし同僚らとの清談雑談にふけり、やがて気のおけない様子に珍談猥談へとどっぷり移行しはじめる。

「竹さんはクリスマス、何してたの?」
「何をしてたかなんて、記憶にありませんね」

あっ。
独りでターキーはおこがましいので、代わりに焼き鳥で串を並べて山を築いてました。

竹林を一陣の清風が吹き抜けるが如く。
まことに清々しい。
本物の竹林の奥深くに、普通のものならば裸足で逃げ込みたい気持ちになるだろう。

しかしわたしは違う。
すでに竹林に身を置いているつもりであるから逃げ込む必要がない。

「お多福さんは、竹さんどうなのかしら」

火田さんが、お多福さんに不意に振る。

「乙女座でB型の時点で、あり得ないです」
「竹さん乙女座なんだ、あたしもよ。でもなんで知ってるの?」
「乙女組ですから」
「何それ」
「火田さんはご存知ないですけど、このひと曰く火田さんが組長ってことになってるみたいですよ」

え、なんで、という顔で火田さんがわたしをみる。
突然、たくさんのことを知らされた本人としては、説明を求めたくなるのは道理である。

お多福さん、ケンくん、円部くんら乙女座の人間が、自然派生的に構成した組合である。

そこに本人の参加不参加の選択肢は、ほぼない。
年長者がどうやら懇親会やらの経済的負担を一身に負わねばならないらしく、このままではわたしの身が危うい。

ということで、火田さんがやはり乙女座らしい、ということをとある筋からの情報を仕入れていたのである。

そのとある筋、というのは、お多福さんであったはずである。

裏切られた、とお多福さんをにらんでみたが、ドコ吹く風である。

何でダメなの、との火田さんの追撃に、

「だって一緒ですもん」

と迎撃一閃。
乙女座のB型、はたしかにたちが悪い。

「じゃあ、馬場さんからみてどうなのよ」

馬場さんはわたしと同い年、既婚者かわいらしい娘さん持ちである。

「愛人としてありかなしか!」

ケンくんが悪のる。

「えー。せめて幼なじみくらいかな」

おっ、と皆が身を乗り出す。
わたしは耳をふさぐ手を、一旦、止めてみる。

「ゼロ歳から一緒の」

おおっ、皆がつばをのみこむ。
わたしは、ふさぐかダンボにするか躊躇する。

「何言っても、とりあえず聞いてくれる感じじゃないですか」

つい先日、社長らからの理不尽な怒りの矛先に選ばれても、とりあえずは受け止めてみせたりしたのである。

後でやんわりお返事させていただいたことを忘れてはならない。

「タッチのかっちゃんの方、てきな?」

わたしはついに肚を決めて訊いたのである。

「いいひとなんだけど、恋なんかにはならない」報われない立場。

というつもりであったのだが、周りの反応がいまいちである。

「タッチの世代って」

半分かろうじて、タッチまではわかるが、かっちゃんが誰だかまでわかるものが、いないようであった。

「つまり、異性とかじゃないってことね」

火田さんがうまくしめる。

「ロマンチストでマイペースで身勝手で、異性じゃない、いいひと」

竹さん、こりゃ女性じゃなく男に走るしかなさそうですよっ。

ケンくんが粗塩をすり付けてくる。

ふん。やかましいわ。
わたしが「いいひと」だけなわけがあるか。
むしろ「ダメなひと」の方がちかいわっ。

「ダメというより、「残念なひと」じゃないですか?」

そっちの方が、なぜか痛みが激しいように聞こえる。

「だけど竹さんと、本の話しするのが楽しみなんですよ」

えっ、なになに、どんな本読んでるの、と火田さんが食い付いてくる。

竹さん、言っちゃってください、と肘をつつく。

「森見登美彦とか」
「またまた真面目ぶっちゃって」

ケンくんが意味不明のダメ出しをする。

「有川浩とか」
「まだ格好つけようとしてる」

わたしはハードルを下げていってるつもりが、ケンくんの意にそぐわないらしい。

「絲山秋子とか」
「あっ、知ってる」

火田さんが、ガッツリ。

私の友達が、元同僚だったんだよ。

絲山秋子は、甘木有名陶器メーカー勤務、わたしたちととても縁が深い業界に勤めていた経歴をもたれている。

東かと思ったら稲だったんですか。
そうなのよ。

ならば、今の会社との関係はさらに強い。
そんな意外な発見で、その前のわたしの胸についた傷の発見をなかったことにしようとする。

そう。
傷付いてなんかないのである。

「好きな芸能人とかは?」
「小西真奈美さんです」

同性から好きと言われにくいタイプだよね。

ボソリと火田さんがつぶやく。

「あ、あと蒼井優さんとか」
「ああ、わかる。私も好きだな」

パッと答える火田さんにホッとしつつ、反面そのわたし自身に、強く傷付いてしまった。

なぜ、イチオシを押し通さなかったのか。

ああ。

最後にまったく納まり切らない気持ちになってしまった納会だったのである。



2010年12月27日(月) 妄想竹

「あれぇ、明日からはまぐりさんとかみんな、休みですよ」

え、またまたぁ。

「ほんとですって」

なぎさくんが、うちらも休んじゃいましょっか、と朗らかに答える。

休んで困るのは、わたしたち自身である。

明日は、世間でいう仕事納めであるが、わたしたちの仕事は、まったく納まってないのだから納めようがない。

しかも、明日は村木さんの送別会を納会も兼ねてやるのである。

村木さんは棟梁のような角刈り頭で、眼鏡にギョロリ目。
しかし、まったく正反対のやさしい笑かしてもくれる方である。

エヴァのカヲルのイラストが書いてある空のティッシュ箱を、知らないうちにわたしのデスクに置いて、

「そっか、そんなオタク趣味だったのかぁ」

ウッヒャヒャヒャ、と指差し笑う。

「歌はいいねぇ、リリンが作りし文化の極みだよ……ですか」
「俺はそこまで知らないから。第九なんて歌いださないでよ」

知ってるやないのん。

そはさておき。

すっかり、目の前にそびえる山々を尻目に、ついついスワンボートで戯れてみたい気持ちになるのは人の性である。

あはは、牛子さぁーん。
うふふ、馬男さぁーん。

ルーミック・ワールドに逃避してしまう。

なにせ、緊急ミーティング、を半ば無理やり開いてもらった直後である。

「ええっ、そんな事態なのっ」

いったい誰が、状況をせき止めていたのだろうか。
いってもせんないことである。

その緊急に、わがせいではござらん然と腰掛けていた方は、明日からしっかりお休みをとられている。

えいくそ、コーラック。
くわえて、ケツメイシ。
のち、ボラギノール。

のほほん、は変わらず。

竹林に逃避したい気持ちをぐっと抑え、せめて机上の竹林で我慢する。

閉店間近の半額値になった焼き鳥の竹串である。
近所でこうもたやすく竹林の山を購入・造成できるとは侮れぬ、根の津の地。

竹林にて清談にふけるのがもっともだが、哀しいかな、談ずる相手がいない。
相手がいなければ、はじめは清談のつもりでも次第に猥談へと猛進してしまう危険がある。

しかし、ひとりきりでする猥談ほどカナチイものはない。
シクラメンもガックシうなだれてしまうほどである。

猥談を早々に切り上げ、雑談に妄想を切り換える。

竹林の向こうにはどうしても、静まり返った社内でカチカチとパソコンに向かっているわたしらの姿がチラつく。

チラつくならばそれはせめて、白いワンピースの裾であって欲しいものである。

ほら、つかまえてごらんなさーい。
ようし、こら待てーぃ……。

虚しくも過ぎゆく時間を、まだまだ追い掛けてゆくのである。



2010年12月24日(金) Dec.24,10PM,Eastern standerd time.

Christmas bells are ringing...
Christmas bells are ringing...

Santa Claus is coming!
No room,at the Holiday-inn,all day!

まさに「RENT」!

わたしはにっちもサッチモ、「素晴らしい世界(What a wonderful world)」とは成り果てぬ仕事に、早々に見切りをつけて帰路についていたのである。

サッチモ(ルイ・アームストロング)のしゃがれ果てた声が、耳の裏を逆撫でるように囁きかけてくる。

柄にも合わず、また丸ノ内のイルミネーションなぞを撮りに寄り道してきたのである。

ああ、なんてやさしい照明を使ってくれているのだろう。

これは砂糖を求めて群がる蟻のようなつがいの男女たちにではない。

蟻を天敵とするアブラムシのごとく、きゃつらの視界に入らぬようコソコソと隙間を縫うわたしに、である。

以前触れたが、わたしは、最近のLED照明なる攻撃的な光の前で、ろくに目を開けていられないという、建築設計をしている者としていかがなものか、という男である。

それをみて、

「キャアーっ、キレー、キレー!」

と黄色の歓声を上げる女人に、

「それほどお望みならば、斬ってしんぜよう」

と反射的に斬鉄剣にて袈裟切りにしてしまう心配がない独り身で、まことによかった。

そうしてひと回りして、ロジャーの待つ、いや誰もいないので、つまりはその引きこもりのロジャーに自らがなるべく、帰宅したのである。

ウォッカやワインで乾杯、とゆくわけにももちろんゆかず。

そっか暴飲で乾杯だ、と健康的に野菜ジュースをコップになみなみと注ぎ、一気にあおり続けたのである。

果たして野菜ジュースで膨れた満腹感でそのまま寝つき、明け方に、おそらくつけっぱなしだった電気やらを消し、ふたたび眠りに就いたわたしは、九時前にパチりと目が覚めたのである。

されど朝市のチラシに目ぼしい野菜はなく、出かける理由はさらに無くなった。
何にせよ仕事納め以後に数日出勤せねばならぬなら、この週末くらいは休むべきである、との暗黙の了解をしたのである。

昨夜、窓に小石をぶっつけ、

「鍵を投げてくれ!」

と下から呼ぶコリンズの声もなく。

「ブランチしましょう!」

と曇った窓にミミのメッセージもなく。

したがって、ますますもって、出かける理由なんて皆無にひとしくなる。

「おおっ」

わたしは旅に出ることにしたのである。

四国一周の、まだ途中半分の愛媛で止まったままであった。

サイコロの目に振り回され、足摺岬でまさに足摺り進めず、悲しみと苦しさと、そして、支え手助けしてくれた地元の人々のやさしさに、アスカ姿の女子が涙で頬を濡らす旅。

「四国一周ブログ旅DVD」

稲垣早希嬢と共に、である。

四国、とくに高知は、広い。
そしてその旅は、ついにゴールへとたどり着く。

わたしは知らずに、涙しそうになっていた。

成し遂げることは、素晴らしい。
成長する過程の、一見愚直にすら映るその姿。

愚を怖れて直なだけでは、乗り越え、突き破り、たどり着くことは適わない。
愚であるからこそ、空をめがけ壁の向こうを目指し、たどり着くことができる。

この年齢になってなお「愚」を目指すのは、まさに愚かなのかもしれない。

思案にくれていると、外の陽もまさにとっぷりと暮れていたのである。

Christmas bells are ringing...
Somewhere else...
Not here!

そう。
ケーキもターキーもないが。
食料なら、ある。

結局、ベツレヘムの聖人の誕生日は、一歩も外へ出ずに過ごしたのである。

「ミキサーの調子が悪いの。みにきてくれないかしら?」

と電話で呼び出すモーリーンも、いない。

「あれほど呼ばないでといったのに、なぜあなたが呼ばれて、あなたものこのこやってきてるの!」

と、怒り心頭でわめくジョアンヌも、いない。

One song glory...

ギターは弾けない。
ビデオカメラも持ってない。
あるのは紙とペンと、妄想と文字だけである。

What you own?

「RENT!」

Forget regret,
or life is yours to miss.

家賃やローンに限ったことではない。

生きること、すなわちそのすべてが、周囲から様々なものをちょっとずつ借りてゆくことなのである。

「What a wonderful world...」

サッチモがニヤリと親指を立てる。
ビル・エヴァンスが鍵盤越しにウインクする。

Easy Living

放っておいても、年は明けゆくのである。



2010年12月22日(水) 大森で「イッツ・オンリー・トーク」

絲山秋子著「イッツ・オンリー・トーク」

書店でハッと思い出し、ふと読みたくなった。
ずっと、いつか読まなければと思いつつも、思ったそばから忘れてしまっていたのである。

本作品は、数年前に映画化されている。
そしてそれを、わたしは観ているのである。

「やわらかい生活」

寺島しのぶが主人公の優子を、豊川悦司が祥一を演じている。

蒲田の街を舞台に、やわらかな日々を送る。

EDの元同級生の議会議員や、気持ちいい痴漢や、うつ病のヤクザや、ダメ男のいとこや。

他人からみれば大したことないようでも本人にとってはそうでないことばかり。

キング・クリムゾンにのせて、そんな日々を「人生は無駄話さ」と歌い飛ばす。

「やわらかい」とは、躁鬱病で入院までした優子が、それを避けるために選んでいた自分にやさしい日々である。

わたしは映画公開当時、ナルコに仕事で参って休職中だった。

「あなたはうつ病には転ばない、ちゃんと逃げ道を持ってるひとだよ」

と太鼓判をイ氏に捺してもらい、それに「逃げ道のない道にはゆきません」とふんぞり返って答えたわたしであった。

ネガティブがゆえに、適当なところでスッパリ楽天に寝返る。
寝返るまでは、最悪な状況を思いつくままに仮定しておく。

だから、考えても仕方がなくなり、自然に楽天に開き直るのである。

転びはしないが、毎日を普通に過ごすにはそれなりに毎日をやわらかく過ごさねばならない身体であることを、今年は痛感、いや再認識させられることばかりであった。

これはつまり、糖尿病のひとが常にインシュリンを必要とするのと同じようであり、また透析に通わねばならないひとと同じようでもある。

わたしのやわらかい生活は、これからも続く。

私事は置いといて。

どうだこれが「新人賞」の作品だ、と最近の甘木作品にいいたくなる。

「どんな作品だったの?」

年末のご挨拶を兼ねて大森である。

二、三十分で立ち読みできて、内容はあまり印象に残りませんでした。
ああそう。でも立ち読みで読めたってことは、読みづらい読む気にもならないものじゃあなかった、てことだね。

イ氏の言葉に、目からウロコである。

たしかに、字が大きかったとはいえ、眉をしかめることなく、嫌気が鼻を突くわけでもなく読むことはできた。

でも、それで受賞に値するなんて印象は、なかったです。

「じゃあ、竹さんの今年一番の作品を、聞いとこっかな」

朝倉かすみ

です。
このひとは、好きです。
今年というわけじゃあありませんが、今年、あらためて確信を得ました。

やんややんや。

閉院時間まぢかでわたしが最後となれば、存分に話に花を咲かす。

「ルポルタージュ、みたいなのを書いて御覧よ」

へ?

抽象画みたいにウソの中に本当を包むんじゃなくて、本当を本当で表してゆく。

「こないだのニコライ堂のくだりの話みたいに、さ」

高校受験のとき。
学校見学を兼ねて母校の文化祭「紫紺祭」を見に行った帰りであった。
父とふたりで行ったので、土産にバザーで売っていたケーキを買ったのである。

「ニコライ堂でも見てから帰るか」

父はふらりとわたしの前を歩いて、入っていったのである。

ニコライ堂はジョサイア・コンドルという有名な外国人建築家による建物である。

すたすたと堂に入って行く父を追いかけてわたしも入ろうとしたら、

「ご遠慮ください」

と、不意に押し止められたのである。

休日の開放日で、わしゃわしゃとたくさんのひとらが出入りしていたなかで、である。

え、なんで、ボクだけ。

中学生のわたしである。
あからさまな異教徒の格好をしていたわけでも、凶器と狂気を振りかざしていたわけでもない。

「食べ物のお持ち込みは、ご遠慮いただいてますので」

ケーキの箱を持っていただけである。

箱から出して、口の周りに生クリームをたっぷりくっつけて、もしゃもしゃとショートケーキをほお張っていたわけではない。

いくらボクなわたしでも、そこまでまだ食いしん坊ではなかったのである。

父は後ろに目があるわけでもなく、わしゃわしゃとたくさんのひとらが出入りしているなかで、わたしによもやそんな事態が起こっているとは気付くはずもなく。

と、父さーんん……。

見知らぬひとらの重なっつゆく背中の向こうに遠ざかり、見えなくなってしまったのである。

入口はここひとつだけ。
すぐ横にボクを止めたひとがじっと立っている。

仕方なく途方に暮れて、ボクなわたしは父がフンフフンと後ろ手に「どうした、なんで入らなかったんだ」と出てきてくれるまで、ケーキの箱を抱っこしたまま立ち尽くしていたのである。

「持っててやるから、行ってこいよ」

との言葉に、じゃあ、と従うようならば、天の邪鬼なわたしなわたしはここにはいない。

ひとりで見たところで、何が凄くて何をどこを見ればよいのかなんてわかるはずもなく。
なんせ、観光地に行っても屋台の焼きトウモロコシやお好み焼きにばかり目を胃袋を奪われているただの中学生である。

奪われているのは今も同じで、代金を自分で払うようになったくらいしか成長は見られないが。

そんな思い出話をしたのである。

見たものをそのまま書き通して作品にして御覧よ。
その感じだと面白いと思うよぅ。

イ氏は期待満面である。

いや、その。

それはつまり、ここでやっていることそのものであり、その延長に、作品があるつもりである。

いや違う。

作品への途中に、後からここを置くことにしたのである。

置いて置いて、だんだん連なって作品に繋がってきたら、それはよいことである。

ところで。

「なんで水曜にきたの?」

木曜が祝日だから次回は水曜に来ます、て前回いったはずですが。

「あ、そうだったねぇ。祝日でも午前中ならやってるのに、何で?」

休みの日に会社の先までやってこなきゃならないのは辛いので。

「そっかぁ……」

残念そうな顔と声を向けられても、仕方ない。

「あらあ、久しぶりじゃないの」

田丸さんの代わりの不死鳥さんが、これまた水曜にきたために久しぶりの再会に目元を緩めている。

待合室の椅子に、いつの間にかイ氏までどっかと腰を掛け、水曜だ木曜だ、の話を再燃させる。

「あ、もうできちゃったの」

受付がどう割り込もうか躊躇していたのをイ氏が気付き、

ちぇっ。

と、舌打つ。

ちぇっ、て。
じゃあ。

「うん、よいお年を」
「今年もお世話になりました」
「よいお年を」
「よいお年を」
「メリー、じゃなくていいのね?」
「はい、メリーな予定なんかありませんから」

不死鳥さんに、笑い返す。

「来年の新作、楽しみにしてるからね」

イ氏に、ええまあ、と曖昧にごまかす。
芝大門の頃からの付き合いであるおふたりである。
ここに今日はいない田丸さんや受付の方らを含めて、まさに

「イッツ・オンリー・トーク」

な日々を支えていただいている。

来年もまた、よろしくお願いします。



2010年12月20日(月) 「季節風・冬」

重松清著「季節風・冬」

久方ぶりの重松さんである。

「普通の人々の小さくて大きな世界を描き出す」十二篇の冬の物語。

ああ。
やはり、重松清は素晴らしい。

「バレンタイン・デビュー」

なんか最高に、くすぐったい。

ずっとモテずに過ごしてきた高校生の我が息子を気遣い、

「いいか。絶対に口に出すなよ。触れるな。何もない普段の一日のふりをするんだぞ」

妻と大学生の長女に、よおく、強く、言い聞かせる。

バレンタインデーである。

義理チョコの一個だって、もらって帰ってきたことがない。
そんなヤツに、母親と姉からだけしかチョコをもらえないなんてことは、傷付く以外のなにものでもないんだ。

だから、何も用意するな。

「じゃあ、晩ご飯くらい好きなものをたくさん作ってあげとこうかしら」

との妻の思い付きに、

「バカ。それも余計なことなんだ」

そうじゃない。
そんなもんじゃないんだよ。

「義理チョコくらい、わたしたちからあげたって同じじゃない」

という妻と娘に、諭す。

「たとえ義理チョコでも、他人からもらうからいいんだ。
そのひとつひとつが、自信に、なってくんだ」

だから家族からじゃ駄目なんだよ。

わかる。
わかるぞ。
だけど、なんかズレてることもわかる。

やたらと「バレンタインのチョコレート」が年頃の男子にとって如何に大切なイベントかを、力説して聞かせる。

生まれて初めてもらったチョコレートが、大学生の頃で、妻からのだった。

そんな経験をしてきた俺だから、わかるんだ。

わかるわかるわかる。
ついついそう力んで、勝手に理解して、力になってやりたくなる。

そこで長女が母親に、呆れた顔で尋ねる。

「なんでこんな人と結婚しようと思ったの?」

さぁ〜……。

妻は首をひねって娘に答えるのである。

これはもう、最強の家族である。

いいか、浮かれた顔、明るい顔をして帰ってきたからって、喜ぶなよ。
そういうときは、決まって駄目だったときなんだ。
わかったか。

はいはい、と付き合う女性陣。
そこに息子が予備校とバイトを終わらせて帰ってくる。

このことに関しても、親バカっぷりは顕著である。

学校だけじゃなく予備校にバイトなんて、貰える機会が多いのはいい。

だけどそれは、逆に貰えない機会が多いのと同じ、諸刃の剣だ。

ぷくくくくっ。

頬を膨らまして笑ってしまう。

息子は、いつもと同じ仏頂面であった。

「よしっ」

これは貰って帰ってきたに違いない。

妻と娘も、小さくガッツポーズである。

ああ。
わたしも一緒になってガッツポーズをしたい。

しかしそれはバイト先のおばちゃんからのものだった。

うん。
それでもいい。
そうやってひとつひとつ、自信を積み重ねてゆくんだ。

うんうん、とわたしも頷く。

そうやって自信をもって、その自信が表れて、次に繋がってゆくんだから。

まさにまさに。
目頭が、じんわり熱くなった。

「それ、みんなで全部食べていいから」

息子はテーブルに、ポイと置いて自分の部屋に戻ろうとする。

父親の俺は、おい、いいわけないだろっ、と。

「自分のは別にあるから」

息子よっ。
そうだったのかっ。

やったじゃん、と妻が目で答える。

ううううう……。
よかった。
そして息子のぶっきらぼうな照れ隠し。
わかるぞっ。

お言葉に甘えて息子の義理チョコを感慨深く摘んだとき。
携帯電話が鳴り、娘がそれまでのとは違うトーンの声で出る。

おい、なんだ、誰だ、誰と話してるんだ。

「いいじゃない。年頃の娘なんだから」

妻がニッコリ応える。

息子ばかり心配してる場合じゃあない。

親になるということは、些細で馬鹿らしい小さな出来事でも大騒ぎな毎日を送ること、なのかもしれない。

重松清は、

そうじゃない。
うまく言えないけれど、そうじゃないことはわかる。
わかっているけど、そうとしか言えずに、そう言わざるを得ない。

そんな影とひなたの境目のところを、巧みにすくいとる。

といっても、ほら、とすくった手のひらをひなたに差し出すようなことはない。

影を踏むときに、ひなたに踏み出すときに、そこをまたいで、一歩。

頬を、指先を、刺すような冷たい冬の空気のなか。
はあっと、かじかむ指先に息を吐きかけるようなあたたかい物語たち。

わかっている。
そんな物語を描きたいことを。
わかっている、の後に「けれど」が付くのか、「のに」が付くのか。

まだまだ、だなあ、とため息をつく。

それもまた「諦め」なのか「やる気」なのか、それともその両方なのか。

出来るかぎり、両方をすくった手のひらを、こぼさずにゆきたい。



2010年12月18日(土) 「KAGEROU」

齋藤智裕著「KAGEROU」

出版界での話題に使い捨てられた元俳優・水嶋ヒロさんのポプラ社小説大賞受賞作品である。

三省堂神保町本店一階入口平台前で、およそ二十分の立読みにて読了。

素直な感想。

大した作品じゃあ、ない。
読んで得することは、何もない。
面白いわけでもない。
感動するわけでもない。

だから、誰にも勧めない。

これの一体どこに、命の大切さや、愛することの大切さが、語られているのだろうか。

ようし。
よしんば、新人作家の新人賞受賞作品、つまり素人が書いた作品だから、というものだとしよう。

わたしも一応、沢山とは言えないが、少しはプロの小説家のデビュー作や新人賞受賞作と言われる作品を読んでいる。

比べものになんかなりはしない。

その程度であるように思えた。
まあ、受賞後も着実に作品を書き続けている方々と比べてしまっては申し訳ないだろう。

おっといけない。

褒めるべき点、目を見張るべき点があったのを、ここで言っておかなければならない。

作中に散りばめられている、彼の駄洒落のセンスは、わたしに肩を並べるほどのものである。

わたしも負けてはいられない。

谷中と根津の境に住むわたしは、嘆息を漏らす。

「やぁ〜なんか、寝ずに考えちゃったよ……」

「台東区から台頭できるかしらん?」

「物書きになろうだなんて、おどライター(Writer)」
「役者の数なんてこの世にちりあくたー(Actor)いるから、生き残りに大変だよね」

さてこのくらいでよいだろう。

発行部数何万部だとか、それに騙されてはいけない。

発行部数は「出版社が発行する」部数であって、「売れた」部数ではないのである。

売れて在庫がなくなり、書店側が発注をかけて、それから出版社が増刷をかけて発行部数が伸びてゆく、のとは今回まったく違うのである。

印税は、発行した部数に応じて何割何分かが著者に入る。

売れようが売れまいが。

売れなかった場合は返品となり、負担が出版社にふりかかる。

出版社の覚悟が、ここに表れるのである。
わたしのときは、たしか千部いかない程度で増刷もなし、さらに按分であるから一度きり、数百円いただいたくらいである。

次に印税をいただける作品を書けるようになるのは、いつのことになるのだろうか。



2010年12月16日(木) 「五重塔」

幸田露伴著「五重塔」

えい、ようやく読みよつたか、とお叱りを受けてしまいそうである。

我が家より歩いて五分と少し、谷中霊園は真ん中にあった、実在の塔。

天王寺・五重塔

をモデルに幸田露伴が描いた物語である。

腕は確かだが、世渡り上手とは無縁の「のっそり十兵衛」が、感応寺の五重塔建立の話を聞き、

是が非でも私にお申し付けください

と、願いでる。

それまでは、小さな作り物、どぶ板や桶やせめて馬小屋などの、さして腕をふるうものではない日々の小稼ぎにかまけ、冬の着物も綿がつぶれ、あて布継ぎばかり、金も名誉も執着なしと周囲から見下されていたのが、一転。

ここで腕ををふるわねば、生きてる甲斐なし、なんの意味があろうか。

じつは既に、十兵衛の師匠たる源太親方に、見積り見当用立てまで、寺は出してあったところであったのである。

果たして十兵衛は、五重塔を無事建てることができるのか。

とかく、「うむむ」と頷かされるところが多々ある。

これまでの人生のなかで、これほどのこだわり、思い込み、そして「誇り」を持ったものを、一度でもひとつでも、残したことがあるだろうか。

我が身がこの世界から消え去ってしまうほどに、すべてを注ぎ込んだものを。

十数年前、わたしはとある人から出された質問を、思い出した。

アーティスト(建築家)と
エンジニア(設計士)と
どちらを目指す?

「どっちがどっちで自分に向いてるか、目指そうと思うか、選択肢なんかないのか」

それは何年後かにはわかるようになってることを祈ってるよ。

今のわたしは、そのどちらを目指し、または歩いているのか。
もはやすでに、どちらでもない、さらに見知らぬ道のその脇道を、並走中なのかもしれない。

もとい。

のっそり十兵衛しかり、源太親方しかり、本作品の人物たちの姿は読んでいてとても気持ちよい。

落語の登場人物のように、義理人情もろく、江戸っ子らしく竹を割ったようにパキッとしている。

彼らにとって名前など記号にしか過ぎない。

熊さんでも八っつあんでも、呼ぶ際に区別がつけばいい。
ただ、そいつがどんなうっかりやスットコドッコイやおっちょこちょいか、その人間性こそが大事なだけ、なのである。

さらに役回りもはっきりしてある。

しかし、ここでは「名を残そう」と、そのことが肝心要のくさびにもなる。

金や名誉ではない。
ひたすら傲慢に、自分自身が満足するために。

この傲慢さは、様々な形であれ誰しもが持ち得ているものであり、また必要なものである。

すべてをかけ、何を残すか。

モデルとなった谷中五重塔は、現在基礎石のみが残っている状態である。

都内随一の高さ立派さを備えていたらしいが、なんと無理心中事件で焼失してしまったのである。

再建話も一時持ち上がっていたが、つい数年前その公的活動がかなうことなく終了を迎えてしまったらしい。

現在駐在所があるその隣の公園内に、跡地が示されている。
近くに寄った際は、足を運んでみるのもよいかもしれない。



2010年12月11日(土) 「北京の自転車」

「北京の自転車」

をギンレイにて。

経済成長著しい中国の、その経済格差の溢れている現実のいち物語である。

村から出稼ぎに出てきた十七歳のグイは、自転車宅配便の仕事につく。
会社から貸与された高級自転車(MERIDAのバイク)は歩合制で稼いだ給料から支払い、やがて自分のものにすることができる。

やっと支払いが終わり自分のものになる、というそのとき、配達中に自転車を盗まれてしまうのである。

一方、クラスメイトの仲間のなかでひとりだけ自転車を持っていなかったジェンは、中古屋で自転車を買う。

その自転車は、盗まれたグイのものだったのである。

貧しい十七歳の少年が、ひとつの自転車をめぐって、出会う。

なぜ、たかが自転車一台に、ここまで執着するのだろうか。

そう思ってしまうほど、わたしたちのそれと中国の現実のそれには、深い溝があるのである。

かつては日本もそんな時期があり、それを先代先々代らが乗り越えてきた。

暮らすための日々のなか、一台の自転車の代金がどれだけかかり、どれだけ大事なのか。

さて。
飽食の時代、完全消費社会の申し子である。

「残酷な天使のテーゼ」が軽快に鳴り響き、エヴァが臨戦態勢の音楽がテレビから流れだす。

宮村優子とアスカが、正確にはアスカの格好をした彼女が、並んだ場面から、始まった。

「四国一周ブログ旅」

のDVDである。

稲垣早希が、現在もロケみつという番組で挑戦させられ、いや、している一昨年の四国版である。

赤札堂の朝市に目ぼしいものがなかったので、わたしはすっかり、午前中は部屋にいながらにして、四国へ旅立つことになったのである。

この作品は、旅を通してたくさんの人々と出会い、助けられ、前に進んだり進めなかったり、わずかずつ成長してゆくドキュメンタリーである。

四国編は四巻構成となる、かなり長期間の旅となっている。

おそらく三巻あたりから、高知県に入るのだろう。
そのあたりからが、わたしの昨夏の旅と合わせて、思いが複雑に交錯するに違いない。

と。

「ピーンポーン」

呼び鈴の音が、したのである。
先ほどまで、

「落ちちゃダメだ、落ちちゃダメだ、落ちちゃダメだ落ちちゃダメだ落ちちゃダメだダメダメダメダメだめだめだめ」

と戦いはじめた矢先だったのである。

「森竹さんですね」

玄関の扉を開けたわたしの、スコーンとがらんどうになっていたその頭に、宅配便の制服のようなものを着た青年三人のうちのひとりが、投げ掛ける。

「はあ、いや、それはお隣さんです」
「あっ、すみません」
「ばか、隣じゃんか」

なんだかわからぬが、じゃあ、と扉を閉めて部屋に戻る。
テレビ画面は、誰にというでもなく、虚しくメニュー画面を点灯させ続けている。

ああ、どうやら。

お隣さんが引っ越すらしいことを、大家さんが話していた。

それが今日だったらしい。

いかん、と急いで陽が傾きはじめる前に出かける。
ギンレイの時間にどうやら間に合わせ、そうしてその足でとんぼ返る。

明日の日曜は、とささやかな願望をこめる。

見上げた隣の部屋は、やはり既にもうがらんどうで、夜に口をぽっかりと開けていた。



2010年12月09日(木) 「ホルモー六景」大森ホルモー

万城目学著「ホルモー六景」

万城目学の名作「鴨川ホルモー」に続く、いわゆるスピンオフ作品である。

あのときこちらではこうだった、とか、そうなったのは実は、とか、その後の誰彼は、といった六つのお話が語られているのである。

いけない。

こんなものを読んでしまったら、「そうだ。京都へ行こう」と腰がムズムズそわそわしてしまう。

痒い、こそばゆい。
もう、堪忍ならん。

というところで、舞台がなんと東京にうつるのである。

なんと、まあ。

ホルモーが関ケ原を越え、江戸へと。
そうして、東西を結ぶ。

そうか、こうして江戸は守られてきたのか。

解説に評されているが、まさしく万城目作品は「ホラ話」である。
ホラはホラで、ホラたる所以が重要である。

嘘をさも本当のように、しかしそれが嘘だと一目でわからなければ、ホラ話としての魅力がでない。

そのホラ話を存分に楽しむには、本編「鴨川ホルモー」を一読して後、ライバルや関係者たちの、ホルモーに関わらされたがための素晴らしき日々を、あらためて堪能していただきたい。

さて。

大森である。

イ氏と「あれれ、もう二週間経ったっけ」「どうやら経ったようです」「そうだっけか」と会話するように、まさに実感湧かぬまま月日ばかりが過ぎ行く。

その前に。

まずわたしを見つけた田丸さんが、

「今日は、忘れずに持ってきましたよ」

と得意満面で話しはじめる。

「木曜だから、そろそろ来るかなぁ、と思って」

なんと嬉しいことを。
わたしがいないところでわたしのことをわずかでも思い浮かべてくれたなんて。

わたしが大森に行くのは決まって木曜の晩、しかも大概が二週間おき、とかれこれ数年間、繰り返し続けてきたのである。

それがようやく実を結んだのが、今夜だったのである。

「長らくお世話になりました」

深々と頭を下げる田丸さんが、両の手を差し出す。

た、た、田丸さん。

わたしはもちろん、両の手を伸ばして応え、はっしと握る。

貸していた「RENT」のDVDを、返してもらったのである。

本当に長々と、すみませんでした。いやいやそんな。

「年越ししないで返せてよかったです」

ホッとした顔で笑う田丸さんは、「それとお礼に」と、リボンのついた袋を、わたしに差し出したのである。

ああっ。女神さまっ。
なんたるサプライズだろうかっ。

「サプリメントですけれど」
「さぷらいめんと?」
「ビタミンCですよ」

そうか風邪の季節だから、と。
なんとやさしい心遣いなのだろう。

消費が激しそうですから、きちんと補給してくださいねと。

口をすっぱくしながら、満腹になるまでバリボリかじってしまいそうである。

そんな高揚気味のわたしをよそに、田丸さんは淡々と先を続ける。

頭痛は。いつも通りです。
口渇は。いつも通りです。

食欲は。
オウセイです。

食欲は、オウセイ、です、と。

言いながら、その通りに書きだしたのである。

なんとお茶目な女子なのだろう、と目尻がでれんと下がりかける。

いや、ホントに書かないでいいですから。
でも、書いちゃいました。

「大盛」

あのぅ。そりゃあ、嬉しいですけど、字ぃが違います。

えっ、じゃあ「大勢」
それもなんか違います。

「どんな字でしたっけぇ?」
ハラリと裏返し、わたしに紙とペンを差し出してくる。

応、とここで物書きの恰好をつけてやろうと、勢いつけてペンを走らす。

「応」

違う。
それは今のわたしのなかでつぶやいた言葉だ。
つい勢いにつられてしまった。

「旺盛」

が正解である。
欄の中を二重線とバツテンが占拠したのを、

やっぱり消しときます。

と修正ペンで真っ白に消す田丸さんの姿は、いたずらを見つかったクーピッドさながらである。

なあにを、ヤイヤイやっているの。

イ氏も負けじと饒舌であった。

どうやらわたしが本日の最後で、時間ものんびり話をする余裕があるらしい。

泉鏡花と湯島天神と、幸田露伴と谷中輪王寺と、日本語の描写と、読むだけの文字と声に出して音になる言葉と。

そう。
わたしが望むものは、

「音を持っている言葉」

なのである。
音は響き、伝わり、残るのである。

余韻。

面白い作品なら、ちり紙のようにあまたある。
しかし、響き、残るような作品はなかなか、いや滅多にない。

力ずくで「震わせ」ようと直接手を伸ばしてくるようなものは、その手が離れればそれでもうおしまいである。

しかも土足であがりこんでくるようなものは嫌悪感すら感じる。

例えば時代劇の殺陣で斬られ役が、

「ピュウゥ」

と血を噴き出している様を直接見せているシーンである。

直接見せるそれは、わたしには単なる安っぽさ、陳腐なものにしか見えない。

「ズビュッ」
「ぐわっ」

顔をしかめ、ううう、と画面からはけてゆく。

その方が、好きです。

あはは、そうかいそうかい、とイ氏が笑う。

じゃあ。

「今年は、もう、来ないのかな」
「あと一回、来ます」

そっかそっか。
そうです。来るな、とおっしゃるなら考えますが。
まさかそんなことは言わないよ。

来なければ困るのはわたしのほうである。
しかし早いもので、気付けば師走も最後の全速力のところに差し掛かっている。

つまずかずに、走りきれるか。



2010年12月06日(月) 「スコーレNo.4」

宮下奈都著「スコーレNo.4」

インターネットでつぶやく「ツイッター」とやらで、書店員らがゲリラ的に販売拡大活動を仕掛けたことで話題になった作品である。

わたしは「ツイッター」なるものをやったことがない。

自慢ではないがわたしの場合、とてもではないが「つぶやく」程度で納まる自信がない。

であるから、いったいどのようにして「つぶやかれ」て本作品が広まっていったのか、を表した図解表が隣に添えられていたので、それを合わせて持ち帰ったのである。

なかなか面白い販拡である。

さて物語だが。

「スコーレ」とは「スクール」つまり学校の語源と関わる言葉で、四つの、学校や会社などの経験を経て主人公の少女が成長してゆく物語である。

読みやすい。

それに尽きる。

つぶやかれたほどの感動は、本作品の中にはないのかもしれない。

いや。

そんな時期を気付けばとうに通り過ぎてきてしまったわたしだから、そう感じてしまったのかもしれない。

物語は、そう山や波がある訳ではなく、それは人生のそれと同じかもしれない。

それでも。

物語には直接関係ない一文で、目から鱗の人生の感動に、気付かされてしまったのである。

「わたしのおっぱいだけで、この子の身体じゅうの細胞が倍になったってことよ?」

五ヶ月で倍近く成長した我が子を眺めて、言う。

こんなことは、ひとの親であれば当然のことで、さして驚きもしないことである。

が。

これは、じつはとてつもなく、物凄いことなのではないか、と思わず友人に事実確認をしてしまったほどである。

粉ミルクだなんだと現代の育児事情はわからない。
が、母乳はこの世でたったひとつきりの、最も最初に身体を構成、成長させるためのものなのである。

だからといって、ここでフロイトの云々などとのたまうつもりはない。

そして。

「もっと自分を信じなさい。あなたは、だいじょうぶだから」

何一つひとより優れたものを持っている自覚などなく、いや劣っているのではないかと思っていた主人公に、職場の先輩や上司が、言う。

どれが正しくて、どれが間違いなのかもまだはっきりわからない時分、そう言ってくれるひとと、出会えただろうか。

「出来ねえと思ってたら、お前にやらせなんかしねぇよ」
「出来るのに、俺とか誰さんとかにやってもらおうとか、甘えようとしてるお前が、ムカつく」

言い方は厳しく様々だが、そう言ってくれていたひとが、いる。

「うん。だけど結局、お前は俺が期待してた合格ラインの手前までしか、やろうとしてくれなかったよな」

チクリと、ニコニコ笑いながらうなずいていることだろう。

そんなこんなな、自分が歩いてきた道の途中で出会ってきたひとやものやことを、思い出すのによいかもしれない。

また、まだこれから、というかたや、まっただ中、というかたには、そんなこんなな、自分だけにしか得難いものやことやひととの出会いがあることを、信じてもらいたい。



2010年12月04日(土) 「瞳の奥の秘密」

「瞳の奥の秘密」

をギンレイにて。
アルゼンチンが舞台の物語である。

二十五年前の未解決だった事件を、定年を迎えた元検事が小説にしようと再び追い掛ける。

元上司の現判事である、かつて想いを密かに抱き合った女性と。

そして自分は二十五年前のまま、囚われていたその過去から、事件の真実と自身の本心と、向き合ってゆくことになる。

妻を暴行殺人で亡くしたモレイラ氏。
エリートの美人検事イレーネの下で担当することになったエスポシトは、アル中の同僚パブロと、独断で調査を進めてゆく。

やがて犯人を捕えるも、ライバルの政治的圧力ですぐに釈放されてしまう。

そして、パブロはエスポシトの自宅で、彼本人と間違えられて殺されてしまう。

おそらくライバルの検事に雇われたゴロツキらの手によるものだと察知し、身の危険を感じたエスポシトは地方の安全なところへと逃れ、そうして今を迎える。

パブロが、いい。

アル中でどうしようもないが、殺される直前。

「お前がエスポシトか」

とゴロツキらに確認されたとき、エスポシトの写っている写真立てを伏せ、そうしてから、

「ああ、そうだが」

と答える。

迷惑ばかりかけ、妻にもとっくに愛想を尽かされ、それでもどうしようもない自分がせめて友のためになるならば、と。

このパブロ。
容姿が巨匠ウディ・アレンにどことなく似ていて、だから抜群に役にはまっているのである。

しかし作中、サッカーの試合中のスタジアムの場面がちあるのだが。

実況放送のアナウンサーが「ディアスがシュート!」と叫ぶ。

年代が違うのはわかっているが、かつて横浜マリノスに在籍していたディアスを思い出してしまった。

余談である。



2010年12月01日(水) 「百歳の少年と12通の手紙」

「百歳の少年と12通の手紙」

をシャンテシネにて。

今日は一日、サービスデーである。
どんなに忙しくても、残業するその余力をまわして映画へゆこう。

白血病で余命わずかな少年のオスカーは、周囲の大人たちが腫れ物を触るように彼を扱うことに嫌気がさしていた。

ある日、ピザを配達に来たローズと廊下でぶつかり、そのちょっと乱暴で気っ風の好い喋りをするローズをすっかり気に入ってしまう。

ローズは離婚した後、女ひとりでピザ屋を開き、懸命に稼ぐことだけで手一杯の日々だった。

ローズじゃないと口をきかない。

両親とも医師とも看護師とも一切を話さなくなったオスカーの話し相手に、医師はローズに来てもらうことにする。

しかしローズは、大の病院嫌い。
さらに、ボランティアなんてする気が知れない、ひとのことより自分が生きるためだけで手一杯、と。

そんなローズだが、ピザをかわりに注文することを条件に、渋々引き受けることにする。

あと十二日で新年を迎えようとする、クリスマス前であった。

「古い言い伝えで、新年迄の十二日は来年の十二ヶ月の天気を占うというのがあるのよ」

さらに、

「一日を十年と数えて、手紙を書くのよ」

宛先は神様で、と、誰にも自分が感じたこと、思っていることを言わずにいたオスカーの気持ちを書くようにさせる。

オスカーと出会った当初、ローズは自分を「元プロレスラー」だといい、試合の話を面白可笑しくオスカーに聞かせていた。

サンタクロースの正体で騙されたオスカーは、神様も信じない、という。

「チャンピオンだったローズでも神様を信じるの?」
「サンタクロースは信じない、だって彼は人間だもの。
だけど、神様は信じている」

さあ。
一日目のあなたは生まれたばかり。
なんでも、願いでも書いて御覧なさい。

そうしてオスカーは手紙を書き、それをローズが風船にくくり空へ、神様へ届ける日がはじまった。

風船の手紙は偽物で、本物はオスカーの担当医師や両親に読ませることに。

実際は十代にも届かないオスカーは、二十代、三十代、と世代ごとの感想をつけてゆく。

二十代は幸せな時代。
三十代は不安の時代。
四十代は困難の時代。

オスカーを飾らずに叱咤し勇気づけ共にいるうちに、ローズも次第にこれまでのガチガチだった考え方から変わりはじめる。

そうしてオスカーは十二通の手紙を書き残す。



ローズの試合の場面や回想場面の描写などがちと古臭い子ども番組のようだが、物語はなかなか面白い。

自分が死ぬとわかっていて、周りがそれを教えてくれない状況というのには、チクリと胸に刺さる思いがある。

いったいどちらがよいのだろうか。

もし自分ならば、教えてもらわねば困る。
しかし教える側だとしたら、かなり困る。

自棄になるならない、だとか。
やっておきたいことやもの、だとか。

本人にしかわからない。

さきの「田村はまだか」に、次のような一節がある。

どうせいつかは死ぬんだから、て。
じゃあ、腹が減っても、どうせうんこになるんだからって、飯を食わないのか?
今、生きているんだから、生きればいい。

死ぬとわかって今生きているのだから、生きている間にやっておきたいことくらいは、ある、だろう。

そしてついでだが、今際のきわに手を握るならば、それは、親子兄弟よりもまず、

妻や夫

であることが互いにとって望ましいように、最近わたしは思うようになっている。

もちろん、一概には言えないが。

夫や妻は、親子兄弟を押し退けても手を取るような、そんな在り方が、いい。


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