「隙 間」

2010年05月30日(日) 「恋するベーカリー」

「恋するベーカリー」

をギンレイにて。

メリル・ストリープ、ラブ。

である。
これほど魅力的な女優が、日本にいるだろうか。

シリアスもコメディも、寒気がするほどに、見事に演じわける。

離婚した夫と、十数年振りに息子の卒業式で再会し、なんと関係をもってしまう。

夫は仕事もやり手の美人な若妻と再婚をしていたのだから、つまりは、元夫と不倫関係、ということである。

娘息子を女手ひとつで育ててきた母が、まさか、再婚しているはずの父と。

気付かれぬようしていたはずが、偶然、娘の婚約者であるハーレイがふたりの現場を見かけてしまう。

それを隠したりヤキモキしたり、取り繕ったりする姿に、クスクスと笑わされてしまう。

それもやがて隠しきれず。

またべつの新しく恋の相手が現れたり。

いったい、最後まで、クスクスドキドキ、させられてしまう。

元夫役のアレック・ボールドウィンが、また、素晴らしい。

単純で勝手で。
滑稽で真剣で。

そんな好感を抱かせる見事な存在感。

これは、なかなか気持ちよい作品である。



2010年05月27日(木) 「家日和」

奥田英朗著「家日和」

奥田英朗節全快、である。
クスクスと口元を隠しながら、いやほくそ笑みながら快調に読み進める作品である。

思いつきのまま会社を辞めては事業をはじめ、妻の不安をよそにあくまでも楽天的で、なぜかうまくいってはまた辞めての繰り返しの夫と、それを支えんと気を回し、振り回されるイラストレーターの妻。

別居を機に、「男の一人暮らし」な部屋づくりをはじめ、家庭を持つ同僚たちの「安らぐたまり場」と化してゆき、別居中の妻のことをすっかりほったらかしにしてしまっていた夫と、インテリア・デザイナーで、壁一面にCD・レコード・雑誌が並んだ部屋に変えられてしまった部屋に、こっそり訪れて見てしまった妻。

リストラの翌日から専業主婦だった妻が再就職し、自分は違和感なくすっかり専業主夫にはまり、料理屋や家事を覚え、上達してゆくことに充実感を覚えて味をシメてゆく夫と、周囲の慰めや同情をよそに、あくまでも自然に、そんな夫と自分を受け入れている妻。

中年になって小説家としてやっと有名になり、近所の夫婦の影響でロハスにすっかり洗脳された妻とそのロハス夫婦らのことを小説にしてしまいたくてたまらない夫と、育ち盛りの子どもたちの不満も、もちろん夫の不満げな、だけど口には出さずにいるのをよそに、玄米御飯に完全無農薬有機野菜やら、肉は鳥のささみ、ファスト・フードなんかもってのほか、ヨガでリフレッシュを常としはじめる妻。

そんな軽快で愉快で爽快で痛快な物語たちが、収められているのである。

さすが、押しも押されぬ直木賞作家、である。

ユーモアが、ある。

つまり、ただ面白いのではないのである。
軽妙さと、ちょっぴりの毒味加減が、絶妙なのである。

奥田英朗作品に、おそらくはずれなどないだろう。



2010年05月25日(火) 「街の灯」

青山七恵著「街の灯」

文藝賞を受賞したデビュー作である。
こののち、「ひとり日和」にて著者は芥川賞を受賞することになる。

さて本作である。

表題作と書き下ろした一編が収められているが、なるほど、新人賞の類いである文藝賞作なだけあって、未熟さの味がある。

ここから、やがて熟してゆくのである。
熟してゆくということは、熟すための実があるということである。

大学を辞めて行く先も金もなくなりかけたまりもは、ミカド姉さんの喫茶店で住み込みで働き始める。
ミカド姉さんは、まりもの恩人であり、店長であり、憧れであり、嫉妬の対象でもある。

姉さんはきっと、美人で、寛容で、大人で、セックスがちょっぴり上手くて。

常連客やそうでない男たちと、店の上のまりもの隣の部屋に、連れ込んで、だけど姉さんは誰のものでもなくて。

そんな姉さんが、「先生」にだけは、違った。

夜中に、街に灯るあちこちの窓の灯をじっと観察しに、散歩をはじめる。

ヨガのポーズに集中している主婦、窓辺でひとり煙草をふかし電話にふける若い女。

しかし。

灯りのついていない窓のむこうにも、目を凝らせばまりものように灯りのついた窓を見つめている人間は、いる。

つまり、そういうこと、なのである。

だから、そこから、なのである。

そこから、を。

読み手にどうぞご自由に、というのは、じつは嘘である。

ご自由に、とは、作者が道筋をつけた広い道路を、歩行者天国を、ゆるりとどうぞ、という意味なのである。

そこは、スケートボード厳禁なのか、たけのこ可なのか、コンサート可なのか、出店はお好み焼きと焼きそばとあんず飴は可だが他は不可なのかを、作者は暗に提示しているのである。

ツイストではなくいきなりパラパラを踊りだされては、直角に持ち上げた膝の下ろしどころに困ってしまう。

あるていどの約束事は、あらかじめ蒔いておくべきなのである。

きっとこうなるだろう、といった振り幅があり、それを敢えて超えて想像してもらうのは別であり、道しるべはあるべきなのである。

これはわたしも、自戒しなければならない。



2010年05月24日(月) 「私の男」

桜庭一樹著「私の男」

直木賞作品である。
この作品を読んでいると、猫や犬にペロペロと舐められているような感じになる。

熱く、冷たく、ザラリとしていて、そのくせ。

愛情を伝えんと健気なまでに。

無邪気で、真摯で。

井上荒野のような、ゆるやかな「秘密」が横たわる世界よりも静かで、激しい「秘密」の世界であり、金原ひとみのような、究極に振り切れた非道徳的な「本能」の世界よりも穏やかで、揺るぎない「本能」の世界。

小川洋子のような鋭く「閉ざされた」世界よりも濃く、緊密に「閉ざされた」世界であり、「余白」に満たされた世界。

かもしれない。

物語を簡単に説明すると。

十六歳しか違わない養父と養女の、しかし実は実の父と実の娘の、互いの孤独と存在を繋ぎとめてある「愛」のかたちの物語である。

「余白」こそが曲者で、たちが悪い。

「余白」に引き込まれ、囚われ、終わりまで「余白」に包み込まれたままにされてしまうのである。

それが、現在から過去へと物語が語られてゆくなかで、である。

放置されるのではない。
むしろ、主人公たちのように、ピタリと肌を寄せ合うように、している。

余白を余白で埋め合うのが夫婦であるかのように。
余白なのだから、そこに、何か分かり易いものがあるわけではない。

余白できちんと埋められているのに、それでも気付かず、何かで埋めようとする。

埋まらないものを埋めようとする妄執のような熱い感情。

しかしそれは、決して表面に表れず、熱は内にこもり、うねる。

あくまでも、表面は冷ややかに。

直木賞受賞作として、なかなか、納得させられる作品である。



2010年05月20日(木) 大森でタンゴ踊る

今宵、大森である。

田丸さんが、すっかり健康的な色の笑顔で、迎えてくれた。

旅行にでも、行ってきましたか。
いえ、なんかよく言われるんですけど、そんなことないんですよ。

そんな風に、見えますか?

とてもいい、気持ちがよくなる顔をしてますよ、と。

だけど私、ダンスやってるんですよ、と打ち明け話をはじめる。

可憐な人差し指に、白い淡雪のようなガーゼが巻いてあった。

突き指か捻挫ですか。
突き指、です。

パートナーの手に、思いきり突いちゃって。

わたしなら、そのまま包んであげよう。
などとは勿論、いうわけがない。

タンゴとかも、踊ったりしますか。

聞いてみたそばから、わたしの頭の中では歌が流れはじめている。

ザ、タンゴ
モーリーン

やっぱり、バックのステップは難しいですか。

アルゼンチンとかもありますけど、どっちでしょう。

プーキー。
スプーキー。

ああ、「RENT」てミュージカルのワンシーンなので、アルゼンチンじゃあ、ないです。たぶん。
「RENT」っていうんですか。
そう。もう、パブロフの犬で、曲が流れ出しただけで、ぶわぁっと感動の涙が、溢れ出そうになります。

「RENT」ですね? 今度できたら観てみます!

サンクス。
ジョナサン・ラーソン。

いっそ次回、わたしがDVDを持ってきて、田丸さんに預けて帰ろうか。

さて。
本命である。

「やあやあ、今晩は」

イ氏が、二の句をつぐ。

書いたかい?
はい。書いてみました。
神保町のヤツ? あれかい?
いえ。直前にちゃぶ台を返されました。
へええ。
それで、持ってきてみたりしてまして。
ほう。みせてよ。

これにて御座います。

どれどれ、のひと言を発してから、イ氏は以後、無言で真剣な眼差しで読み続ける。

わたしは膝に両手を握り締めて、息を詰めてじっと待つ。

五分だろうか。
いや十分くらいかもしれない。
いや、もっと。

「ちゃんと、きれいな日本語になってるじゃない」

ウッホ。わたしは類人猿だったでしょうか?
いやいや、ずいぶん、綺麗に書くようになってるよ。

嬉しいお言葉である。

「はじめの書き出しが、なかなかいいよ」

書き出しの三行で、読んでもらえるか否かが決まるのである。

初っ端から悲劇にら引っ張り込むか、迷ったところである。
あくまでも、勘違いではじまり、夢と現実と願望と記憶が織り混ざったかたちにしようとしたのであった。

イ氏は概ね「良」の判を出してくれたようである。

でも、ひとつだけいうならば。

その「ひとつ」をいただきたいのである。
ひとつにくっついて、ほかにもポロポロとこぼしてくれることが、ある。

ここが病室なのか自宅なのかとか、麻痺の段階はどうなのかとか、僕の立場的に、気になっちゃうね。

ごもっとも。

しかし、そのあたりの具体的な事項は割愛した結果、なのである。

「あ」

誰か来ちゃってる、と待合室の様子をモニターで見咎める。

じゃあ、とようやく切り上げると、時計はかなり進んでしまっていた。

「次も、書いたら持ってきなさいな」

できれば夏のあたりで、とペコリと下げ、室を辞退する。

イ氏は職業柄、誉め上手、なところなのだろうが、わたしも一旦は、素直によい気持ちにならせていただいてもよいだろう。

またすぐ、次の別物に取りかかるのであるから。

ホクホクと、ヒンヤリと、電車の揺れが混ぜ合わせてゆく。

さあ、次作へ。



2010年05月18日(火) 「夫婦一年生」

朝倉かすみ著「夫婦一年生」

わたしが文庫の次作を待っていた著者である。
小説現代新人賞を「肝、焼ける」で獲得し、同作の読み心地のよさ、快活さ、潔さが、すっかりわたしを虜にしようとしていたのである。

まだ、虜にはならずに、いたつもりだった。
しかし、気になっていた時点で、既に囚われていたも同然なのである。

本作は、青葉と朔郎というふたりの男女の、いや、夫婦の、新婚の一年の物語である。

いや。

思い出である。

新婚のときは、ひと月、いや一週間前の出来事すら、

「記憶」ではなく、
「思い出」となってしまうもの

なのである。

恋人のときと新婚のときと、同じ「前に一緒に観た映画」の話をするのにも、恋人のときは「記憶」に近いものであり、新婚のときは「あのとき」とつけるのがぴったりな「思い出」へと居住まいが正されている。

それだけ、新しい出来事が次々とふたりの年輪となって薄く厚く折り重なってゆくのである。

そんな新婚のふたりだが、とても素晴らしい。

ふたりの会話の掛け合いが、まるで演じているような言葉とリズムで、愉快に、心地良く、交わされてゆく。

朔郎が北海道への転勤を機に、青葉に結婚を申し込む。
仕事を辞めて、見知らぬ土地でひとりきり、専業主婦となった青葉。

「試される地、北海道」で手腕を試されることになった朔郎。

甘えてばっかりで、ごめん。
俺も、ごめん。

青葉は何も甘えたことをしていたわけではない。

ひとりきりの昼間を話し相手もなく過ごし、やっと仕事から帰ってきた朔郎にも、一日をどう過ごしたか、何があったか、と待ってましたと話したがるのは、疲れている夫によろしくないと控え。

朔郎は、そんなひとりきりを過ごさせてしまっている間、青葉がどうやって、何を感じているか心配をして、「今日は何があった」と呼び水を差したり。

なかなかよくできたものだったりするのである。

しかし。

家計を預かるということは、いわば、家族という会社の「共同経営者」を指名されたようなものだ。
業績売上向上はなくとも、破綻させてはならない。

と意気込む青葉。

ぜんたい料理なんかやったことがない私は、まずはきっちり、手本通り「ゆるがせなく」やらなくてはならない。

と計量カップにスプーンに、少々とはいかほどか、と真面目な青葉。

朔郎の好物の「きんぴらごぼう」に、「美味しいが、パンチがない」となかなか及第点をもらえず、しかし何度もリベンジに挑む青葉。

朔郎の両親が初めて泊まりにくる、と、「じぶんち」なのに「ひとんち」みたいに考えてしまったり、「嫁として夫の両親に、いっちょうかましてやろう」と、だけど不発に終わってしまったり。

そんな青葉のことを、朔郎は風邪で会社を休み、熱に寝込んだときに、初めて読み手に語る。

俺はこの家に、線で繋げるくらいにしか足跡をつけていない。
だけど青葉は、隅々まで、線でなど繋げないくらい、この家に足跡をつけつづけている。

夕方に目が覚めると、隣に青葉がマスクをして布団に潜っている。
風邪をうつしたかと心配し、「看病なら俺にも任せろ」と声をかける。

「見守る」意味の看病だけじゃなく、「生活する」意味の看病を、

「協力を、求む」

さらに青葉は、

「少々、緊急事態が起こって」

深く息を吐いて続ける。

小さくて、とても重大な緊急事態。

新婚を経てきた夫婦の方々は、読んでみて必ず、必ずや共感共鳴して、また新しい「思い出」を織ってゆく仕合わせを感じられること間違い無し、な作品である。



2010年05月17日(月) 「授乳」

村田沙耶香著「授乳」

群像新人文学賞を受賞した表題作他、二編。

なるほど。
なかなか濃ゆい、とろりとした世界を描いている。

三作品の三人の主人公である少女(女性)たちは、危うさと揺るぎなさとのはざまを、我がものとしている。

自分が信じた自分の世界こそが、安住の世界であり、はかない世界でもある。

しかしその世界を、その手でしかとつかみ、全身で抱きしめている。

女であることを厭い、忌避し、しかし女であることで、その己の世界を築き、保ち、壊してゆく。

おとなしく無口な家庭教師の秘密を握った少女は、彼を彼女に隷属させてゆく。

ポケットに収まってしまう小さなぬいぐるみだけが本当だと、日々をそつなく明るく振る舞って見せかけている少女は、やがて自分と同じようにぬいぐるみを連れている幼い女の子と出会い、本当と嘘と、嘘の本当と本当の嘘に生きてきた現実の姿を目の当たりにする。

自分のことを絶対的に許してくれる男と出会い、求めるのは、男からの無言で無造作な、受容という許しだけ。
許されるために、許すために、昼ドラよりもくさいお芝居をふたりだけで繰り返し続け、ふたりだけでない世界にいることを認められず、許し難く思う少女。

巻末の解説で、

「丸裸・丸腰、むき出しのままでこっちに向かってくる作品(作家)」

と評されているが、まさにその通りの印象である。

作品中には、過激な性描写など一切出てこない。

しかし。

しっとりと汗ばんだ肌をピタリと押しつけ、決してほぐれることない腕を絡みつけられ、その肢体に鼻と口を塞がれてしまうかのような、冷たさと熱さと、甘酸っぱい息苦しさと甘美さが、詰まっているようなのである。

その包みをつま弾いて破裂させ味わうか、想像のみで楽しむか、微妙なところで、個々でわかれるのかもしれない。

受賞作品とは、かくのごとき力を内包せしもの、なのかもしれない。



2010年05月16日(日) 一、二、三、じゃー!

今週末は、

江戸三大祭り
「三社祭り」

である。

先週同様、貴重な土曜は気づけば夜、という体たらくであった。

その空白の時を埋めるべく、浅草へと足を向けたのである。

東上野のバイク街を抜けると、通りの正面に、

「スカイ・ツリー」

が突っ立っているのが、見えたのである。

万万が一ではあるが、わたしはここの現場で図面ひきをやっていたかも、しれなかったのである。

とはいえそれは、ドラフトマンとして機械のように、示された通りに図面化してゆく、というものである。

わたしは既に、別に出向していたので、笑いながら丁重にお断りしたのである。

断らなければ、かの人はわたしをあすこにねじ込んでみせていたであろう。
そして、今のわたしはおそらく、なかったに違いない。

よかったよかった。

感慨深く、やさしい気持ちで、眺めたのである。

さて、あっという間に、国際通りである。

ROXの脇道に、人だかりができていた。

神輿の声は、聞こえない。
代わりに、

「お願いっ。もういいからっ」

女性が板前姿の男性にしがみつく声が。

酔っ払いが女性にちょっかいをだし、男性がそれを救った。
が、酔っ払いもしつこく食い下がる。
人だかりができてゆく。
警察官が来てしまうかもしれない。

というところだったらしい。

流血沙汰にはなっていなかったようだが、祭りの酔っ払いである。
どうなるかわからない。

「おい。ケンカか?」

野次馬の誰かが大声でいうと、ようやく離れ、男性は女性に引っ張られながら、去ってゆく。

「祭りで、昼からみんなお酒飲んでるからねぇ」

隣の品の良さそうなお爺さんが、驚いていたお婆さんに、そう説明していたのである。

うむ。
残念だが、ちょっと違う。

お祭り騒ぎで気が立ってはいるのは、担ぎ手たちである。
そして、酔っ払いは祭りに限らず、この辺りでは昼から、いや朝からいるものなのである。

さて騒ぎもおさまり、いきなりの歓迎であった。
人垣が波に変わり、ロック座の角を曲がる。

すると。

そこは幸運にも、二ノ宮の神輿の引き渡しの場所だったのである。

向こうから、神輿が、やってくる。

「下がってっ。挟まれて怪我するよっ」
「ほらっ、そこの人たちも。あぶねえからっ」

先導役が大声で、見物客たちに注意する。

虎ロープが、ひかれてゆく。

神輿が、来た。

担ぎ手が、ここで入れ替わるのだが、何やらすんなりとは、ゆかないようである。

「わあっ」
「キャアッ」

置かれた神輿の向こう側で、声が上がり、人波が、ザワリと揺れたったのである。

ピー、ピピーッ!

警笛と共に、警察官がかき分け、割り込んでこようとくる。

喧嘩。

が起こったのである。
担ぎ手同士のようであった。

警察官が割り込める隙間などない。
仲間たちが、取り囲み、しがみつき、ひっぱり、取り押さえようと必死である。

台の上に長がよじ登り、拡声器をくれ、と手真似をしていた。

「三社の祭りを、楽しい、祭りにしなくちゃいけないんだ」
「そうだ、そうだっ」

見物客から合いの手が、あがる。

もうひとつの町会の長らしき男性が、拡声器を渡してもらい、壇上から、同じように、話す。

喧嘩騒ぎは、おさまったようである。

まずは、三本締め。
そして、一本締め。

神輿が持ち上がり、ふたたび街を練り進んでゆく。

三社祭りのために、一年を過ごす。

これが過言ではないひとたちが暮らす街、である。

祭りのあり方、参加者のあり方。

街ぐるみで、やってきている祭りである。

ひとの熱い息吹きが、渦巻いている。

熱気を冷ましながら雷門で、ふと思いついたのである。

あすこへ、いってみよう。

浅草松屋、老舗デパートである。

決して順調ではない経営状態であるが、東武鉄道が建物内に乗り込んできている、北への玄関でもある。

日光へゆくには、まずここから、であったりもするのである。

わたしは、勝手ながらもの寂しい風景を覚悟していたのである。

違った。

屋上は思いのほか、親子連れや若い恋人たちの姿で賑わっていたのである。

フェンス越しに隅田川、そして、スカイツリー。

実は行きがけの道の途中で、孫の自転車につき合っていた老婦人に教えてもらっていたのである。

バッチリ、見えるから。

バッチリ、見えた。
下町のおせっかいな親切心に、感謝、である。

この街のひとたちは、しっかりと、活きているのである。

さあ、わたしも活きよう。

一、二、三……。
じゃぁーっ!



2010年05月10日(月) 神田祭り

先の週末は、

江戸三大祭り
「神田祭」

であった。

これはゆかねばならない、と勢い勇んでいたのである。

が。

片方に、締切への諦めの悪さと開き直りが、こびりついているのである。

貴重な一日である土曜が、丸々寝て落ちて日が沈んで過ぎてしまったので、日曜の一日しか残されてない。

不便な体である。
嘆いても仕方がないので、できる限りで、やるべき事と、できる事と、やらねばならない事を選別し、やらねばならない。

日曜も、結局は昼を過ぎねば動き回れず、取り急ぎ、神田神社へと向かう。

法被半纏姿は、やはり「粋」である。

将門御輿の宮入は拝めなかったが、それでも、祭りは、いい。

宮入もすっかり終えた夜の境内に、帰りの道すがら舞い戻ると、露店も境内も綺麗に片付けられていた。

静まり返った境内で手を合わせ、明神男坂を一段一段、下りてゆく。

来週からは、湯島天神やら三社祭やら、祭りのオンパレードである。

どこのどれをどうのぞくことができるか保証はできないが、美空ひばりが耳元ではやし立てている。

ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ、ワッショイ。
そうれ、ソレソレ、お祭りだぁぃ。

Mimiが、頭の奥でシャウトしてくる。

O---U---T,tonight!!
tonight!!
tonight!!
tonight!!



2010年05月09日(日) 「世紀末の隣人」

重松清著「世紀末の隣人」

十年前。二〇〇〇年に重松清が連載した十二のルポルタージュである。
池袋無差別殺人、酒鬼薔薇未成年殺人、新潟少女監禁、カレー毒物混入殺人などから、またはニュータウンの夢と現実、日産の再建、AIBOなど、まさに「世紀末」の物事を追いかけ、またなぞり、「読み物作家・重松清」が、語る。

「わからない」ことを「わかる」ように、ではなく。
「わからない」ことを「わかる」ための手掛かりを。

重松清は、常にこの距離感を心掛けている。

明確な答えや主張を、おいそれと押し付けない。

どう思うか。
どう感じるか。

導いてきた答えの手前で、スッと手をひいてしまう。

その答えは誰かに与えてもらうのではない。
最後に自分で手にするのが、答えだ。

手を出さず、それを手にしないという答えも、あり。

右手はそれを、左手は別のを、という答えも、あり。

別の誰かがそれを与えてくれるまでそこでジッと待つのも、あり。

重松清は、ゴーストライターとして数々の本を書き、そしてやがて、自らの作品をもって数々の賞をもらい、重松清という己自身の作家として、不動の位置を築いてきた。

つまり。

誰かになりきる、誰からしく、という立場から物を書く、下積みといえば聞こえはいいが、物書きとしては辛い時代を経てきている。

他の作家でも同じような経歴の持ち主がいるかもしれないが、ゴーストのまま消えていってしまう者がいるなか、ルポライターとして、小説家として、いや、「読み物作家」として、それらを糧としてきている。

「寄り道」「蛇足」を楽しめる。
それこそ大事なものなのかもしれない。

との言葉に、「寄り道」「蛇足」ばかりの人生の真っ只中にいるわたしは、それを誰かに語れるだけの人生とすることができるのだろうか。

語るなどと、偉そうなつもりはない。

ただ。

間違いだった、とは、冗談で口にしてみることはあっても、本心からは決して言うことがない人生であり続けたい。

たとえ誤字脱字だらけだったとしても。



2010年05月07日(金) 「カシオペアの丘で」

重松清著「カシオペアの丘で」(上・下)

やはり、重松清作品は、反則なまでに、いい。

幼い頃共に過ごした北海道の仲間たち。
炭坑で大切なひとを亡くし、失い、別れ、大人になる。

「カシオペアの丘」と仲間で呼び決めた丘は、夜の寒空を見上げボイジャーを探したあの頃皆で描いた夢の通り、遊園地になった。

別れて、出会って、結ばれて。

逃げ出して、出会って、失って。

シュンとトシとミッチョとユウジ。

ひとり娘を殺され、犯人が妻の不倫相手だったことを知らされ、娘のために妻と生きてゆくことを拒まれた夫。

炭坑火災で、町を救うため、生存者がいるかしれないが注水を決断した権力者の祖父。

祖父がその時命を奪ってしまっただろう、トシの父親。

やがて自分がいたから、トシがあんな事故にあい、一生車椅子の体にしてしまったと責め続けるシュン。

家を捨て、東京で再会してしまったミッチョと、そしてふたりの生まれることがかなわなかった小さな命。

それぞれの触れたくない、だけど本当は、一番わかってほしい、わかりたい、過去。

突然の余命宣告を受け、妻に、ひとり息子に、忌避してきた祖父に家に、そして逃げ出してきたままの友に、己に、シュンは伝えに、向き合いに、ゆく。

憎み、憎まれ、
愛し、愛され、
信じ、裏切り、

祈り、願ったものすべてに。

相変わらず、気づくと泣きそうな顔のまま、泣いてたまるかとページを繰っているわたしがいる。

物語のあちこちに、はしばしに、深い言葉が散りばめられている。

父が子を思うこと。
子が父に思わせること。
夫が妻に、妻が夫に。
友が友に。

白か黒ではない、だけど灰色一色なわけでもない、大切な色々。

強さと弱さ。
弱さの強さ。

よかったと思える人生。
幸せだったと思う人生。

どうか、できるならば本作品をご一読いただければ、と思う。



2010年05月05日(水) 物語のはじまり

中川あゆみ

というアーティストが紹介されていた。
六歳で両親が離婚。どちらも育児・親権放棄し、祖父母の養女として引き取られる。
九歳からひとりで駅前でストリートライブをはじめ、十四歳の今、デビューする。

生い立ちを歌詞にしたデビュー曲をギターを抱えて立派に歌いきった。
その歌に、話に、涙を浮かべて聴き入る出演者の姿がある。

捨てられた。
裏切られた。

と紹介され、歌われた両親は、どう受け止めただろうか。

そんな子を生み、育て、孫を養女して受け止め、支えて暮らしてきた祖父母は、どう受け止めたらよいのだろうか。



「ハウスブルー」という、中京テレビ制作のドキュメンタリー。

主婦たちの、誰しもがなりうるウツのことを、追いかけた。

以前からいわれていること。

「働いてる男は、休みや外に出る、という区切りや逃げ場がある。
しかし、主婦の家事・育児に休みはない。
終わりもない。
逃げ場もない」

取材を受け入れたとある主婦は、こういった。

「子どもが、自分でなんでもできるようになってきて、そんなときにふと、
わたしって、なんなんだろう?
って、思う。
必死に追いかけて、いつのまにか子どもが追い抜いて」

入院も薬物治療も、彼女を救いきれない。
回復して帰る場所が、原因の場所なのだから。

中二になる娘に、彼女は頭を撫でられながらいわれていた。

「笑顔だけでいいんだよ。それ以外、何があるの。
無理しないで、ほどほどに頑張って、でも、頑張り過ぎないで」

母が悩み傷つく姿を、娘はずっと見続けてきた。

お母さんが傷つくのは、悲しい。

コクンとうなずきながら、彼女はつぶやくように話していた。

「Rent」映画版を、ついつい、観てしまった。

「ライフ・サポート」の場面。
エイズ患者の青年が、いう。

「診断通りなら、僕は三年前に死んでいる。
だけど気分は楽になった」
「なぜ?」
「New Yorkで暮らしていれば、死や危険とはいつも隣合わせだから」

エンジェルの愛に溢れた笑みで幕を閉じる。

赤札堂の開店直後の朝市セールに、開店前から入口にひとが集まる。
そのなかに、足の悪い旦那さんと共に来た老婦人がいた。

目当ては、ひとりワンパック限りの、たまごMサイズ十個入り九八円、である。

わたしも他聞に漏れず、それが目当てである。

入口前の段差がある。
階段一段分くらい。

「段の上に上がっちゃいなさいな」

人々が前を譲る。
脇によける。

開店時間になり、自動扉が開く。

そうと気づかないひとらが、おかまいなしに、老夫婦を追い抜き、たまごを手に入れてゆく。

神田神社にのぼりが立つ。
神田祭りが、もうはじまる。

真夏日のような気候。

横断歩道を渡っているとき、目の前を小さな、白いものが横切った。
それを追いかけ、晴天を見上げる。

タンポポの綿毛だった。

こうして、わたしのなかで物語がはじまる。

神田川に投げ入れられた檸檬のように、ぷかぷかと浮き沈みしながら。



2010年05月04日(火) 「ミレニアム〜」なmisono

「ありがとうなあ!」

ツンとこめかみに刺さるような、五月晴れに負けない朗らかな声が、ラクーアの庭でわたしの足を止めさせたのである。

「misono」

であった。
ラクーアの七周年記念のライブとやらをやっていたらしい。

わたしが通ったときはもうすでに、握手会とやらになっていた。

並んだひとりひとりに、コロコロと表情を変え、きちんと言葉を交わす。

はじける笑顔、グッと真摯な真剣な表情、クシャリと崩した照れ笑い。

ひとを惹きつけるとは、彼女のようなことをいうのであろう。

わたしは柵の外の、目算で二十メートルほど離れたところから、ステージ上の彼女をみていたのである。

「ほんま、ありがとう」

と、聞こえてきそうなくらい、はっきりと小気味よく、豊かな表情である。

それだけでなんだか、元気を与えてもらえるのである。

精一杯だからこそ、喜びも悲しみも精一杯。
精一杯だからこそ、みる人聴く人に伝えられる。

先日の「scope」舞台挨拶で、出演者の方々がいっていた。

作品は、観てもらって、初めて完成します。
観てもらって、感じてもらって。
そのそれぞれが、それぞれのこの作品の完成版です。
どうかそのそれぞれの完成版「scope」を持ち帰ってください。

と。

なかなか、至極尤もなことではあるが、胸に刺さる言葉である。

「misono」はストイックなまでに歌と元気を。
映画制作者らもまたストイックにメッセージを。

わたしもまた、己に負けぬよう、何かを。

その完成版を、生み出してゆかなければならない。

さて。

「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」

をギンレイにて。

この副題は、いただけない。
観る気をげんなりさせられてしまうのだが、まあそれはさておいて。

「ダヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」を抜いてヒットした、とのコピーがつけられていたのである。

それが原作において、とのことらしいのだが、同じようにどうやら三部作らしい。

その第一作目。
原題は「女を憎む男たち」であり、こちらのほうがまだよろしいように思う。

もとい。

これはミステリである。
とある大企業の娘が四十年前に失踪した件を、新聞記者ミカエルと天才ハッカー少女リズベットが追いかけ、謎を解く。

リズベットは背中に竜、つまりドラゴンの入れ墨をいれているのである。

肝心なのは「竜」であり「龍」ではないことである。

東洋の龍は、神であったり知性や善の存在である。
しかし欧米の竜は、絶対的破壊の象徴であったり力の象徴だったりするのである。

それを背負った少女。

ピアスをあけ、パンクスの格好をし、しかし小柄で透き通るような白い肌。

重い過去を背負ったリズベットは、まさに「ツンデレ」である。

「ダヴィンチ・コード」のシリーズをわたしはひとつも観たり読んだりしていないが、おそらく本作のシリーズのほうがもっと単純に、ミステリとして楽しめる作品のように思えるのである。

難しくなければミステリにあらず、という方は、サラリと流していただきたい。

ミステリというのは、すべてがピタリと当てはまるよう用意してから、書かれてゆく。

わたしには、それはおそらくできないだろうことである。

誤解してはならない。
わたしだって、ある程度の通過点、着地点は、決まって書いているのである。

しかし、そこに決定的な「決まりごと」があってしまい過ぎると、天の邪鬼なわたしが、そうはさせまい、としゃしゃりでてくるのである。

すべてはいずれ、ピタリと当てはまる。

それがどうやら、わたしは苦手なのである。

揺らいで揺らがせて、流れて流して、軌跡を書き留める。

海図からはみ出ることもしばしばだが、それもまた愛嬌である。



2010年05月03日(月) 段々、石段、男坂

先日、かつての我が母校にある「男坂」にいったとき、ああ行かねばならぬ、と思ったのである。

絵巻にもある、上野を見渡す神田神社の「明神男坂」や湯島天神の「男坂」は何度もいっている。

直江兼続にも馴染みある「愛宕神社」にある、かの有名な石段(男坂)である。

歩いて上り下りするのでさえ足が一度はすくむだろう急勾配、なのである。

この石段。

「出世の石段」

と呼ばれているのである。
話は江戸三代将軍徳川家光の時代に遡る。



菩提寺の芝増上寺に詣った帰りの道すがら、愛宕神社の下を通って見上げた愛宕山に、見事な源平の梅が咲き誇っていたのである。

「誰か馬にて、取って参れ」

しかし誰一人、公の問いかけに応えようとするものはなし。

天下泰平の世の中に、間違えばよくて重傷、悪くば落命、そんなことに挑む者はいない。

「ぐ、む、む……」

公があまりの不甲斐なさに、怒髪天を衝こうとしたそのときに。

人馬一体のひとつの影が、颯爽と木の葉が風に舞い上がるかのように石段を上っていったのである。

公の家臣のものたちではない。
その者こそ「四国丸亀藩の曲垣平九郎(まがきへいくろう)」であったのである。

平九郎は見事山上の梅を手折り、家光公に献上したのである。

「この泰平の世に、馬術を怠りなく納めているとは、天晴れなり」

かくして平九郎は、日本一の馬術の名人として全国にその名を轟かせることになったのである。



この話にちなみ、愛宕神社のこの石段(男坂)は「出世の石段」と慣れ親しまれるようになったのである。

現地で目の当たりにし、これは馬で上るなど無理に違いない、との急勾配に驚く。

しかし実際に、何度か挑戦され、成功している者がいるのである。

わたしはもちろん、徒歩で挑む。

上りだすと、途中振り返るのに勇気がいる。

しかし上らねばならないのである。

ご心配なく。
男坂あるところ女坂あり、である。
脇に比較的緩やかな、踊場もある石段もあれば、ぐるっと裏手に続く坂道の山道もある。
おまけに、エレベーターで一息に山上へ、というものもあるのである。

是威派亜と息を切らし、粛々と参拝をすます。

一度石段を下り、女坂にてまた上る。

好奇心には勝てないのである。

さて、そうして一見無駄な体力を消耗してみせて、まだ愛宕山に未練があったのは。

何を隠そうこの地こそ、日本で初めてラジオ放送が行われた地なのである。

山上には愛宕神社と並んで、

「NHK放送博物館」

があるのである。

入館料は無料。
なかなか静かで無料に見合った穴場である。

さて。

おかげでぼんやりとだが、かたちが見えてきた。

しかし、この融通が効かぬのは、なんとかならないものか、との思いを飲み込む。

都区内の数少ない「山頂」から、また一段ずつ、高みを目指し登らんとす。



2010年05月01日(土) 「半分の月がのぼる空」「ジョニー・マッド・ドッグ」「アリス・イン・ワンダーランド」「scope」

今日は一日、映画サービスデーである。

まずは朝の渋谷に降り立つ。
めぼしい作品と上映時間を書き連ねたメモは、胸ポケットにねじ込んである。

外せない作品はふたつ。

そのふたつのすき間をうまく埋めて繋げられそうな作品をリストアップしてあるのだが、どうにもひとりで、どうしても、と思うのが少ないのである。

外せないふたつだけで十分だろうとは尤もな意見だが、この機会である。
千円で観られるならば、できるだけ観たいという心情には、逆らえないのである。

まずは軽く、

「半分の月がのぼる空」

大泉洋ほか若手俳優、女優が主演の作品である。

クレジットで知ったのだが、原作はライトノベル同名小説であった。

なるほど、これはなかなか素直な、純愛映画である。

終盤になって、おやや、ほう、そうだったのか、という演出があり、胸がシクンとこさせられてしまう。

互いに重病で入院している高校生が出会い、支え合い、友達からやがて違う思いへと変わっていることに気づく。

今どきの高校生らしさが薄いと感じるのだが、女の子は入院・転院の繰り返しで、学校に通ったことがない、のである。

ほかにも。

それはご覧いただいて、なるほど、と納得してもらうことにしよう。

力要らず、緊張無用で、ジンとできる作品である。

おっと、はや次の作品の上映時間である。
粛々と座席に向かおう。



二作品目は、

「ジョニー・マッド・ドッグ」

である。

この作品は、言葉が悪いが、胸糞が悪くなるくらい重たい作品、である。

相次ぐ内戦で混乱するアフリカ。
反政府軍を名乗り、虐殺略奪レイプ好き放題の少年兵部隊があった。

彼らのリーダー、ジョニー・マッド・ドッグ。
ジョニーもまた大将である大人(青年)ネヴァー・ダイの命令に忠実に従っていた。

その全ては理不尽である。

十歳から銃を持ち、殺し続けてきた少年たち。

無邪気に、純粋に、狂気的に、無差別に殺すために殺し続ける。

政府軍を、やがて大統領をブチ殺すために、である。

そんな狂気な現実の日常を、この作品は描いているのである。

メッセージなど、何も、ない。

これは作り話ではない。
紛れもない現実の出来事だ。

ということを突きつけるだけ、なのである。

言葉の悪い表現を用いたのは、

撮影地をアフリカの内戦がおさまったばかりの地で、
少年兵役の少年たちを、実際の少年兵だった少年たちで、

撮影した作品だという、

「徹底的リアル主義」

と銘打たれているところである。

本作品は、知らずとも損することはない。
そして、知ったからと得することもない。

しかし。

観たからと損することも、決してない作品である。

とかく、重たい。



三作品目は、

「アリス・イン・ワンダーランド」

である。
いわずもがな、ジョニー・デップ、アン・ハサウェイら主演、ティム・バートン監督の話題作である。

わたしはどうしても、テリー・ギリアム監督作品「ローズ・イン・タイドランド」とタイトルが混乱してしまうのである。

テリー・ギリアムが描いた「アリスの世界」というのが、「ローズ〜」であったらしいので、それもやむを得ないこととしているのである。

もとい。

本作品。
男のひとり観は、少々ツラいものがあった。

劇場が整理番号制でなく、開演前に早い者勝ちで並ぶため、一時間前にいってもすでに非常階段の踊場になっている始末。やがてすぐに、三階分ほど下階に、ビーズの首飾りのように連なるひとの頭がうかがえる。

あははっ。

マッド・ハッターが嬉々としてわたしのとなりから覗き込んでいる。

面白かったかい?

グイと顔を近付け、クリクリとわたしを見つめている。

チェシャ猫が右や左に現れながら、それを冷やかす。

「ほとんど」が、面白かった。

いや。
全体面白かった。

感動や素晴らしさを、本作品に求める方はいないだろうと思うので、これは最良の感想である。

軽快で軽妙で愉快で爽快、である。

アリスもよいが、白の女王にもまた、惹かれてしまう。

子どもたちと観ても十分楽しめる作品である。



さあ、最後の締め、の作品である。

「scope」

性犯罪の再発抑止を目的に、あらたに「scope法」が定められた。

性犯罪者にはGPSチップを体内に施術し、現在地、そして個人情報(罪状、服役年数他)の公開、そして薬物治療による去勢が施されるのである。

新薬のホルモン剤投与によって、異性と接触しただけで強烈な副作用に襲われる。

つまりそれらは、更正し、まともに社会復帰をしようにも、それを妨害することとなるのである。

海外では既に、刑期を終え出所した性犯罪服役者にGPS携帯を義務付けし、また付近住民への情報公開・告知は行われているのである。

本作品は、いわゆる人権侵害と性犯罪者の再犯率とを、ある程度、そうある程度誇張したに過ぎない現実的な社会を描いているのである。

しかし物語は、それでも純愛を下敷きにしている。

「scope法」対象者である別所は、社会に拒まれ、とある離島で偽名を語り、ようやく小さな工場で働きはじめることができた。

しかし、それはやがて周囲の明るみにさらされてしまう。

同じ工場で働く凪は、耳が聴こえず、しゃべることができない障害をかかえていたが、別所に心惹かれ、そしてふたりは気持ちを通わせ合ってゆく。

しかし凪は、工場の跡取り息子との結婚が決められていたのである。

跡取り息子の嫉妬。
別所の、凪への戸惑い。

やがてふたりは。

という物語とは別に、性犯罪者に対する社会的見解、扱い等の問題を訴えている。

性犯罪者の再犯率は、ゆうに五割を越えているといわれていたりもするのである。

日本での裁判員制度導入の際、かなりの物議をかもしたことを忘れてはいないことと思う。

性犯罪は、被害者がさらし者とならざるを得ない状況が多く、さらされずとも、告発自体が精神的苦痛を伴い、だから立件自体も少ない状況であったりする。

犯罪時によるものよりも、以後、公判中、に被害者自らが命を断ってしまうことも多いのである。

その遺族は、決して加害者を許しはしないだろう。

生涯の枷として「scope法」が本作品では採り入れられているのである。

では。

だからといって、それで遺族は加害者を許すことができるだろうか。

否。

許すことも、受け入れることも、出来やしないのである。

許さないこと、恨むことによって、奪われた傷を、己を支え続けてきたのである。

それはもはや、被害者のためだけに、そうしているのではない。

奪われた、残された己のために、というものが多分に、ある。

本作品の工場長は、かつて飲酒運転でひとを殺めてしまった。
別所とは、罪状こそ違えど、他人事とは思えず、別所を受け入れて接してくれる。

罪を憎んで
ひとを憎まず

現社会ではどうであろう。

飲酒運転もやがて本作品の性犯罪と等しいものになりうる。

再犯率は性犯罪に比べものにならないだろう。

これは極論として両罪を並立に扱ってみただけである。

犯罪と加害者と被害者の、当事者にしか実際はわからないことばかりではある。

しかしそれに、我々はややもすると裁く側として関わる可能性があるのである。



難しいことはここまでにして、実は知らずに公開初日ということで舞台挨拶が、あったのである。

わたしは最前列の一人分だけ空いていた席に潜り込んでいたので、小さな会場はまさに、手が届くところに監督はじめ出演者らがいたのである。

わたしの目の前に、凪役の女優さんが。

演技もとても素晴らしく、そして。

美しい女性

であった。

演技力といっては、「空気人形」の主演女優(ペ・ドゥナ?)と同じくらい、に思えた。

これは、わたしが惚れかけた目でみていた分を差し引いても、日本アカデミーは狙えるやもしれない。

別所役の俳優さんも、やや浅野忠信風のなかなかスマートな方で、やはり演技力も素晴らしかった。

残念ながらの単館・ミニシアターでの公開だが、楽しみにしていた甲斐がある作品であった。


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