「隙 間」

2009年12月31日(木) 「妖怪アパート〜」かなった願い

香月日輪著「妖怪アパートの優雅な日常 1」

これは、なかなかおもしろあたたかいシリーズ作品である。

事故で両親を一度に失った夕士は、伯父のところに居候して中学に通っていた。
やさしく迎えてくれているはいいが、夕士は居心地の悪さと共に「ひとりで生きてゆく」と寮のある商業高校へと進学する。

しかし入学を前に寮が焼失してしまい、とある不動産屋に紹介された格安の「いわくつきアパート」に、寮が再建されるまで暮らすことにする。

「でるんだよ、アレが」

の言葉通り、どころか、平気で怪しげなモノたちが、暮らしているのである。

人間の住民も、あやしげな詩人や画家や、はたまた霊能力者の少女だったりと、なじんで共存しているアパートだったのである。

共同浴場は地下に広々とあり、様々なあやしげなモノたちがいっしょに湯に浸かりにくる。

まかない付、のまかないを作っているのは、手首から先しかない「るり子」さん。

このるり子さんが作る料理がたまらなく、美味い。

ほめると、もじもじと指先をからめてこねくりながら、嬉しそうに照れる。

もう。
たまらない。

わたしはよほど、美味い手料理に餓えているとみえる。

あやしげ、妖怪、とはいっても、目から光線が出たり、ドタバタと格闘するような場面は、ない。

講談社「虫師」のような物語を漂わせる。

おどろおどろしさも、微塵も、ないのである。

なかなかよいシリーズ作品を、見つけた。

単行本で十巻ちかく出ているらしく、徐々に文庫化もしているようである。

さて。

大晦日である。

寝ても覚めても、大晦日である。
いや。
寝て覚めてしまったら正月になってしまう。

今年は、年始に掛けた願掛けが、気づけばかなってしまった年であった。

よかったではないか、と思われるかもしれないが、素直にそううなずけないのである。

何はともあれ、「小説で受賞」が一番であった。

それ以外は、なんも、いらんです。
金も女も喜びも幸せも。

神田大明神に、そう願を掛けたところ、むむ、と大明神が怯む姿が浮かんだのである。

それが難しいなら。

それを受け入れ見守ってそばに居てくれるひとを。

うむむむ。
まだ口がへの字のようである。

わかりました。
それなら、そうなれるまで食いつないで時間稼ぎができるように、定職に就く、でもよいですよと。

一番、カンタンなのを、かなえてくださりましましたようでそうろう。

さてそうなると、来年に繰り越しの願掛けふたつのうち、どちらをかなえようとしてくださるのか楽しみである。

あ、いや。
一番のは、自力でやらねば意味がないので、もうひとつのほうだけに集中していただければありがたい。

夢はみるもの、追いかけ、背負ってゆくものである。
願いは掛けたのち、かなえるものであり、かなえてもらうものではないのである。

さてさて。

こんな素直でないわたしだが、影に日向にお付き合いくださる皆様に、あらためて深く、感謝したい。

いやいやそんな、と思われた方。

来年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。



2009年12月29日(火) 「南極料理人」いとおしいものたち

「南極料理人」

をギンレイにて。
今年の映画の見納めです。

ロードショー当時に観た作品です。
二度目です。
それでも、やはり、

素晴らしい作品

です。

男はやはり、バカで単純でいとおしいもの、です。

ご家族で、この年末年始の休みに、ご覧いただきたい作品です。

「お母さんが最近、元気がありません。どうしたらいいでしょうか?」

との子どもからの質問に、

「じゃあ、お母さんのために、料理をつくってあげなよ」

と答えます。
「は?」と眉間にしわを寄せる子どもに、こう続けます。

「美味しいご飯を食べると、元気になれるでしょ?」

名言です。

自炊を復活させてふた月が経とうとしてます。

篠原美也子さんのPod castの中で、

自分のためにだけ作るのと、誰かのために作るのでは、全然、違う。

とありました。

ええ。
わたしは自分のためだけの料理です。

具材の切り方なんか、包丁に聞いてくれ。
作る量なんか、鍋やフライパン任せ。
味付けなんか、とりあえず入れるものは入れて、量が量なだけに、大さじ何杯かしらんがこんだけ入れとこか、と神の舌任せ。

一度に、二三日分まとめて作りますから。

それでも。

お、お?

と思わず眉が上がるときかあります。

しかしそれは、あくまでも自分のためだけの作り方だから、ひとりほくそ笑むだけです。

「南極料理人」を観ると、とても、誰かと食卓を囲むことのいとおしさを、味わえます。

とにかく、とても、いとおしい気持ちになります。

「ああ……。渋谷とか、行きてえ」

この言葉が胸に突き刺さる場面も、見逃せません。

三十分で行けてしまうわたしには、とても切なく響きました。

いとおしい男たちへ、愛を。

そして、そんな男たちのそばにいてくれる女たちに、感謝を。



2009年12月25日(金) Christmas bells are...

(on street)
Christmas bells are ringing!
Christmas bells are ringing!
Somewhere els...
Not here...

「You OKay honey?」

エンジェルが舞い降りてきてくれないものでしょうか。

「コートは奪われても、袖だけ守りきったぞ」

と片手を掲げるような事態もなく。

二階の部屋に引っ越したおかげで、プレゼントをくれるのではなく奪ってゆくサンタさんがやってくる気配もなく。

白雪舞うホワイトクリスマスならぬ、指紋検出のアルミ粉舞い散るシルバークリスマスを迎えるようなこともなく。

だから背中に「下谷警察」と書いた面々を部屋に呼び寄せてにぎやかしく夜を過ごす、なんてこともなく。

「RENT」のcompanyらを思いながら、静かに過ごしたりしているわけです。

ライフカフェにゆけば、マークたちや、もしかするとベニーがアリソンと食事をしてるかもしれません。

よし、ゆこう。

……というわけで、大森です。

「やあやあ、いらっしゃい」

にこやかにイ氏が迎えて、チョンと脇にケイちゃんが控える。

休み中の分ね、とすらすらペンで書き付け、

「村山由佳の話をしてたんだよね」

先週のことをさすが覚えており、わたしは村山由佳に関してさほど、いやほとんど広げる風呂敷がなく、さてどうしようか、とあやふやな顔で、「そうです」と答える。

「読んだのを本屋に持っていったらさ、百五十円にしかならなかったよ」

新品の千五、六百円の単行本が、である。

馬鹿らしいよねえ。

クシャっと笑い、ところで、と続ける。

「いつ出版するの」

藪から棒。
青天の霹靂。
突撃、となりの晩ご飯。

である。

へどもどしてケイちゃんに助けを求めようと見つめてみるが、彼女はもとより何のことだかよくわからず、カーデガンのすそを直したりしていて、はたと目が交差したが、なんでしょう、とぱちりとひとつふたつまたたく。

唖唖と、ぱくぱくしているわたしに、イ氏は「ふくとくの旦那とおなじかい」と。

意味がわからず、あんぐりしているわたしに、さらに続ける。

高座のひとつだよ。

ああ、とうなずきはしたが、あらすじを知らない。
どんな噺でしょうか。
若旦那が漁師になって隅田川の真ん中で立ち往生しちゃう話だよ。
ほほう。

つまりは、

「筆が進んでない」

ということを暗に聞いてみたらしい。

わたしは河童じゃないですけど、流されっぱなしです。
書いちゃあいるんですけどね。

楽しみに待ってるんだから、早くね。

ええ、まあそれはもちろん、そうなるばかりを我がことながら願ってますけれど。

「お正月はどこかゆくのかな」

実家に帰るだけです、と答えると、それじゃあ、

「お父さんによろしくね」

よろしく、ですか。
はあ、まあ、と答えると、

わはは、と笑う。
わはは、とわたしも笑う。
笑いながらも、片足が陸地にしかと着いていると、なかなかもう片方の足に重心を寄せようとはしなくなることを思う。

Do'nt breathe too deep.
Do'nt think all day.
Diving to work.
Drive the other way...

Let's open up ristrante Santa Fe.
Sunny Santa Fe would be nice!

Do you know the way?

プレーリードッグが待つ彼の地には、まだまだゆくつもりはない。

しかし魅力を感じなくもないのである。

「本年もお世話になりました」

それでは、とイ氏らに挨拶をする。

Christmas bells are ringing...
Christmas bells are ringing...

Somewhere els...



2009年12月17日(木) おおわらわに訪ねる

年末休みも近づき、そして忙しさの波もいつうねりがくるのか読めぬこともあり、ゆけるときに「大森」である。

「村山由佳って、知ってる」

イ氏の開口一番である。
村山由佳といえば、たしか、何樫の美味しい珈琲の淹れ方などといったシリーズ作品があったり、女性人気小説の作家のひとりである。

「山本文緒は、どう」

たしか「プラナリア」だったか、それを読んだことがある。
さて、そこからイ氏はどこへ話を飛ばしてゆこうとしているのか、なかなか興味津々である。

「桜庭一樹は、けっこうお勧めだね」

すっかり気に入っちゃってますね。

「なかなか面白いよ」

少女の心理を主に描いていたのが、大人の心理を描くのもなかなか、よいらしい。

「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」を読んだが、たしかになるほど少女の物語ながら読みやすく、読まされ、読み終わらされてしまった記憶がある。

直木賞をとった「夜の男」が文庫になったら、是非読みたいと思う。

思うが、まだまだ文庫にならないので、当分、いやしばらくは別の作品でも読んでみようかと、思うのである。

「だけどさあ、なんで」

なんで女性作家の性表現は、的がはずれてるんだろうね、とイ氏は大きくかむりをふったのである。

なるほど、いかにも仕方がない。

これは甘木小説家が語っていたことでもある。

男が性表現に求めるものは、具体性であり、実際の名称や段取りや段階や反応を、実際的に求める。
しかし女は違う。具体性などを持ち出したら、ひといきに引き下がってしまう。
現実や実際なものなどは求めてなく、抽象的な感覚や観念的なものを求める。

「なんでも、型通り、というか、そうしときゃいいんでしょ、的なものばっか、だよね」

呆れ顔で笑うイ氏に、性に没頭するのに余計な脳みそは使いたくないでしょうから、型通りやお約束も仕方ないのかもしれませんねえ、とうなずく。

「今日はねえ」

入院予約したひとがたくさんいるのに、ひとりもまだきてないんだよ、と首を傾げる。

スタッフもたくさん準備して待ってるってのに。

入院といっても、大それたものではない。

睡眠ポリグラフィという、睡眠の様子をはかる検査のことであり、睡眠なので泊まり込みで検査をすることになるのである。

実はこの検査のための入院予約が、通常、三ヶ月からへたをすると半年待ちになる、といわれているのである。

検査施設が整ったところが少ない、というのが大きな理由なのだろう。

「いやあ、それでね」

話にでた作家の作品やらを検索してひやかしながら、これはこうで、あらそうなんですか、とひとしきり盛り上がる。

「あっ」

イ氏が面を上げ、慌てた顔になったのである。

ありゃりゃ。

待合の様子を映す画面を見上げ、

たくさん、きちゃってる。

「せっかく、話が」

いいところなのに。
残念だなあ。

そろって腰を上げたが、わたしが室を出てゆく機をなかなかつかませないように、あ、それでね、と尾を引っ張る。

ああ限界だ。
スタッフに怒られちゃう。
ごめんごめん。

わたしと、室の外でおおわらわになっているスタッフに向かって、頭をかく。

待合室の受付はおおわらわで、わたしもすこしばかり罪悪感にとらわれた。

すみません。
いつも通りに話し込んじゃって。

口にだすとかえってひんしゅくをかいそうなので、胸のうちでそっと頭を下げる。

次回、年末の挨拶をするときに、馴染みの方々がいるとよいのだが、それはそれで運とご縁次第であろう。



2009年12月10日(木) ひとのカタチ

「ごめん。今ドコまできてる?」

地下鉄から地上に出て、目的地に向かって歩き出したときに、姉からの留守電が届いた。

「教えた時間が実は出棺の時間だったの。
それも十分くらい早まりそうで。
ごめん、間に合いそう?
タクシーでもつかまえて、急いできて」

お別れができなくなっちゃう、とのしぼんで消えてしまいそうな姉の声は置いといて、わたしはただちにあたりを見回した。

タクシーの姿など、一台も見かけなかったし見当たらない。

このまま歩いても十分弱、時間の十五分前に着くようにきているから、ギリギリ、間に合う、はず。

母方の祖母が、亡くなった。

母がすでに他界しているので、それ以降は縁遠くなっていた。

しかし母が健在のころに祖母が倒れて入院し、そのまま施設代わりに病院に入ってからも、姉が、他界した母の代わりにたびたびお見舞いに顔を出し続けていた。

痴呆がはじまり、お見舞いや世話をしてくれているひとが誰かわかっているのかはたからはあやしく見えても、受け答えはしっかりしていた、らしい。

最後にわたしが祖母に会ったのは、母が他界したとき、それを祖母に、やはり伝えておくべきだろう、と家族三人でお見舞いにいったときだった。

八年ほど前。

あらあらまあ。

と驚いた顔に見えたのは、わたしのひいき、だったのかもしれない。

もちろん、何年もずっと会っていなかったのだから名前など出てくるはずがない。

ああそう。
ああ、そう。

と、突然訪れたわたしたちに相づちを繰り返すだけだった。

結局、母が他界したことは、祖母が理解できるのかわからないし、すぐに「疲れてきたらしいから」との看護士の中断もあり、伝えられなかった。

「機会をみて伝えてみるから」

との週一日交代で見舞いにきている伯母叔父にお願いすることにして、わたしたちは退散していた。



日曜日。
わたしは、ちくちくと靴下の穴を繕っていた。
わたしの裁縫箱は、小学校の家庭科で購入した「裁縫セット」を、そのままこの年齢まで使い続けている。

祖母がまだまだ健在で、月に一回、我が家に訪れていたころのある日。

わたしの裁縫セットを借りて何やら繕ったあと、針山のフェルト生地の表面に、まち針、縫い針(短)、縫い針(長)、と整理して分けて刺しておくように小さく書いてあるのを目を細めて、

「これじゃ、読みづらい」

と、やおらマジックで書き書きと書き直してしまった。

目の前でぱちくりと唖然とした顔のわたし(当時は祖母がお小遣いをくれるのが楽しみで外にすぐに遊びにはゆかずに、しばらく待っていた)をみて、

「あらあら、余計なことをしてからに、て顔をして」

おほほ、と笑っていた。

男子だから授業以外で裁縫セットなんかめったに使わず、だから、きれいな状態のものはきれいなまま、でいたかった。

それを、フェルトを針先で毛羽立ててプリントされた文字やらを曖昧にし、マジックでしっかりと仕切り線をひかれてしまったのである。

「べつにいいけどぉ」

お小遣いのために、くちびるを強くとんがらせて、ぼそっとつぶやき、すこしふてくされるだけでわたしは我慢した。

ああそうか。
たしかわたしが小学五年生のころだったかもしれない。

そのときの祖母の顔が、何故か頭に浮かんだ。



月曜日の夕方。
姉から、

「おばあちゃんが、亡くなったって」

混乱気味の連絡があった。
式の日取りがわかり次第、すぐに連絡をくれるように頼んだ。



そして今日。



花に囲まれた祖母の顔は、日曜日にわたしに笑ったときの顔と、まったく同じだった。

悲しくなるべきはずなのに、不謹慎だと慎み、粛々と最期の別れを涙で告げるべきはずなのに、なぜか、うれしかった。



「最近、こないねえ」

見舞いに母がこなくなって、祖母がそう言っていたらしい。

今日、伯母の口から聞いた。

はっきりと伝えてなかったらしいが、祖母はおそらく、薄々感じ取っていたんじゃないか。

これも伯母の話。

「うちにこないか、て言っても、おばあちゃんはことわった」

父の話。

「そうしてたら、母さんと一緒に暮らしてたら」

どうだったのだろう。

うちにはばあちゃんがいて、朝は浪曲だか詩吟だかを吟じたりするのを、

「もう。朝からうるさくてやんなっちゃうぜ」

とか、煙たがってみたりしたのかもしれない。



交差点の信号がにじんで点滅しても、慌て走ったりしない。

「また余計なことしてからに、て顔をして」

おほほ、と笑う祖母を、フェルト地の針山をみるたびに思い出すのだから。

もういい加減、すっかり、ふてくされてもくちびるをとんがらせたりしない大人、ですからね。

たまに、ちくちくとマジックの線引き通りに針を針山に戻しながら、つぶやいてみる。

「あなたじゃなく、お嫁さんに戻してもらうようになるのはいつになるの?」

ばあちゃん。
それは言わない約束、てことで……。



2009年12月09日(水) 「小学五年生」

重松清著「小学五年生」

「人生で大事なものは、
みんな、
この季節にあった」

帯の惹句。

重松さんは、やはり素晴らしい。
様々な小学五年生を主人公に、十七篇の物語が描かれている。

「大人」じゃあなく、「子ども」と言われるとなんだか不機嫌な気持ちになる微妙な年頃。

自分が小学五年生だったころと、今の小学五年生では、文化や時代が全然違う。

だけど、
それでもやっぱり、
小学五年生というものはおなじ。

単純で、複雑で、
強がりで、弱虫で、
子どもで、やっぱり子どもで。

誰しもが自分のなかに、小学五年生の自分がいて、今の自分がいて。

大人の事情も、ぼんやりと意味はわからなくてもわかってる気になったり。

だけどやっぱり、「大人の事情」より自分たちの「子どもの事情」のほうが重要で大切だったり。

「孤独」や「死」を、大真面目で考えたりして、親や周りの愛に包まれてそんな心配をする必要がないのに、きゅうっと胸が痛く苦しくなったりしたり。

好きな子に素直に好きと表現できないくせに、前に立つと顔が真っ赤になって、心臓が耳から飛び出しそうな音を出して、わかりやすいほどあからさまになっていたり。

親には内緒の秘密ができて、なんだか無性に、自分が大人になった気になって、恥ずかしいくらいドキドキしたり。

皆さんの小学五年生は、どんな小学五年生でしたか?



2009年12月06日(日) 筋肉痛と嵐

ひとは、深呼吸だけで腰痛(筋肉痛)になれる。

はじめは、ほんの出来心だった。

最近、めいっぱいの深呼吸をしていないな、と思い出した。
体操やらでやるようなきちんとした、由緒正しい深呼吸ではなく、胸に、腹に、ただめいっぱい息を吸いこみ、そして吐きだすだけのもの。

力まず、胸に、横隔膜を意識して、それをよいしょと持ち上げるようにしながら、すううと吸いこむ。

どこかで限界になり、そこでいったん止めて、横隔膜は吊り上げたまま今度は引っ張り上げるようにして、また吸いこむ。

漏れるのはべつにして、まだ吐いてはいない。

吸うのもすぐに限度がくるが、そこからまだまだ吸うのである。

す、す、す、と三つ無理やり押しこむように吸い、ふ、ふ、と二つ吐く。
それを繰り返して、ひたすら胸いっぱいに吸いこむ。

限界の限度の三歩ほどさきに踏み込んだあたりで、はあああ、と吐きだしてゆく。

そのときはもちろん、力を抜いて、含胸抜背、肩や背中のうしろから、ふうう、ふう、ふう、と、吐きだしてゆくのだが、すぐにしぼりだすように吐きだすのではない。
漏れだしてゆくのにまかせるように、そしてそれから、ようやく、はああ、はあ、はあ、としぼりだす。

これをやってみると、いかに息のしかたを、ふだんおろそかにしていたかがわかる。

そして、丹念に持ち上げられたり、押し広げられたり、緊張させられたりしているからだの内部が、なかなか気持ちよいのである。

体中が、手と手を取り合って喜んでいる。

そんな満たされた感覚を、たんと味わい、それはもちろん、胸式呼吸と腹式呼吸のりょうほうを、歩きながらくり返し、帰ったのである。

その結果が腰痛であるとは、なんとも、なさけなさを通り越して、おかしい。

さて、そんな風変わりな痛みを抱えたわたしだが、それはそれで姿勢が、なかば強制的ではあるがよくなり、動作も、おずおずとなるのは必然である。

「どうされたんですか」

いつもの週末お世話になっている水道橋のカフェの、いい加減顔馴染みになり、なつっこい性格の店員がわたしに訊ねてきた。

いや、ちょっと腰痛が。

「だいじょうぶですか。たいへんですね」

店内は、もの凄い女性の客の数で、膨れ上がっていた。

「コンサートがあって、もう、たいへんです。混んでてすみません」

嵐のコンサートがドームであるらしく、ついさきほども、櫻井翔の顔のうちわと「今晩は」をしたところでもあったのである。

「ごゆっくりしていってください」

笑顔で受け答えしあったのであるが、席に座るのもひと苦労である。

椅子の間をすり抜け、身をよじるのが、つらい。

しかし。

からだいっぱいに呼吸すると、いわゆる「気」のようなものが満ちてゆくような、しかと感じるのである。

実際は「気」などではなく、たんなる筋肉の動きに過ぎないのだが、それでも、なかなか味わえないものである。



2009年12月05日(土) 「フィンガーボウルの話のつづき」と「サンシャイン・クリーニング」

吉田篤弘著「フィンガーボウルの話のつづき」

ついつい手にとってしまう作家のひとりに、吉田篤弘がなってきたようである。

世界のはてにある食堂。

その物語を書きたい、と筆を握るがまったく、ぴくりとも筆先は動かない。
筆を握っていないときには、ちらちらと物語のしっぽがみえるのに、すわと筆を握った途端、たちまち消え失せてしまう。

そうして書きあぐねているときに、ひとりの不思議な作家のことを知り、彼のことを調べはじめる。

未完の物語ばかりを残し消息不明になった作家、ジュールズ・バーン。

彼の物語とビートルズの「ホワイト・アルバム」の関係に気づき、やがて彼は、ようやく物語を書きはじめる。

ビートルズの「ホワイト・アルバム」にちなんで、各編にシリアルナンバーが打たれている短編が十幾つ収められている。

ひと言でいうならば、やさしく不思議な物語たちである。

わたしはビートルズを、まともに聴いたことが、ない。

ビートルズなら、いやいや、シナトラであろう。

という、ややひねくれたものの見方をしているのである。

しかし、ここらでひとつ、そろそろ聴いてみるべきときのように思ってきた。

さて。

「サンシャイン・クリーニング」

をギンレイにて。

本作品は、働く女性の応援歌、のようなうたい文句がつけられていたが、シャンテ・シネで予告編をみかけたとき、

これはできるなら観ておきたい。

と思った作品だったのである。

さすが、わたしの嗜好にぴたりとあったギンレイである。

シングルマザーのローズは妹のノラとクリーニング会社を一念発起で立ち上げる。

ただのクリーニングではない。
事件事故現場の跡をきれいにする仕事である。

ローズは高校時代チアリーディングのエースであり、アメフト部のエースと付き合っていた、いわば勝ち組だった。

しかし、エースはチームメイトと結婚し、ローズとは今でも不倫関係をずるずる続けていた。

彼女たちを見返してやりたい。

そんな意地があった。
妹のノラは、何をやっても長続きしないフリーター。

「姉さんはもう、わたしの世話まで焼かなくていいから」

姉妹の深い愛を感じさせられたり、女の弱さと強さは紙一重だとうなずかされたり、なかなか明るく爽やかに、こころを洗い流してくれる作品である。


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