「隙 間」

2009年11月29日(日) ひきこもって過ごしていた

せっかくの休日だというのに、引きこもってしまった。

正確には、今週分の朝食用の食パンを買いだめに赤札堂とハナマサにでかけはしたけれど、買ってそのままの足で帰ってくるなんて、まったく、ぜんたいどうにかしてるとしか思えない。

ビニル袋にネギの頭を生やして、地下鉄に乗って帰ってくるのだから、はずかしいったらありゃしない。

それじゃあ、自転車のカゴから生やすのだったらよかったの?

自転車はとうに処分してるのをわかっている。
今の部屋には、駐輪場も自転車置き場もないのだから、「どうせ全部歩きでしょ」とすずやかな顔で、煮え切らない気持ちを一刀両断した。

「お買い得品」をみつけて、ほんとうは大きなほうの、「醤油一リットル」だとか「お米五キロ」とかを買いたいはずなのに、「お徳用」がついた小瓶や小袋のほうを手にしてはしげしげとながめ、「今はいらない」「でも、あれをつくるときにはいるけれど」と、思案にふけって熟考してみたりして、ていねいな手つきでその半分をもとの棚に戻す。

結局選んだ半分を、「きみたちは選ばれたんだ」と、すこしえらぶったようすで得意げにレジに連れてゆく。

小銭の端数がうまく払えたりすると、「今日は運がいい」と悦に入ったりするけれど、外はもう真っ暗な時間で、今日の残りのいったいどこでその運を有効につかうのかわからない。

「運はつかえるものじゃない。ただたまるだけのものだ」

とかいって鼻を尖らせていたりするけれど、財布のなかに、おみくじでひきあてた「大吉」や「中吉」をちまちまとしまいこんでいるのを知っている。

まるでどこかでその運をつかえるんじゃないか、って思っているみたいに。

赤札堂より二十円安く食パンが買えたし、さすがハナマサ、とご満悦だけど、吉池の地下食品フロアに初潜入と調子にのって、探検しているうちに、一階外の野菜安売り場が店仕舞いの時間を過ぎたのに気づかなくって、お目当てのキャベツ一玉七十八円を買い損ねて、「白菜がまだ冷蔵庫に残っているもの。やっぱり運がいい」なんてつぶやいてみせたりしている。

おまけに。

出がけにプレスにかけておいたスーツのズボンが、取り出してみたら折り目が二本になっていた。
すこし残念な顔で、もう一度、今度は念入りにひざを揃えて、すそを引っ張って、ほほをひきつらして、プレスにはさみ直している。

どうか三本線に増えませんように。

神頼み運頼みを織り交ぜて、よし、とセットする。
テレビでは男同士の激しい闘いが繰り広げられ、どっちが拳をくらっても、「あいた、あいたた」と顔を強ばらす。

そのうち、彼らに合わせて、頭を、上半身を揺さぶりはじめて、

「パリー、スウェー、ダッキング」

ダッキングで腰に感じるものがあって、ふう、とあきらめる。

男同士の闘いは勝者が決まり、カチッとスイッチが切れる音がした。

あちらもプレス(記者)を。
こちらもプレスを。

勝者はかつてのイメージとは一線を画した姿で。
こちらは折り目がなんとか一線になったズボンを。

手にしたものを肩に掛ける。



2009年11月28日(土) 「人生に乾杯」

「人生に乾杯」

をギンレイにて。

この作品には、やられてしまいました。

ぜひ、観てみてください。

年金暮らしをしていたエミルとヘディだが、年金だけでは生活などできず、借金(公共料金の)取りに追われる日々。
それは別に贅沢をしているわけでもなく、慎ましやかに、ぼそぼそ暮らしているだけで、つまり、それがハンガリーでの高齢者の生活の現状だった。
運命的な出会いをしたふたりの、そのきっかけだったダイヤのイヤリングを借金のかたに差し出した妻のヘディのために、エミルはひとり強盗をする。

イヤリングを取り返すために。

いたって紳士的、かつ小心な強盗を、やがてヘディと警察から逃れながら繰り返してゆくことに。

かつての思いを思い出して、ふたりはなんとも素敵な夫婦の姿を、観ているひとにみせてくれます。

行く先には警察のバリケード車が道を塞ぎ、途中から人質になった、ふたりを追っていた女性警察官を車からおろし、

「わたしたちの行く先に、あなたは必要ない」

と言葉を残して車に乗るエミルとヘディ。

ふたりはしっかりと、やさしく、愛情深く手を握り合い車を走らせてゆく。
バリケード車が待ち受けているとわかっていても、車は止まるどころか減速する気配すらみせない。

解放され、ひとり歩いて出てきた女性警察官は、車が大破炎上するところを目の当たりにする。

エミルとヘディの幸せな姿を思い出し、彼女は衝撃と悲しみのあまり地面に崩れ落ちる。

「ひとつだけ心残りがあるの。
それは海を一度、見てみたかった」

年金生活に苦しむ高齢者たちはエミルとヘディの行動に勇気と希望をもらい、そして力を与えてもらい抗議やデモが全国にひろがってゆく。

思わず息が詰まる悲しさに襲われてしまいました。

そして。

やられました。



とにかく、ほっこり、とした幸せな、あたたかなふたりの姿が、とても素敵です。

夫婦って、素敵です。



2009年11月27日(金) 闘争と敗走

さて新しい保険証も届いたことだし、健康診断の結果も伝えなければならないし……。

ということで。

大森です。

わあ、久しぶりですね。もうずいぶんお会いしてなかったんじゃあ……。

と出迎えてくれたのは、ふた月近く顔を合わせてなかったケイさんでした。

久しぶりのケイさんは、朗らかに元気よい様子で、だけどずいぶんスリムになっていました。

ケイさんは、わたしとイ氏がとりとめない無関係な話にいくら花を咲かそうと、きちんと椅子に、控えめにやや下がったところに腰掛け、その話を聞いています。

「おお。優秀、優秀。こりゃ祝杯だね」

健康診断の結果を眺めて、イ氏はニコニコとわたしを見ました。

「でもね。

中性脂肪がずいぶん低いね……。これじゃあ、元気出ないでしょう」

正常値内の、下限にほど近いところの値だったのです。

「ま、健康優良、てことで」

と話に早々に片を付け、それじゃあ、

「そろそろあなたも、身を固めなきゃね」
「なぜにここで、そろそろ、が固まる話になるのでしょう」

イ氏とふたりだけでのそんな話ならば、あれだこれだとトウカイすることもできる。

だけど、いまはそこにケイさんがいるのです。

以前、やはりこの三人でいるときに、高村光太郎の智恵子さんへの性的欲求の激しさによって智恵子さんが失調症になっていた話をし、

「女性として、ヤだよねえ」

と、イ氏がケイさんに不意に尋ね、いやそれはできれば尋ねたりしないほうがよいでしょうに、とわたしがハラハラした思いになったことがありました。

そんな心配をよそに、イ氏はずずいとわたしに切り込んできます。

いやあ、実際、書いたり読んだりするだけで一日が手いっぱいで、そこにほかの誰かさんと時間を過ごすのは、なかなか面倒や億劫に思えてですね。
それに、書いてます、というとヘンなひとだと思われるし、そう思われないような実績もいまいちないですし。

「だけどもね。
書いているのが好きなんでしょう。
優先させたいんでしょう。
だったら、それをヘンに思われようがいいじゃない」

それはそうなんですが。

横目でチラとケイさんをみると、ぱちくりと、何のお話ですか、と黒目が右往左往しています。

「プロ目指すわけでもないのにゴルフにあけくれているサラリーマンたちに比べれば、よっぽど経済的じゃない」

うんうん、とイ氏は強くうなずいて、置いてきぼりだったケイさんもなんだかわからないけれど、ゴルフよりいいことなんだ、というところだけ理解して、曖昧ながらもうなずいてました。

「ひとりじゃなくて、ふたりになって書いてゆけることもあるんだから、それもまた大事なことだしねえ」



take me baby
or leave me!



「結婚なんて、支え合うとか、そんなもんじゃあないんだから」

じゃあ、忍耐、でしょうか。

「いやいや。そんな生易しいもんじゃあないよ」

ぱちくり、ごくん、とケイさんとふたり、イ氏を見つめ返すと、

「やりたいことを主張しあう戦いだよ」

戦うのは相手があってのことなんだから、相手がいない不戦勝ばかりじゃ飽きちゃうでしょ。

ケイさんの目が、こころなしかさっきより力に満ちてイ氏の言葉を聞いているように見えました。

戦いに臨もうとする者の目です。

一方、不戦勝どころか戦場からなるだけ離れて、避けて、竹林の奥に引きこもっているわたしは、どんな目をしていたのでしょうか。

茫として定まらず。
漠として判ぜず。

「頑張って相手を見つけてよ」

唖々としてわたしの背を叩いたイ氏でした。

「バテないように、脂肪が取れる食事しなさいよ」

脂肪を取って、コレステロールを取らない食事って、いったいどんな食事でしょう。

また新しい悩みが増えてしまいました。



2009年11月26日(木) 「不倫は家庭の常備薬」

田辺聖子著「不倫は家庭の常備薬」

紫綬褒章、文化勲章を受章されたしかるべき方の作品である。

無礼ながら、御歳とこの作品名との釣り合いや如何に、との好奇心で手にしてみたのである。

七編からなる短編集であり、七通りのいわゆる不倫にまつわる人々の観念、信念、哲学などが織り交ぜられているのである。

なるほど、「亀の甲より年の功」である。

若々しさこそあまり感じないが、それに相応しく、しっとりと含蓄情念諦観がうまい具合に染み渡ったものとなっている。

「家に帰るのが浮気、帰らないのが不倫」

「週末をひとりで満足に過ごせないものは、不倫をしてはならない」

「体を交えなくても、夫や妻には晒さない思いや言葉を交わすこと、そっちのほうが十分、しっかりとした不倫行為」

などなど、うむう、とへの字に頷かされてしまうことごとが、散りばめられているのである。

「人恋しいなら、早く家に帰って奥さんにあたためてもらえばいいじゃない」
「家族は人じゃない。自分の分身だ。自分の分身に人恋しさをうめてもらえるものじゃない」

これには、深く、考えさせられるものがある。

ひとつは、「家族は人じゃない」を額面通りにうけとり、なんて淋しい非道いことを、と寂しいだけのもの。

もうひとつは、これこそ真意だと思うのだが、「自分の分身」だと言いきっていることである。

つまりは、傲慢とも思える表現ではあるが、家族である身内は、自分そのものである、という都合のよい解釈だが、至高の愛情表現である、というものである。

巻末に唯川恵の解説の中に、

「男と女は違う世界の生き物であり、人間の男を理解するよりも、動物のメスのほうがよっぽど想像がつき、共感や理解ができる」

とある。

うんうん、そうかも。

と心当たりのある女性は、ご一読されればさらに、痛快な気持ちになれるに違いない。



2009年11月25日(水) うたたねけしかす

(ねえ、ちょっと)

馬場さんが、秘めごとを打ち明けようとするときのように、わたしに耳を口元に寄せるよう手招いたのである。

少しだけドキリとしたわたしは、いやしかし何の打ち明け話だろう、と気を取り直して、言われるまま耳を寄せた。

(なんでしょう)
(あれ、何かしてくれないかしら)

振り向かず背中越しに指差したさきに、真綿にくるまるように、さぞ気持ちよさそうな顔で寝こけている甘木君の姿があった。

「ああ、沈没してますねぇ」

顔を上げて、わたしはぼそりとこぼした。

いろいろ、お疲れなんでしょう、と甘やかすことをいった途端、

「疲れていようと、周りの目も気にせず居眠りするなんて、許せない」

あいたたた。
そうきてくれたか。

わたしは、ぽんと額を打って嬉しい気持ちになる。

仕事中に人目のあるところで居眠りすることを、わたしは自身に関してだが、嫌悪感を持ち、忌むべきこととしている。

己への戒めである。

であるから、うたた寝に関しては敏感なのだが、他人様のことをとやかく言える体ではない。

居眠りしそうなら、トイレなり人目につかぬとこへゆき、十五分ほど寝て目を覚ましてくるべきである。

それができぬから居眠り、うたた寝というのだ、とのご意見もわかる。

しかし、だからといっていかなる理由があろうとも、他人は居眠りする姿を見てどう思うか。

「居眠りを見過ごすと、見過ごしたわたしが、怒られたものなんだけど」

馬場さんがため息をついた。

「ねえ。やっぱり、同性から注意されたほうがいいと思うからさ、お願い」

むむ、とわたしが甘木君を見やると、はわぁふ、といたってのんきな様子で起き上がる。

「今度の仕事、彼もいっしょにやるんだけれど、そしたら居眠りなんて机でさせないからね」

凛と決意表明をした馬場さんである。

馬場さんも、過酷な勤務の経歴を経てきたお方である。

派遣勤務ばかりが長い彼らの思う過酷とは、雲泥の、天と地の底ほどの違いがあるのである。

とはいえ、馬場さんが甘木君に憤っているのは、居眠りしつつ、周りの外部のひとびとに、暇なんですよお、と吹聴していることなのである。

なら、なんで居眠りなんかしてる。
暇だと外部にこぼすなんて、新会社の体面だってあるんだから。

といった次第であり、

「なんか、ふたりでこうるさい小姑(小舅)みたいになりそうですね」

ふふん、と小鼻とんがらせて、

「誰かがいわなくちゃいけないじゃない」

とまっとうな顔ですましてみせる。

「投げつけて居眠りを起こす用の消しゴムのカスを、こしらえておきましょうか」

微力ながらお力になろうとの誠意を示してみたが、あまり理解してはもらえなかったようである。



2009年11月22日(日) 「ハヅキさんのこと」

川上弘美著「ハヅキさんのこと」

今回の作品は、まさに、川上弘美作品らしい、作品である。

ふわふわとした、しかしどこかで揺るぎない揺らぎがあり、ほう、とため息をつかされてしまう。

そんな物語が、ひとつひとつは五分で読み終えてしまえるようなものが、みっしりと、ゆらゆらと、たくさん連ねられているのである。

まるで、綿あめ、のようなものである。

口当たりはやわらかく、たよりなく、しゅっと溶けてしまいそうなのに、舌の上で、しっかりと、よくもわるくも甘さが残る。

揺らがされてぼやあとされているようなのに、本質的な言霊のような何かが、胸の奥の、気持ちのまん中のところに、ストンと置き石のように、気づかぬうちに置かれてゆくのである。

稀有なる作家である。



さて。

やってしまった、のである。

何を、というと、自分の馬鹿さ加減に呆れるどころか、もはや、大したものだ、とさえ思えてしまうのである。

同じ本を、二冊、続けて、二種買っていたのである。

つまり、一週目にXとAを買い、二週目にYとBを買い、三週目にふたたびAとBを買っていたのである。

読もう、という記憶だけが残っているのである。いつそう思ったのかは、記憶に残っていないくせに、である。

まったく、手に負えない。



2009年11月21日(土) 「ガマの油」と大門を叩く

「ガマの油」

をギンレイにて。
役所広司初監督作品にして、主演もつとめている。

内容は、なかなかなんでもない、しかし、飽きずに観られる作品である。

役所広司と小林聡美の役者力によるもの、のように思うのが、肝なところである。

しかし、最後のあれは、いただけない。
あれではまるで「大霊界」ではないか。

忘れてはならないのが、名優・益岡徹の存在感である。



さて。

気づけば連休である。

連休なので、テレビを買い換えることにした。

21型ブラウン管テレビが、どうにも部屋のなかで、主以上の存在感をもって部屋を従えていたのである。

前の部屋はワンルームで今より狭く、そこでは部屋の片隅にすっぽりと、あくまでも部屋の一部として、殊勝にも主を待っていたのであった。

それが今は、部屋の隅にすっぽりと収めることができず、壁のまん中に、まさに部屋の顔たる顔をして、でんと構えるようになっていたのである。

わがもの顔、とはまさにこのことを言うのだろう。

増長などはなはだ勘違いもいいところである。
己の力ではないのだ。

しかし、いくら出る杭を打ったとしても、引っ込むものではない。

画面の上のほう、人間でいう額のあたりに、しわのような線が出るようになっていた。
以前はしばらくするとその線は消えていたのだが、近頃ではいつまでもなかなか消えなかったりしていた。

人間とおなじである。

そろそろ隠居の頃合いか、とおもんぱかり、引っ越しを期に買い換えを考えてはいたのである。

しかし、さきだつものがない。

画面は映らないわけではなく、べつに支障はない。

真友が以前きたときに好意でわたしのにつけてくれた淀橋のポイントは、部屋のガステーブルにつぎ込ませてもらって、ほとんどない。

であるから、淀橋をのぞいても、あれやこれやといろいろ陳列されている液晶の顔たちに、

「ひやかしなら、用はない」

と冷たい目で一瞥され、まるで相手にしてもらえないような、居心地の悪さを感じるばかりであった。

ではあるが、パソコンの画面から彼らを眺めるに関しては、彼らの一瞥の冷たい目も限度があり、こちらは寝そべってぐりぐり眺める余裕もある。

正直、どれがどうよいのか選別する知識など持ち合わせておらず、そんな自信のなさが、彼らの一瞥をさらに冷たく、厳しく感じさせたりしていたのやもしれない。



淀橋の画面に、安売りの紹介があったのである。

予算のギリギリ、ちょいと超えたくらいのものであった。

予算というのは、普通の方が液晶を買うときのように、十万弱、などという、わたしにとっては部屋よりも高額なものなどではない。

わたしにとって、三万を超えれば十分に高額であり、それは服や靴やパソコン、そして買う予定もつもりもまだまだ毛頭ないが自動車までも、種別や用途すべてをひっくるめて、皆等しく、おなじものさしで計っているのである。

予算をちょいと超えてはいるが、それは、陳列棚からわたしに向かって白目を向けるまではしていなかった顔のなかのひとつ、であった。

せいぜい、鼻白む、くらいのもので、いや、いうなれば、

「金でおとこの良し悪しを決めたりなんかするもんか。
その卑屈さがわっちの興を冷めさせるんだよ。
それがとれたらまたおいで。わっちはここであんたを待っててやるからさあ」

と、大門を背中を叩いて送り返されるかのようなもの、であったのである。

柳のとこで、振り返り。

吉原の柳ではないが、不忍池の柳のあたりで、振り返ったのである。

するとちょうど、前の部屋の礼金と敷金の残りが、振り込まれたのである。

果たして、意を決して門の扉を、ネズミを操ってカチリと叩いたのである。

奥ゆかしく、壁際にしゃなりともたれるようにして、わたしと向き合う姿は、なんだかまだ慣れず、気恥ずかしいこころもちになるが、悪いものではないのである。



2009年11月19日(木) わたくし率イン、はあ?

引っ越しの挨拶をしにお隣りさんを訪ねたとき、半開きの扉の向こうから、女性が「こんな恰好ですみません」と、そのくせ恥ずかしげな様子など見せもせず、それはごくふつうの服装に、コンビニくらいならそのまま出かけられるような身繕いだったからなのだろうからだけれど、決まり文句のようにわたしの「よろしくお願いします」との、何をよろしくなのかわからない、お前は「お味噌(醤油でも可)を切らしてしまったので、分けていただけますか」と、昭和の下町長家の風景でも再現するようなお隣付き合いでもするつもりか、と容赦ない指摘を受けるようなことを「よろしくお願い」する意味を、決して込めるわけでもなく、先方も、わたしの決まり文句に何の他意も含まれていないことを重々承知の上と判断して、ただ扉が閉まらないように、片手を突っ張るようにして支えていたその背後から、聴いたことのある音楽が、しかもわたしがなかなか好きな歌声が聴こえてきた。

「あ。YUI」

思わず声に出してしまった。
ええそうです、とはにかんで顔を伏せた隣人に、わたしは慌ててすぐに、余計な詮索をするつもりはないことを示さなければならないと思い、

「わたしも、好きなんです」

と告げてしまい、さらにややこしい解釈を産むようなことを口走ってしまったと瞬時に気づき、しかし、だからといってへたに取り繕おうとすれば、余計にどつぼにはまるだろうことは容易に想像がついたので、

「あ。すみません」

と、とくに何かに限定したものではなく、おしなべてあてはまるだろうことすべてを包括した意味で、すまないことをすますことにした。

すみません、とはなんと便利な言葉なんだろう、と今までもそう思っていたけれど、さらにさらに、その思いを反芻したのだったということをも、所詮は、勢いでくっついてきた「蛇足」であり、蛇の足よりも、尻尾にあたりそうな、そのうねうねとのたくるように、わたしの耳の奥のほうで音もなく、ひっそりととぐろを巻き上げていたそれは、まるっきり三半規管だかなんだかのように落ち着き払って鎮座ましましているようだった。

だから。

久しぶりにYUIを聴きびたることにした。





ただそれだけのことなのに、書店で川上未映子作品(エッセイだっただろうか)を立ち読みしたときの印象そのままに書き真似してみたらこのようになってしまった。

目下リハビリ中。

世間はまるっきり大蛇のようだ。



2009年11月16日(月) 「百鼠」とノラや

吉田篤弘著「百鼠」

「つむじ風食堂の夜」「それからはスープのことばかり考えて暮らした」の著者である。

題名から、妖怪や怪談、ひいてはミステリかと類推さるるかもしれないが、まったくもって違う。

なんともやさしい気持ちで読める物語である。

表題作を含めた三編の物語を収めた作品だが、その三編はなんと、三つの物語のそれぞれの序章であり、それだけを収めてしまったのだというのである。

それでも、なかなか、よい。

著者の描く人物たちは皆、指でつつくとやわらかいに違いない、とわかるほどに、やわらかくやさしく描かれているのである。

そして表題作である「百鼠」は、小説を書く立場からみてとても興味深い物語であった。

鼠といえども、それは我々が知る鼠のことではない。
「朗読鼠」と呼ばれ、小説を書こうとするときにその物語を作者に読み聞かせる者のことであり、神とも天使とも悪魔とも呼ばれることがあるという、天に存在する者のことである。

面白いのが、彼らはあくまでも「三人称で書かれる小説」に限定されており、彼らにとって「一人称」は禁句に近い、不要な、排除されたものとされているのである。

地上の作家が「三人称の小説」を書き始め、彼に物語を読み聞かせはじめるのだが、ふとある日に、「人称改めが起こった」と急報が入り、百鼠の彼は、「読み聞かせ方に、一人称を想起させるものがあったに違いない」と謹慎に処せられてしまうのである。

彼自身も、じつは一人称に惹かれるところがあり、一人称のヤミ小説をこっそり手に入れて読んでいたのである。

一人称の小説も、じつは三人称の世界。
自分が目覚める光景を描こうとすると、ベッドに寝ている自分の姿を描写する。
一人称ならば、目を開けて見えたもの、つまり決してベッドに寝ている自分の姿など見えるはずがないのに、それを描くということは。

つまり、一人称とは三人称が包括しているものではないか。

と思うのである。

しかし、そう簡単なことではない、と諭されるのであるが、いったいどう諭されるのかは、本作を読んでみてもらいたい。

わたしはおそらく、本作でいう「三人称の朗読鼠」には、お目にかかったことがない。

是非一度、お目にかかりたいものである。

三人称が「鼠」ならば、一人称は気ままで勝手な「猫」だろうか。

気まま過ぎて、ほとほと困ったものである。

百ケン先生の「ノラや」ではないが、縄張りをこえると帰ってこられぬくせに、ふらりとどこかへ行ってしまう。

ノラや。
いまいったいどこにいる。
無事か。
飢えてはいないか。
怪我させられてはいないか。
風が庭の木を揺らすたび、帰ってきたかと姿を探してしまう。
三カ月過ぎた今日も、新聞の尋ね人欄に広告を出した。
ああ、ノラや。
お前はいったいどこにいる。

といった次第である。

わたしも嘆いてみよう。

ああ、わたしのノラや……。



2009年11月15日(日) 上野動物園

本日、およそ四年振りに上野動物園の園内に入ってきたのである。

前や後ろや真ん中のすき間は、毎週、毎晩のように通っていたのだが、中に入るのは、一時期、上野駅前への抜け道代わりにと、年間入場券を手にしていたとき以来である。

木曜から本日まで、天皇陛下の二十周年祝賀ということで、入場料が無料だったのである。

昨日、電話でちょうど上野動物園の話をしたところであったので、まさに入ってみなければなるまい、と意を決したのである。

我が家は徒歩十分とかからず、西園つまり不忍池口まで至り、当然そちらから東園つまり上野駅側の正門へと向かうことになる。

西園には「こども動物園」があり、動物たちとじかに触れ合えるのである。

そこでとあるやぎのブロマイドでも撮影しようと、しゃがみ込み、狙いを定めていたのである。

すると。

何やらあたたかいものがわたしの空いている腕のあたりをつかみ、はなさず、ムシャムシャとはんでいるような感触に襲われたのである。

えい、シャッターを切るまでちと待たれい。
次にお前を撮ってやる。

と、写真職業家の誇りを気取り、不動のていを保っていたのであるが、内心の本心では、よだれでべっとりにされてはかなわない、と恐々としていたのである。

「ほら。あ、すみません」

シャッターを切り終えたわたしが振り向くより早く、女性の声がしたのである。

やっと振り向くと、やぎやひつじがはんでいたのではなく、おとこのこが、わたしのシャツを掴んで、わたしが撮影していたやぎを見ていたのである。

いえいえどうも、と何がどうもなのかわからないが、楚々とわたしは立ち去った。

こどもの体温とは、かくもあたたかいものである、と久しぶりに思い出したのである。



誤解してはならない。
わたしにこどもはおらず、かつて別れたなどということもない。
友人らの子らを抱えたりしたときのことを思い出しただけである。



さて、頭上をモノレールが過ぎるのを見上げながら、東園へ渡る。

猿山で猿たちを冷やかし、ぞうの群れを横目に過ぎて、ライオンの昼寝を妨げぬよう背後を通り抜ける。

我が干支でもあるトラにご挨拶とねぎらいの言葉を、ぜひとも掛けなければならない。

年の瀬も迫り、年賀状に引っ張りだこの大忙しのはずでまいっているのではなかろうか、とのわたしなりの気遣いである。

群がる観衆の前を、しかもいつも以上の大観衆の面前を、いったりきたりと忙しくしていたのである。

まさに、

東奔西走。
右往左往。

わたしはソフトクリームのバニラをひとりねぶりながら、涼やかな顔で園を後にしたのである。

動物園は、ひとも含めて生き物のにおいが濃く立ち込め、いいものである。



2009年11月11日(水) 「真鶴」と真っ直ぐな思い

川上弘美著「真鶴」

戸惑いました。

夫が、三歳になるかならないかのひとり娘と妻を残して、突然の謎の失踪。
残された妻が、それ以降の日々を過ごしてきたなかで、ついたりはなれたりするあやしげな存在の女との関係が、夫の失踪の理由を知る手掛かりだと思い、そしてやがて。



この作品。

これまでの川上作品に対して、わたしは「濃さ」や下腹の奥のところに溜まった澱のような、なまあたたかくて重たいようで、ドロリとしているようでさらりとすり抜けてしまうような感覚を、意識していました。

そこには「おそろしさ」のようなものはなく、なんとも不思議な感覚だけがあったのが、この作品は、違いました。

「おそろしさ」というより、

「うすら寒さ」

です。

主人公の京(けい)が、日々感じること。

それは、

娘の成長を、母として年月を経てゆく自分を、失踪した夫を求めつづける妻である自分を、女である自分を、

うすら寒さに鳥肌がたつほど、まっすぐな感情、それはおそらく、本来ならば母として女としてほめられるはずがないけれど、それだけ感覚に直結した思いが、つづられています。

女性が、とくに結婚している、子どももいる女性がこの作品を読んだら、どう感じるのか。

共感するのか。
嫌悪するのか。

読んで損はない作品だと、思うけれど。



2009年11月03日(火) 「愛を読むひと」

「愛を読むひと」

をギンレイにて。

主演のケイト・ウィンスレットが、素敵です。

そして、ひとえにこの作品。

とても、
歯がゆく、
切なく、
じれったく、

悲しさがにじみ出てきてしまいます。

ハンナと出会ったマイケルはまだ十五歳で、年上の女性に恋い焦がれ、そして結ばれます。

ハンナの、まさかこんな年下の、女を知らなかった少年を本気で愛してしまうなんて、というプライドのようなものが、また愛しく垣間見させるのです。

彼女は、マイケルに朗読してもらうことが好きでした。

彼女は、当時大戦後の御時世で、さらにゲルマン民族として、実は文盲だったのです。

しかしそれを、最大の恥として、誰にも知られぬよう生きてきたのです。

電車の切符切りでの真摯な仕事ぶりが認められ、昇進として事務職が決まると、文盲を知られてしまうことを恐れ、辞めてしまうほどでした。

そして彼女は、SSのアウシュビッツの看守という仕事につくことになります。

裁判で、彼女は囚人たちを責任者として書類にサインしたとされ、無期懲役を言い渡されます。

その裁判の傍聴席には、 法科学生としてマイケルがいたのです。

ハンナが書類など読めるはずがない。

レストランのメニューすら読めなかったことを、ハンナはマイケルにも気づかれないよう誤魔化していたことを思い出し、文盲だったことに気付いてしまうのです。

しかしマイケルは、その事実の立証をハンナのためにすることを選びませんでした。

朗読したテープをハンナに送り続けます。

そしてハンナは、テープを聴きながら、字の読み書きを覚えてゆくのです。

初めてマイケルにハンナが書いたたどたどしく、たった一行の手紙が送られるのです。

「あなただったのね、坊や?」

マイケルと一緒になって、泣きそうになりました。

しかし、しかししかし。

歯がゆい、
じれったい、
切ない、

ふたりの関係が、、、

是非、観てみてください。


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