「隙 間」

2010年06月30日(水) 「ダーティ・ワーク」

イト山秋子著「ダーティ・ワーク」

イト山作品の女性は、愛惜しい。

粗雑で孤独で、寂しがりで不器用で。

雨に濡れるダンボール箱で、撫でようと或いは抱きしめようのばされた手を、警戒し、だまされないぞ、と威嚇し、キャンキャンと吠える。

本当は何よりも抱きしめてもらいたいというのに、自ら向けさせたその背中を、ウウウと唸りながら、怒りを噛み殺す。

そうしてしまった己への怒りを、苛立ちを。

本作は、連作短編のかたちをとっている。
登場人物それぞれがそれぞれの物語を語り、やがてバラバラだったそれぞれが、つながってゆく。

「直木賞」作家ではなく、「芥川賞」作家であるに相応しい物語である。

本題及び各編のタイトルは、すべてローリング・ストーンズの曲名になっているが、それがまた、なるほど、という効果があるらしい。

しかし残念ながら、わたしはストーンズを聴いたことがないのである。

であるから、その効果の恩恵にあずかることが当然できなかったのだが、それでも、イト山作品である。

やや尻切れ感があるのだが、それはもう、込みでイト山作品である、ということである。

金原ひとみのように、いったいこの気持ち悪さをどうしてくれる、という暴力的なまでの気持ちよさではなく、あっさりと受け入れてしまうのだが。



2010年06月28日(月) 再会と、肉と中華と打てない携帯

今日は午前中、現場の見学会であった。

わたしがここにいるそもそものきっかけとなった物件である。

当時のプロジェクトチームの、共同体であったので余所の甘木大手工務店の設計部の方々と、およそ二年ぶりの再会である。

「竹ちゃぁん、よっ、お久しぶりぶり」

ガハガハ、というのが相応しいセキさんは、相変わらずの様子である。

当時わたしは、セキさんとマンツーマンで、やっていたのである。

似たような経験を持つセキさんには、不調のこともぶちまけていたので、かなり、朝や休みの融通をつけさしてもらっていた間柄である。

そうか、それはよかった!

子会社ながら、現在のわたしのことを、そういってくれたのである。

セキさんは島根の方で、吹奏楽でも全国大会常連校出身である。

チューバだったかほるんだったか、それらを吹いていたらしい。

つまり、そのような大柄な方なのである。

「竹ちゃん、は、飲めなかったんだよね。じゃあ」

肉でも食いたくなったら連絡くれよ。

わたしのツボを、ようく心得ていらっしゃる。

前回、セキさんとはふたりきりで中華食べ放題に連れてってもらったことがある。

あれは、つらかった。

たのむ皿のほとんどが、似たような味付けばかりになってしまうのである。

ガハハ、遠慮しないで、どんどん頼みなさいな。
気持ちではなく、口や舌が、遠慮がちになってるんです。

セキさんは自分の酒とついでに、わたしの皿を注文する。

う、ううう。
ガハハハハ。

肉ならば、こうはなるまい。
よしいつか、棒茄子が出た頃にセキさんにお世話になるとしよう。

というところで。

とんでもないハップニングに、みまわれたのである。

携帯のボタンが、壊れたのである。

「1」を押したら「あい」となり、「クリア」を押したら、入力モードが漢、カナ、英、数、と切り替わってゆく。

すわ、一大事。

何ひとつ、まともに入力できないのである。

電池を抜いたり、つけなおしたりしても、なおらない。

昼休みは会社に帰りがてら、のんびりたっぷりくつろごうとの目論見を返上である。

品川のドコモに駆け込み、離れられぬ待ち時間で一時間を費やす。

データのバックアップはとってありますか?

そんなもの、ない。
とってください、と頼むと、暗証番号が入力できないことに気がつく。

そう。
入力しようとすると、勝手に違うのを入力してくれてしまうのである。

結局、ドコモの店側で暗証番号を初期の状態にリセットしてみて、データを抜くことができたらそうしてみます、と。

こちらは三年くらい前の型なので、電池関係以外まるごと交換になりますが。

いい加減、最近の機種に交換する時期なのかもしれない。
しかし、はいそうですか、とホイホイ替えられるような値段ではないのである。

しかも、今はいったいどれを選べばよいのかまったくわからないくらい、いろいろの機種が店先に並んでいる。

秋葉のヨドバシで、一度、「それではいかん」とそれらの前に立ってみたことが、ある。

さあて寄ってらっしゃい見てらっしゃい……。
切り傷すり傷なんでもござれ……。
ガマはガマでも。

あやうく、アブラをたらしてしまうところであった。

腕組みしたまま立ち尽くし、険しい顔にみるみる変わってゆく。

いったい、どれがいいのでしょう。
ではまた今度の機会に。

そんなわたしである。

買い替えの不安を抱えたまま店に預けて、会社に戻る。

閉店間際に取りにゆき、どうでしたか、と尋ねてみる。

「イクスペリアに買い替えですね、竹さん」

円部くんに、そう肩を叩かれてやってきたのである。

「暗証番号のリセットをかけてみたらですね」

店員が、預けていたわたしの携帯を開いて差し出す。
ほうほうと平静を装って顔を近づける。装ってしまうところが、なんともいえないところである。

「どうやら、普通に入力できるようになりまして」

なんと。
たしかに、「1」も「クリア」も「変換」もできる。

バックアップも、全部とれましたので、と受け取る。

ふっと、胸を撫で下ろす。メモであったり未送信メールだったりにためてある中身を、そろそろ一度、別のところに整理しなくてはいけない。

それより、買い替えを視野にいれるほうがよいか。

考えるところである。



2010年06月27日(日) 「New York,I love you」と入浴

「ニューヨーク アイラブユー」

をギンレイにて。

豪華俳優陣と監督陣が、ニューヨークを舞台にそこに暮らす人々の愛や夢、出会いや別れを描いてゆく。

自称、第二の故郷をニューヨークと感じたわたしにとって、なかなか洒落た仕上がりの作品である。

感じるのは自由である。

オーランド・ブルームのシーンでは岩井俊二が監督をしているのだが、背後のテレビには、宮崎駿監督のゲド戦記の場面が映っていることは有名な話である。

ニューヨークで暮らすひとはアメリカ人ばかりが多いわけではない。
だから、この街が好きよ。

東京も、同じである。

さて、ニューヨークではなくトーキョー、ヤーナーカーのわたしにキャメラは切り替わる。

目が、朝早くにさめてしまったのである。

土曜だというのに、時計は七時のあたりを指していた。

ガス屋が来るのは十一時。

まるで遠足の子どものようである。

ここで二度寝すると、ガス屋が来たとき留守と思われ、大家にガチャリと開けられて入ってこられてしまいかねない。

それは避けたい。

とりあえず、ダイニングの見苦しいものをベッドルームに運び込み、シンクの洗い物を棚に押し込む。

押し込むというと大量の食器が揃えられているように思われるが、そんなことは、まったく、ない。

さてようやく時間になり、ガス屋がやってきたのである。

「一、二時間ほどで終わらせますから」

どうぞよろしく、と招き入れ、その勢いのまままっすぐベランダに通す。

来訪を拒んだのではない。

ベランダに、給湯器があるのだ。

さてガチャガチャと工事に取りかかりだしたガス屋の兄さんをよそに、すぐ隣の部屋で賑やかしく愉快そうなテレビの音や笑い声を聞かせるわけにはゆかない。

それは申し訳ない。

なので、テレビ東京の「週刊ニュース新書」などにチャンネルを合わせてみたりする。

廃校を再活用せよ、という特集で、近所の秋葉原の練成中学校舎を再活用しているのを紹介していたのである。

本日がグランドオープンということで、しょっちゅうその前を通っていたわたしは、おや今日からだったのか、と不思議な気持ちになったのである。

「3331Arts Chiyoda」として、カフェやレンタルオフィスや屋上菜園など、地域に解放された新しいかたちの施設利用が試みられているのである。

さてそんなとき、大家が様子見にやって来たのである。

世間話からやがて選挙の話になり、どちらかもう決められているのか、と問われたのである。

ピンときた。

ということは、これは公明党へのお誘いの話しかないのである。

わたしにそれは、いけない。
宗教の勧誘にくるのと、同じである。

そこで、始まったのである。

大家の気分を害さぬよう、滔々と、政治と報道と劇場と大衆と、理念と現実とを語って、包みくらましたのである。

疑うことを感じさせず、それをひとに勧めるようなものは、わたしは受け付けない。

頑張っているのは、当たり前である。

政治は、理想と現実の両方が正しいことを、踏まえた上で成り立つのである。

力の伴わない理想は、この現在にはとてもおぼつかない。

のである。

やがて話が迷走しだし、大家が千葉県は潮来の生まれだという話になったのである。

となれば、かつてわたしが銚子の向かいの茨城県は波崎町に毎月仕事で通っていたことや、名古屋の友の祖父が小見川で絵を描いていて花火大会に招いてもらったことの話になったのである。

さらに、大家の親類は我が故郷、船橋のお隣、習志野にいて、津田沼の南口からバスや車で五分くらいだ、とのことを知る。

なんということだろう。

「あのう、僕も千葉県なんですよ」

ガス屋の兄さんが、南柏なんですけどね、と加わる。

まさかの、にわか千葉県人会が、ここ谷中にできてしまったのである。

じゃ、もうお湯が使えますんで。

直ちに、ニューヨーク、である。
いや、入浴。

ヤーナーカーのわたしはニューヨーカーとなり。
つまり、東京で入湯。
千葉県民がここで住民。
おそれ入谷の鬼子母神。
チェケラ、ゲバラ。

と相成ったのである。

東京の街を眺めていると。
まさに人の数だけ、灯りの数だけ、物語がある。



2010年06月26日(土) 「告白」

湊かなえ著「告白」

ミステリーと冠するものは手にしないわたしではあるが、ついうっかり、というのがある。

今やふたたびの話題作である。

これは、いい。
潔い。

引き合いにだすのが正しいかわからないが、小川洋子の閉ざされた静イツな世界、のようで、しかし、そこは何のタガもなく、ただ内に向かう、果てしなく閉じた世界の果てしない静かな世界、である。

全編が、それぞれの告白、独白によって語られる。

幼い我が子を殺された女教師。
担任である女教師の幼な子を殺した少年A、B。
彼の母。同級生。

純で幼いが故の少年らの勝手な葛藤、自尊心、思い込み、思い上がりのために、愛しの幼な子を殺された母の復讐劇。

これはミステリーではない。
なぜなら、何も、解決、完結させていないのである。

いや、物語は完結しているのだろう。
しかしそれは、すべての告白を聞いた読者の中の、頭ではなく胸のどこか隅っこに、ぽっかりと暗く濃く深い穴を開け、そこから得体のしらなさがあふれ出させてくる。

これが映画化。

観覧者の感想で、

エグい。
ここまでやらなくても。

などなど、描写に対してか、内容に対してか、ようく目に耳にする。
しかしこの程度のことは、現実的にありうることである。

ありうることだからこそ、ひとはより嫌悪感や残酷さを肌に体感することができるのである。

現代の少年たちの周りに渦巻く、大人でも持て余すほどの情報量。

わたしの頃のように、順を追って、その段階に応じた知識に触れてゆくのではないのである。

生きるという喜びや悲しみや、近道や回り道を覚えてゆく前に、いきなり生か死かを眼前に晒されてしまう世の中である。

この作品がギンレイで上映されることになるよう、是非期待したい。



2010年06月25日(金) ハーフ・ボイルド

おいおい。
それはとんでもないことに、なってるじゃあないか。

先日、とうとうこの湿気と暑さに煙をふいた我が給湯器だが、故障したところをちょちょいと修理・交換すりゃあすむだろうと、俺が仕事で不在時に大家立ち会いのもと、今日中に済ましてくれるだろうはずだった。

しかし、連絡がひとっつも来やあしない。

あれよあれよと仕事に追われ、やっとオフィスをでて大家に確認の電話をしてみたのが、すっかり日も落ちた夜の時分だった。

「今日はやらずに、明日、全部交換してもらうことにしたんですよ」

八十はとうに超している老女の、大家の声はたしかに、そう言った。

ちょっと待て。
「全部交換してもらう」だって?

角を落としたやんわりした口調で問い返した。

「全部というのは、室外機まるごと、てことですか?」

そうなんですよ。新品ですから、何年経っても大丈夫、ということなので、どうぞ安心してください。

「そりゃあ、大安心ですねぇ」

あっはっはっ、て、ちょっと待て。
修理に来てそれじゃあと確かめたわけでもなく、いきなり、全交換?

住み主の俺に、ことわりも、たしかめも、なく?

「工事業者の手配がかかるからって、ふつうは四、五日かかるのを明日にしてもらったんですよ。
見積もみせてもらわないうちに、今、それと工事時間のファックスを待ってるんですけどね?
どうしたのか、まだずっと来ないんですよ」

ファック!
なんてざまだ!
俺には考えられない!

大家の建物とはいえ、俺の部屋(家)だ。
工事となりゃ、どやどやと工事のあんちゃんらが出入りすることになる。
なんせ、室外機は玄関からダイニングを抜けたベランダに、あるんだからな。

庭の裏手に、てなわけじゃあない。

ますます俺がいなくちゃあ、ならないじゃないか。
しかも、何時から何時までかもわからず、待ってなきゃあならない。

ジーザス!
キス・マイ・アス!
くたばってひっくり返ってるわけにもゆかない。

「お風呂に二日間も入れないのは申し訳ないから、よろしければどうぞ、うちのお風呂に入りにいらしてください」

大家はすぐ上の階にすんでいる。
「それじゃあ」とお言葉に甘えるわけにもゆかない。
帰って、眠気のトンネルを抜けてから、となると、いったい何時にお邪魔することになると思ってけつかる。

おっと。
ダンデ・タイガーらしからぬ言葉遣いが端々に……。
これは失敬。

「まだ勤め先からなので、遅くにお邪魔するのもなんですので」

丁寧に、丁重に、気持ちだけを頂いてお断りを入れる。

ちっ。
そろそろ、面倒くさい時間帯になってきやがった。

まぶたが乾き、重たくぼんやりとしはじめる。

「どうもすみません。では明日、業者から連絡がきたらそれを私にもお教えください」

つぶったまぶたの裏に、そう答える。

家賃で安穏と、古くから暮らしてきてるひとは、やはり違うものだな。
谷根千の下町の、善意と余裕と思い切りからなのだろうが、「少々」辟易してしまった。

さて、世間のいかなる寒風よりもなお優しい行水と、ようやくおさらばだ。

おっと。
大家から連絡が入った。

なになに?
明日の昼前に業者が来て、まあ一時間くらいじゃないかしら、だって?

テーブルに置きっぱなしの腕時計で今の時間を見ると、もう十時じゃあないか。

うつらうつらと文庫を片手に、すっかり時を過ごしてしまった。

「では明日、私はおりますのでよろしくお願いします」

どうもお手数おかけします、おやすみなさい、と通話を終了する。

今から帰ってじゃあ、銭湯はもう閉湯してしまう。

今日び入湯料は、条例かなんかで定まってる四百円ちょい、俺の昼飯代よりも値が高い。

のんびりゆったりじっくり、元をとれやしない。

濡れタオルでちょちょいと拭う程度でやり過ごして、今夜は乗り切ろう。

ハードボイルドならいざしらず、ハードコールドはどうか勘弁ねがいたい。

なあに。
仕事で徹夜の泊まり込みのときなんざ、風呂もシャワーも、歯磨きさえもする余裕なく過ごしたときだって、そこらを歩いてる連中よかあよっぽど経験してきてる俺だ。

そう思えば、たかが、程度。
問題はない。

しかし、こんなときに限って、涼しい夜でいやがる。
冷水がことさら厳しい。

ちっ。
まあた、面倒くさくなってきやがった。



2010年06月24日(木) 新経な心境、心音な真言

朝、シャワーを浴びようと湯沸かしのスイッチをひと押し、したのである。
ところが、ランプが点灯するどころか、うんともすんともいう気配がない。

よし、寝起きの不確かな指先で、曖昧な感覚で押したのかもしれないと、もうひと押し、ふた押し、み押し、と続けてみたが、大山鳴動するも蟻の子いっぴき、出てくる気配がない。

コンロをひねってみると、ぼうぼうと青い炎が「おはやう」と愛想を振りまく。

ベランダにでて、壁に張りついている室外機の周りを、へばりつくように探ってみる。

おっと。

自分が寝起きのままの下着姿だったのを思い出した。

二階とはいえ、人の目はある。

破廉恥な男と、通勤通学の衆目に晒してしまっていないか、飛び込んだ扉から顔だけのぞかせ、キョロキョロと窺ってみる。

うむ。
駅へ急ぐひとらは、それどころではないらしい。

わたしは覚悟を決めたのである。

えい、夏だ、かまうものか。

なけなしの下着をむんずと掴み、勢いをつける。
しかし、汗ばむそれはなかなかしぶとく、よろよろおっとっと、と浴室になだれ込み、キュッキュッ、と水栓を捻る。

はんにゃあはぁらぁ〜
みったぁしんぎゃあ〜

気合いと共に、頭だけ、さらにまずは、前髪のあたりだけ、水行に挑む。

しぶきが跳ねかからぬよう、馬跳びの前屈みの格好で、である。

うひゃっ、ひゃひゃ。

まさに文字通り、尻込みし、意味がないとわかりつつも、前屈みのまま尻を震わせる。

いかん。

ふたたび、気合いを奮い立たす。

オン、サラバ、タタギャタ……ギャピッ

真言などまともに知らず、その先を自分がどう口にしようとしたのか、もはやその必要さえないタイミングで悲鳴をあげる。

ヒュルルルル……っ。

もはやなんの意味も、思考も、気合いも、ない。

煩悩のままに、口から言葉がこぼれ出す。

もしや、これこそが真の真言というものなのかもしれぬ。

かくして。

朝の水行にてすっかり身を清めたわたしは、清々しさと腹立たしさをもって、一日のはじまりを迎えたのである。

みずごりは、どうやら土曜まで続けねばならぬらしい。

いったいどれだけ、不浄をおとしたわたしになれるのであろうか。

近所のいくつかある銭湯ですますのもよいが。



2010年06月22日(火) 「妖怪アパートの優雅な日常 四」と手料理

香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 四」

講談社「YA!ENTERTAINMENT」にて既刊の作品、その文庫版である。
「YA!ENTER〜」とは、講談社のいわゆるヤングアダルト、つまり中高生あたりの若者を対象としたシリーズであり、もしも文庫化していなければ、おそらくわたしとはまったく縁がないままであっただろう。

なんのことはない。
ひらたくいってしまえば、

「両親を事故で亡くした男子高校生・夕士が、ひとりでしっかり生きてゆこうと自立自活を目指して見つけたアパートが、妖怪から幽霊から怪しげな禁書魔書を扱う古本屋や骨董屋や、除霊師やその見習い女子高生やらが共に生活する「妖怪アパート」だった。

さらにひょんなことから魔道書の持ち主になってしまった夕士はそれに耐えうるだけの力をつけるための修行と、生活のためのアルバイトと、将来のための勉学とに奔走する日々を送る。

ただ普通の暮らしを望む夕士は、日々のさまざまなトラブルや出会いや出来事を通して、普通と普通とは違うということは、いったい何なのか、常識と非常識との境の曖昧さ、毎日を生きるとはなんなのかを教えられ、気づかされ、導かれ、成長してゆく」

という物語である。

説教くさくなく、楽しく読んでいるうちに自然にそんな金言が織り交ぜられており、これは忙しく気楽に娯楽を求める大人でも、十分楽しめる作品である。

しかし今回、わたしは大変不満である。

わたしが本作を読む目的である「るりこさん」の登場機会が、著しく、少ないのである。

「るりこさん」とは妖怪アパートの食事料理の一切を一手に引き受けている、手首から先しかない幽霊である。

自分の料理屋をもつことが念願だった彼女の手料理は、活字だけだというのに、猛烈に食指をそそらされる絶品料理ばかりなのである。

和洋なんでもござれ、だが、得意はやはり和食であり、これがもう、たまらない。

タネにマヨネーズを入れた「ふっくら和風ハンバーグ」など、大葉と大根おろしに、じゅわわと肉汁が混ざり合い、あっさりさっぱり満足な食べ応えであったり。

冷やしおからの甘酢風味や和え物や蛤と三つ葉のかき揚げや鯛の酒蒸しなど、米飯にばっちりの料理の数々。

日本人は米に限る。

照れ屋で、料理を誉められると白くきれいな細指を、もじもじと絡ませる。

もっぱら筆談らしいが、いわずとも欲しい献立をさっと用意してくれるその気遣い。

ああ。
きっと白い割烹着がよく似合う女性だったに違いない。

成仏できるまで、存分にその手料理を、わたしはたらふく食べ続けてあげたくなってしまうのである。

我が家の裏手の玉林寺にでも、出張してきてもらえないだろうか。

とかくこの作品は、ピコピコ携帯ゲームや漫画を読むくらいなら、ちょいとこれを読んでみてご覧なさいと思える、気軽で楽しい作品である。

次巻こそは、るりこさんの手料理にもっと出会えることを、願う。



2010年06月21日(月) 「ひなた」

吉田修一著「ひなた」

先日のブランチで、文庫ランキングにこの作品が入っており、そういえば横積みしたなかにそんなのがあったはず、と。

ある家族の、兄嫁と弟の恋人もひっくるめて、の何気ない日常を、四季に分けて描いた作品である。

突如、兄夫婦が同居することになる。
言い出したのは兄嫁の圭子で、勤め先の編集部で頼りにされる存在。
弟の彼女であるレイは、元千葉のヤンキーで、女子が皆憧れる有名アパレル会社の広報に就職を決める。
兄の浩一は信金に勤めながら、趣味で劇団のサークルを続けており、実は親友の田辺を密かに想っている。
弟の尚純は大学を卒業しても就職せず、叔父のバーでアルバイトをし、やがて叔父の家に転がり込むが、自分は母の子ではなく、母の妹と父の子であることを知る。

そんなこんなの、それぞれの内に抱えるものをそのままに、季節は変わらず過ぎてゆき、変わらず変わり移ろい過ぎてゆく季節とそれぞれの、変わらぬひなたのような日々。

作品中に出てくる舞台が、いけない。

文京区は茗荷谷、小日向のあたり。

茗荷谷はかつての勤め先であり、さらに、かれらの住まう小日向は、高校の同級生の実家があるあたりで、また拓殖大は試験会場に通うとこでもあり、あああすこの坂のことか、と容易に思い描けてしまう。

そしてたまに出てくるのがお茶の水、神保町であり、これはまた毎週通っているところで、圭子の勤める出版社とは甘木出版社か、何樫季節か、はたまたなどと、ニヤリとしてしまう。

やはり、妻とは、というところで、一度は考えてしまうだろうことが、呟かれている。

「みんなを送り出して、みんなが帰ってくるまで、家にいるでしょ?
だけど、なぜここにいてみんなを待ってていいのかしら?」
「お父さんの妻で、わたしたちのお母さんなんだもの。でーんと、待ってていいに決まってるじゃない」

そうよね。妻として、ちゃんと愛されてなきゃだめよね。

理由なんか、いらない。

しかし、理由がなければ不安になるのである。



2010年06月20日(日) 「ずっとあなたを愛してる」

「ずっとあなたを愛してる」

をギンレイにて。

この作品。

とても素晴らしい作品です。

TSUTAYAでもどこでも、もしもお目当ての作品が見つからなかったときは、この作品を観てみてください。



十五年の刑期を終えて出所したジュリエット。

罪名は、殺人罪。

我が子を自らの手で殺してしまった彼女を迎え、共に暮らすことにした妹のレア。

十五年、姉はいないものとして固く言い聞かせられて育てられてきたレア。

結婚し、二人の子供を養子にとり、夫の父とささやかながらあたたかい家族の暮らしを築いてきたが、姉のことだけが彼女のなかでずっと気になっていた。

姉との再会、共に暮らせる喜びと同時に、互いの距離感に戸惑う。

レアの同僚の大学教授たち、そしてレア夫婦のふたりの子どもたち、義理の父。

彼らのジュリエットのよき理解者たちが、彼女の魂を、ゆっくりとときほぐしてゆく。

ジュリエットは何故、最愛のひとり息子を殺してしまったのか。

ついにそのことを、たったひとりの妹レアに、打ち明けるときが、やってくる。



この作品でとても清々しかったのが、傷の痛みをわかるものだけが、ジュリエットに対して「痛みをわかる」と云っていたところで、そこには、同時に自分の痛みの告白も含まれているところ。

レア夫婦が自分たちの子どもを作らず、ふたり共養子にとったのは、不妊の問題ではなく、姉が自分の子を殺してしまったことが、少なからず原因となっていた。

自分ももしかしたら姉と同じ事を我が子にしてしまうかもしれない。

しかし、姉は肝心の理由を、裁判でもひと言も口にせず、誰にも言わず、わからないままだった。

ジュリエットは医学分析研究所に勤める医師だった。

我が子の病気分析をし、その結果、彼女は医師としてではなく、母としての道を、選んだ。

どんな理由があれ、我が子を殺したことに変わりはない。

作品の最後に、ジュリエットが答えるひと言が、清々しく、胸に響いた。

どうかそのひと言を、きいてもらいたい。



2010年06月18日(金) すぐにまた会えると。再会

昼休み。

さっさといつも通りに食事にゆこうと、エレベータに乗り込んだのである。

かごには人が半分ほど乗り込んであり、おっと前について乗り込まねばわたしが閉め出されてしまう、とついていった前の女性が、くるりとこちらに振り返り、居直ったのである。

わたしがさらにわたしの後ろに乗り込むひとがいないか、背を向けて半身になったとき、チラとその女性と目があったが、だからと見つめ返すようなことはまったくなく。

しかし、いったん視界から見切ったはずが、半身のままグルリと振り返り直してしまったのである。

バッチリと目が合い、パチパチと目をしばたく。

そして半身の正面に顔を戻すと、向こうに乗り込んでいたケンくんがわたしに、ちわス、と普通に会釈する。

ああ、ういす、と反射で会釈を返す。

なにも変わったことは、ない。
いや、しかしちょっと待て。

「お疲れさまです」

その半身を向けていたわたしの横顔に、その女性が挨拶をしてきたのである。

ああ、お疲れさまです、と反射的に返してから、再び彼女の顔を、見る。

「……」

ぱちぱちくりくり。

なぜだろう。
なぜにもこんなにも。
よく知った人のように思えるのか。
これはまさか。

まさか。

「お久しぶりです」

あ。
え?
お?
あぁ〜!

やっぱり。

ようやく、わたしの中で合点がいった。
懐かしのエリーであったのである。

ケンくんをにらむ。

なぜ、ひと言もいわない。
だって、いうほどのことじゃあないかと。
いわいでかっ。

エリーとは、ここに移る前の会社で「同期四人衆」だったひとりである。

わたしが辞めるのと同じ時期に彼女は産休をとり、産後の復職の時期もなかなか決まらず、四人衆のひとりで出向にきているぐっちゃんからも、話に上らないままであった。

母になった彼女は髪をばっさり切り、やわらかくやさしい美しさのようなものをたたえていた。

「一年ぶり、くらいじゃない?」

子どもが生まれたら写メ送りますねって言ったきり、だったじゃあないか。

「だって、そのうちすぐ会うと思ったし」

なかなか意味深な発言だが、まったくもって、そのようなあいだではないのである。

真顔でサラリと、このような愛想を言ってしまえるつわもの、なのである。

そうして後で、わたしは首をひねって思い出したのである。

一年ぶりのはずがない。
まる二年ぶり、である。

元「同期四人衆」のうち三人が、ここに集まったのである。

残りひとりの古葉男だが、彼は神奈川の違う事務所に会社を移ってしまっているらしく、再会はかなり難しいのである。

しかし。

このようすだとそれもまだまだわからず、油断禁物、である。



2010年06月15日(火) 「瞬(またたき)」とアンテナ

河原れん著「瞬」

湊かなえ原作の映画「告白」が、空前絶後の話題作となっている。

かの名作「嫌われ松子〜」の監督がメガホンをとられた、というだけでもう、わたしは劇場に裸足で駆けつけたい気持ちに駆られたのである。

しかしこれだけ話題になってしまうと、わたしのようなものはたたらを踏んでしまうのである。

きっとこの後、ギンレイにかけられそうな淡い期待と予想が、頭をよぎるのである。

さて。

邦画がもはや洋画などよりも深く、強く、広く何かを与えてくれるものとなってはや数年、いや十年くらいが経つ。

しかしテレビドラマからの映画作品がその主な立役者である、と少々切ない時分もあるが、無論それだけではないのである。

シネコンの台頭、席巻で劇場数も選択肢も増え、底支えしてきた単館ミニシアターが閉館など、たちゆかなくなってきてしまったりという話もあるが、それでも、まだまだ映画は生み出され、観られ、ひとびとをあたため続けてくれているのである。

そんなわたしは、今回、なんともほろ苦い思いを、させられてしまったのである。

それが、本作品である。

安易に映画化という言葉に踊らされぬよう、これまで慎重に、選び、避け、伺っていたはずであったのに、どうにもこの時期のわたしは、アンテナやレーダーや探知機の類いが、すっかり役立たずになってしまっているようである。



恋人の淳一とバイクで事故にあい、自分だけ助かってしまった泉美。
泉美は事故のときの記憶を思い出すことができず、それを取り戻そう、と心の痛みをこらえつつ歩き出す。
失われた淳一との最期の記憶は、切なく苦しいほどのふたりの真実だった。



らしい。

のである。

おそらく、岡田将生、北川景子、大塚寧々らによって、銀幕の中でなら、そう思えるのであろう。

いかんせん、アンテナの類いが鈍っているわたしには、原作である本作に、それを感じ取ることあたわなかったのである。
帰り道に不忍池の向こうに見えるスカイツリーが完成し、見事電波が高く広く強く伝わるようになったら、そう感じるようになれるやもしれぬ。



2010年06月13日(日) 「フローズン・リバー」

「フローズン・リバー」

をギンレイにて。

アメリカ、カナダの国境地帯にある先住民の保留地区。
夫がクリスマス前だというのに自分とふたりの子どもを残して蒸発してしまったレイと、我が子を亡くした夫の母に奪われてしまった先住民のライラ。

ふたりのシングルマザーが、家族を守るため、我が子を取り戻すために、国境の凍った川を密航者を渡し報酬をもらう、という犯罪に手を染めてしまう。

母であるひとが観たのなら、激しく共感するところが多々あるのだろう。

ただ、守りたい。

その純粋な思いのためには、お金が要る。
それが現実。

それがもはや最優先である現実に生きるひとは、たしかにいるのである。

その弱さと強さは、神々しさとは違った何かが、ある。

わたしは、まだ己のためだけ、しかない。
無論、犯罪などに手を出したりは、ない。

たかが、来月の「RENT」が払えないから仕事にとびつき、翌々月にまとめてもらえるはずの給料を例外でひと月分を先に貰えないか、と頼んだり。
その程度の地べたしか、手をついたことがないのである。

自分のためではない誰かのために。

家族になるということは、自分の分身だということ。
だから自分が我慢するように、分身も我慢してくれると思いがちになってしまう。
それは男に多い考え方である。

らしい。
であるから、家族のためとは自分自身のため、ということにもなる、といえなくもない。

綺麗事の内ですむにこしたことはないが、それですまないときに、選べるだろうか。

そして、作品の最後における彼女の選択は、おそらくただひとりの母として、というよりも、母という人間として、の揺るぎないやさしさからなのかもしれない。

母は弱く強く、そして、こわくやさしいもの、である。



2010年06月06日(日) 「(500)日のサマー」

「(500)日のサマー」

をギンレイにて。

運命や偶然を信じるトムは、それを信じないサマーに恋をする。

サマーと出会ってからの「500日」の物語である。

最初に言っておこう。

作中の冒頭にナレーションが断っているように、この作品は「恋物語」では、ない。

単純で浮き沈みの激しい「男」という生き物に捧ぐ、エール、である。

とかく、気楽に楽しい作品である。

トム役のジョセフ・ゴードン=レビットが、なんとも愛嬌、好感が持てる。

まるで、マイケル・J・フォックスのようなのである。

眉をしかめると、レオナルド・デカプリオにも見えるが、二枚目までは感じさせない絶妙な存在なのである。

メッセージ・カード会社でコピーを考える仕事をしているのだが、夢は「建築家」だったトム。

サマーに打ち明け、やがてその夢をかなえようと奮起するのである。

街を眺めては、建物の設計者やデザインに目をとめ、スケッチブックにデッサンしてみたりする。

わたしもかつては、その道具だけ常に鞄に持ち歩いていたときもあったのである。

しかしそれはすぐに、今のメモ帳と三色ボールペンに成り代わってしまったのではあるが。

本作に、皮肉な発見をしてしまった。

現在、設計業界・建築業界で推し進められているBIM、3Dモデル化においてアメリカで主要なソフトとして扱われているのが、ある。

オートデスク社の「Revit Architecture」である。
「Architect(建築家)」を目指すトム役が、ゴードン=「レビット(Revitt)」なのである。

これはこじつけだが、日々職場でレビットに振り回されているわたしにとっては、おいておけないところなのである。

話題の映画「アバター」のキャラクターのモデリングをしたのも、どうやらオートデスク社のモデリングソフトらしい。

先のオートデスク社主催の講演会の結果、どうやら我々は「Architect」ではなく「Creator」化してゆく気配が感じられるのである。

いや、もしくは、「Creator」が「Architect」になる社会なのかもしれない。

「DTP」というのが現在そうなっているように。

「個」の可能性が、まさに無限を秘める社会。
逆をいえば、「個」に「全」が左右されうる社会。

明日がわからぬ社会の明日を生きてゆくのなら、「全」の中でも確固とした「個」で生きねばならない。

油断や惰性で生きられても、社会では活きられないのである。



2010年06月04日(金) 「東京島」

桐野夏生著「東京島」

一組の夫婦と、男十数名が無人島に流れ着き、救助を待ちながら、脱出を夢見ながら、そして諦めながら、「トウキョウ島」と名付けてサバイバルがはじまる。

端的にいってしまうと、

いまいち、な感想しか抱けなかったのである。

舞台はある意味非現実的であり、しかし、現実的でもある。
しかし。
どちらもあり過ぎる、というのか、バランスがとれてしまっている、というのか。

気流で機体が揺れても、絶対に墜ちない飛行機に乗っている。

そのような感覚でしか、読み進めないのである。

求めるのは、もっと振り切れた世界である。

非現実のなかを現実的に描き、また逆に、現実的に非現実を描き、それがどちらも、差し引きゼロにはまってしまっているように感じる。

結果、どちらもはまるところが失われており、重さもなく、毒々しさも、なくなってしまっているのである。

内容や設定だけなら、桐野夏生というひとりの作品を選びはしない。
文字から沸き出してくる桐野夏生を、それだからこそ、読みたいのである。



2010年06月01日(火) 世界の安藤・奥山氏と同じ世界

終日社外で講演会に出席していた。

午前は、「世界の安藤」こと安藤忠雄氏と、「フェラーリ・デザイナー」奥山清行氏の講演である。

ためになる安藤氏のお話を。



「先日仕事で中東から、ゼロ泊二日で関空に帰ってきたんですわ。
そしたら、ロビーでおばちゃんたちにつかまって、まあ、関西のおばちゃんから逃げられる者なんかおりませんですから」

「安藤さんですよね」
「ええまあ」

と、何してるんですか、中東から帰ってきたとこです、わたしたちもおんなじなんですよと。

なんでも、五泊くらいして、毎日やることがないんですよ、周りは砂漠しかないんですから、そこで彼女たちは何をしてたんだか聞いたんです。

毎日五時間、ホテルでエステ、だそうで。

まあ優雅でいいですねえ、と穏便に済ましたんですよ、そしたら。

「効果なんかあるんですかねえ」

一緒にいた若いものが、冗談でぼそりと言ったんですわ。

おばちゃんたちがもっと遠くなるまで待てばいいのに、聞こえてしまったんですね。
おばちゃんが戻ってきて、言ったんです。

「安藤さん。可能性は、かけなくちゃあいけないんです」

なるほど確かに、と思ったんです」

つまり。

不況だ何だと、諦めて何もやらずに口だけになっていてはいかん、と。

夢のために、明日のために、何をしてますか?

可能性はゼロじゃない。
諦めて何もしなければ、いつまで経っても、可能性はゼロなんです。



当たり前のことだが、言われなければなおざりにして忘れたままにしてしまうことである。

可能性のために、やることを忘れてはならないのである。

大層なことではない、たとえば晩酌のビール(発泡酒)をうまく飲りたいために、懸命に働くとか。
帰ってきた旦那に、おっこれ美味いね、と言わせてみるために、味付けを変えてみるとか。

尺度は各々、自由である。

さて、もうおひと方の奥山氏のお話を。
奥山氏はフェラーリの特別限定車のデザインを勝ち取ったときのエピソードを話してくれたのである。

そのデザインは、

「十五分で描き上げたデザイン」

と言われたらしい。

フェラーリ社の社長が、最終デザイン決定のために、移動ヘリのタービンを回したまま待機させるという、超過密スケジュールのなかやってきたのである。

公的に決定案として見せたのは、本人から見ても納得しきれないものであった。

本人がそうなのだから、社長も当然、そう感じる。
それじゃあ、と社長が帰ろうと背を向けたとき。

当時の奥山氏の上司がドアの前に立ちはだかり、「サンドイッチでも召し上がってゆかれませんか」と。

ちょうど昼前だったのである。

「十五分。この間に、別のを描いてこい」

奥山氏への時間を、稼いだのである。

氏は急ぎ戻り、デスクの引き出しに山と詰め込んであった、ひとつのデザイン画を取り出す。

これまでに、軽く二年間は悩み、壁にぶつかり、破り捨て、また描いてきたなかのひとつ。

コレだ。

十五分の残りで着色し、社長の元にとって返す。

人生で、二度とない最大のチャンスであり危機でもあった十五分。

たったの十五分で、奥山氏は人生を変えたのである。

「たったの十五分のために、どれだけの時間と自分自身を費やし、可能性を生み出せるか」

プロとアマチュアの大きな違いがあります。

たったひとつに精力を尽くし、最高と思える成果品を生み出す。
それで尽き果てて、満足してしまう。

それは、アマチュアです。

最高と思えるひとつだけではなく、それは見るひとによって違うかもしれない、だから別に幾つもの種類を用意して、一が駄目でも二が、三が、とすぐに対応できるのが、プロです。

「皆さんもプロの方々ですから、「精一杯よくやった。だけど駄目でした」では仕事にならないのは、おわかりだと思います」

ましてや技術の進化により、時間が持つ意味が、大きく変わっています。

「人生には、たった十五分でその後を変えてしまう、変えるだけの力を持つ時間があります」

いつ来るか、いや来ないかもしれない。

「その時間のために、出来る限りの武器と選択肢と可能性を、ストックしていなければならないのです」



ご尤も、である。
「人生が変わる十五分」のためにとは言わないが、かつてわたしもよくよく言われていたことである。

「この案が駄目と言われて黙り込んじゃうのは、頼むからやめてくれ。

シロウトじゃあないんだから。

相手にとって、例えお前が一年生の物知らずだとしても関係ない。

ひとりの「プロ」として、相手の前に立ってるんだからな」

我が師から、常々言われていたことである。

本当に?
本当にそれしかないの?
こういうのは駄目なの?
なんでそれなの?
理由は?
どうやったらそうできる?

ひとつしか見なければ、可能性も結果も、ひとつしかない。

答えはひとつきりじゃあないのである。
ひとつきりの小さな答えはひとの数だけあり、だからそれらをひっくるめた大きな答えをとらえなければならない。

交渉ごとにおいて、ごく当たり前のことである。

それがたまたま「人生を変えてしまう機会」にあるかどうかということであっただけであり、ひとを相手にするときは常にあることなのである。

自分ひとりのことだけであれば、ひとつきりでもよいだろう。
しかしそれが、組織や家族や友人らのため、となれば、「大きな答え」を意識してゆかなければならないのである。

お二方とも、ごくごく当たり前のことだが忘れがちなとても大切なことを、お話し聞かせていただいたのである。


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