「隙 間」

2009年09月30日(水) 「歌行灯・高野聖」と「?」

泉鏡花著「歌行灯・高野聖」

挫折せず、一応、終わりまで読んだ。
読みはしたが、頭にほとんど入っていない気がして、いたく心もとない気持ちである。

挫折はせぬが、脱線転覆は何度となく、 存分にしてしまった。
つまり、幾度となく、意識がとんだということである。

これは決して、感動して、感極まってのことではない。

泉鏡花の文は音がよい。

とか、どこかで聞いたか見たかしたのだが、わたしには合わなかったらしい。

やはり、もっと妖しのでてくる作品を選んで読めばよかったと、襟を正す心意気でいっぱいである。

さて、一方でそんな神経衰弱になっていたものだから、思うがままにできることの清々しさや、軽快さや、奔放さを、己で書くほうで実感することができるというものである。

しかし、そこでまた、はたと立ち止まってしまいそうになったのである。

わたしはなるべく、「……」や、「!」や、「?」などを使わないよう、気をつけている。

それは「作品」に限ってのことであり、ここやそこのことは範疇ではないことを先に申しておこう。

使ってはならないわけではない。

しかし、それらはとても「便利」なものであり、便利なものだからわたしは際限なく使ってしまうのである。

とくに「?」をつければ疑問であったり、確認であったり、すぐに判別がつく。

「?」をつけずに、同じ文でその使い分けができるようであらねばならない。

それはもちろん前後の文の脈絡によるのだが、なかなか難しいのである。

ついつい、使いたくなってしまうのである。
使いたいが使わぬようにしたい。

「いたい」と「したい」の葛藤である。

なかなか決着がつかず、けっきょく持ち越しとなってしまい、止まってしまうのである。

つまらない意地ってやつ?

いかん。
油断して思わず使ってしまった。

つまらない意地というやつである。

べつに、いいんじゃない?

まただ。

べつに、よいのかもしれない。

しかし「よい」としたままでは、際限なく使ってしまい、「?」などに頼りきった文しか書けなくなってしまうのは目に見えているのである。

それは、避けなければならない。



2009年09月27日(日) 放水、放心、猛省

わたしの部屋の目と鼻の先、根津神社表参道に続く藍染通りは、町の催し場としてよく使われている。

不忍通りに直交するも車の出入りは少なく、土日は車両進入禁止となるため、面するお宅のなかには、子供プールを出し、レジャーシートを広げ、バーベキューなぞをして過ごしていたりする。

そこにはご近所の似た年頃のお子さんをもつご家族が加わっているようである。

その向かいには、アイス最中で有名な「芋甚」に列をなす訪問者たちがいたりするのである。

その藍染通りを通りがかると、凛々しく響く女性の声が聞こえたのである。

「女性消防団。放水訓練、はじめっ」

背中に東京消防庁の文字を背負い、勇ましく、また凛々しい顔で、ぱっぱと構え、きびきびと動く。

男性の訓練する光景なら何度も見ていたが、女性消防団、ははじめてであった。

消防団であるから、ふだんは店の看板娘であったり、会社の華であったり、母親であったりするのだろう。

そんな当たり前のことが、ここにある。

さてその足で湯島を抜けて通りを歩いてゆく。

この通りは下に地下鉄千代田線が走っており、ところどころに換気口が歩道にある。

細目のグレーチング蓋なので、それを気にせず上をつかつかと歩くのだが、地下鉄が通る度、風が吹き出すのである。

マリリン・モンローが世界でおそらく最も有名な、かの名シーンを真似ることができるのである。

吹き上げる風の上に立ち、なびき上がるドレススカートを艶っぽく、悪戯っぽい顔と仕草で押さえる、それである。

わたしは男であり、ズボンを履いているので、幸にも不幸にもそんな艶だののエロティシズムとは無縁であり、それに相応しくつかつかと歩いていたのである。

と。

ごおお、という音と共に、風が足下から吹き出してきたのである。

羽織っているシャツのすそがバタバタと暴れ出し、おお涼やか、となすままにしていたのだが、その内の肌着のシャツまでもが、パタパタと膨れ上がって暴れ出したのである。

快適快適、と油断していたのである。

わたしはシャツをズボンに入れていない。
もっと寒かったり、冬であれば、しっかり入れていただろう。

しかし、まだである。

ぶあっ。

そのシャツのすそが勢いよく、万歳をしてめくり上がったのである。

恥ずかしくもふてぶてしい腹が、むき出しになる。

それくらいなんのその。
気にすまい。

むしろ歓迎しようと手を広げようとしたとき、向かいにすれ違おうと歩いてきていた女性がいたのである。

目が合わない。
しかと、伏せている。

頑なまでのその様子は、間違いない。

わたしのあられもない恥ずかしい腹を、おそらくそこに黒点を打っているヘソまでをも、見てしまったに違いない。

広げかけた両手で、慌てて両方のシャツのすそを押さえ込み、抱え込む。

お見苦しいものを、
どうもすいません。

無言で頭を下げてすれ違う。

東京の、地下鉄の走る通りにお越しの際は、男女問わずお気をつけいただきたい、と深く、真摯に、切に思ったのである。



2009年09月25日(金) 霧中が故に

懲りずにまた「RENT」にかかずらわった話で恐縮だが、頭から、耳から離れないのだから、やむなく触れざるを得ないものとご勘弁願いたい。

何故、耳から離れないのか。

インターネットの無料辞典などによると、「RENT」のすべての曲は、監督、脚本、すべてをつとめた故ジョナサン・ラーソンによって作られている。

そして、

それぞれの歌詞は各行ごとに韻を踏んでおり、これほどのものは他に類をみないらしい。

その曲も多岐にわたり、
ロック、ポップス、バラード、リズム、タンゴ、ブルース、ゴスペルなど、

それらのすべてが、心地良く耳に響き、残ってゆくのである。

わたしはかつて、こう云われたことがある。

「ページを開いて、その文章のレイアウト自体がデザインに見えるようなものを書いてみたらどうでしょうか」

宮沢賢治の、あの、魂の揺らぎだかうねりを表した、と云われる某散文詩のようなことである。

製本云々のレベルではなく、ただひたすら「四百字詰原稿用紙換算」で何文字、何百枚、のレベルであるから、レイアウト云々など主張できるはずもない。

であるから、かの言葉は頭の奥にしまいっぱなしにしていた。

見た目のそれはできないが、韻に拠ることはできる。

韻といっても、字面の通りの「音」に拠るものではない。

意味、背景、など見えないものに拠る、隠喩、暗喩、の類いのものである。

まだ単なる思いつき(しかも竹の独り言の類い)であるので、とらえようがない山奥の白霧のような状態である。

やがて雲になり、雨垂れとなって我が身に降り染みるようになるまでは、まさに五里霧中であがくしかないのである。

ひとつを、ひとつでとらえてはならない。

短絡的にひとつでとらえてしまえば、それはただのひとつにしかなりえないのである。



2009年09月24日(木) 「それからはスープのことばかり考えて暮らした」

吉田篤弘著「それからはスープのことばかり考えて暮らした」

ほお。
これは、いい。

本当に美味しいものは、
「美味しい」とか、
「美味い」だとか、

そんな言葉を云うより早く、

「ほお」だとか、
「おおっ」とか、

感嘆が口から飛び出す。

「つむじかぜ食堂の夜」に続く、「月舟町三部作」の第二作品目です。

本当に、あたたかいスープをひと口すすって、ほお、と美味しい息をはいて、湯気がたゆたうのをぼんやり眺めながら、身体の芯が「ほっこり」とあたたかく満たされてゆくような、作品です。

オーリィ(大里)は会社を辞め、日がな近所の映画館の月舟シネマに通い始める。
その途中で出会ったパン屋「トロワ」のサンドイッチがきっかけで、トロワの主人である安藤さんに、「うちで働かないか」と誘われ、働きはじめる。

「三度目の商売だから、安藤、トロワ。
アン、ドゥ、トロワ、てね」

小学生の息子のリツくんと父子ふたり暮らし。
オーリィのアパートの大家さんの大屋さん、通称マダム。
オーリィが密かにスクリーン越しに恋している脇役女優のあおいさん。

月舟町に、住みたくなります。

住めないまでも、足繁く通いたくなること、請け合いです。

そして。

あたたかいスープを食べたくなります。

スープといえば、なんのスープでしょうか?

ポタージュ、コンソメ、トマト、ホワイト、コーン……。

わたしにとってのスープといえば、まさに著書にあるように、

「名無しのスープ」

です。

今では姉のみがレシピを受け継いでいる、我が家のスープ。

姉も、名前を知らないそうでした。
教えた母も、「名前なんてないわよ」と云っていた記憶があります。

夜風が涼しくなりはじめるこの頃――。

それぞれの「スープ」で、ほっこりしてみませんか?



2009年09月22日(火) 「白日夢」「クリーン」「サマー・ウォーズ」

ここのところ、ずうっと、甘やかしていました。

自分を。

楽しさだったり、
感動だったり、

それを、ただ与えてもらわんとして求めることだけに執心していたのです。

わかっちゃいるけど、やめられない。

観れば、読めば、それだけで与えてもらえるのですから、それだけでいちゃあ、ならない。

与えるまでゆかずとも、生み出す、作り出す気持ちを、一日でも忘れちゃあ、いけない。

目の見えない脚本家でも、耳の聴こえない歌手でもないのだから。

ということで、連休最終日は、映画のはしごをしようと決めました。

まずは、

「白日夢」

を銀座シネパトスにて。

谷崎ファンは観るべし、との某レビューのひと言に負けました。

とりたててファンというわけではありませんが、嫌いじゃあ、ありません。

その某解説に、

「1981年に挑戦的かつ圧倒するその内容で一大センセーショナルを巻き起こし……伝説の問題作として映画史にその名を刻んだのである」

と書いてあれば、たいがいがわたしの期待はずれと予想がつきつつも、ついつい観てみやう、という気にさせられてしまう。

交番勤務の警察官が、空き巣被害者の女性と出会い、思いを寄せるようになります。
やがて男は妄想(白日夢)と現実が錯綜しはじめ、女の「あの女を殺して」という囁きに支配され、実行してしまいます。
妄想なのか、
現実なのか。

妄想とは違う現実のズレに男は混乱し、そしてとうとう。

本作品のみどころ。

「バベル」で菊池凛子がやった体当たり云々の演技、と似たような、いやそれ以上かもしれない、本作品がデビュー作という西条美咲さんの、その体当たり云々の演技、につきる。

伝説か知りませんが、わたしにとっての「谷崎潤一郎のエロチシズム」とは、濡れ場などではありません。

妄執。
フェチシズム。

そして。

憎めなさ。

それらのようなものたちなのです。

その点でいうと、やはりハズレだったように思います。

さあ、次です。
場所を表参道に移します。

「クリーン」

をシアター・イメージフォーラムにて。

マギー・チャン主演です。
ジャッキーの恋人、メイちゃん(ポリスストーリー香港国際警察シリーズ)です。

木村拓哉出演作品「2046」にも出演しています。

メイが怒って走り出させた原チャリを、ジャッキーが背中のリュックを掴んで思い切り尻餅着かせられていたお茶目なマギーです。

それが、本作品でカンヌの主演女優賞です。

麻薬中毒のロックスター夫婦。
夫のリーが中毒死してしまいます。
それは妻であるエミリーのせいだとされ、元よりリーの両親に預けて育ててもらっているひとり息子のジェイにも、

「ショックがあるうちは、しばらく会わないでやってくれ」

と義父のアルブレヒトから頼まれてしまいます。
エミリー自身も麻薬を断ち切り、仕事に就き、そうしない限りはジェイに会う資格など自分にはない、とそれにうなずきます。

息子に会える自分になるため、更正するため、自分の夢だった歌手の道には戻らず、つまらなくても、頭を下げて回っても、ようやく洋服屋の販売の仕事に就くことになり、ジェイとも会えるように。

それには、義父のあたたかく寛大な愛の計らいがあり、

こんなひと。
ぜったいに、
おらへんっ!

と思いつつも、

ホレてまうやろぉっ!

と叫びたくなります。

「私たち夫婦は年老いて、もうじき死ぬだろう。
そのあと、誰がジェイを守ってやれる?
君はジェイの母親だ」

仕事が決まった矢先、そして、ジェイとつかの間の再会の日に。
施設内で作ったデモテープを聞いたプロデューサーが、エミリーにスタジオで待っている、とオファーをかけてきていた。

ジェイと暮らすためには、自分の夢なんか追ってはいられない。

だけど、それはまさに、最後のチャンス。
それに賭けてみたい。

義父にそれを告げる。

「それでこそ君だ」

と、エミリーの予想に反して、義父は彼女の肩をやさしく包む。

「余裕のあるときに決断するのはたやすい。
しかし、困難なときに決断するのは、勇気がいる。
そしてきっと、息子だったら君と同じ決断をするだろう」

と、背中を叩く。

ホレてまうやろぉっ!

「ただし条件がある。
レコーディングには君ひとりでゆくこと。ジェイは連れて帰る」

うんうん、やはりそうだろうなぁ。

「レコーディングが終わったら、ジェイを迎えにくること。
それから一緒に暮らしてゆく方法を考えよう」

こんなひと、おらん。
こんなひと、ぜったいに。
ぜったいに、おらへんっ。

それはもちろん、麻薬に手を出すほうが根本的に悪いです。

そんな親に子を育てさせることに不安や危険はあります。

まして依存していたという事実があると、更正したとはいえきっとまた、と考えるでしょう。

「リーにいて欲しい。
ひとりだと、ダメになってしまう。
ひとりきりは、いや」

禁断症状に震え、苦しみ、泣きながらエミリーは叫びます。

エミリーを演じるマギー・チャンが、「誰のために」生きようとしているのかという、その移り変わりを、見事に演じてます。

「私、刑事の恋人として見事に振る舞っちゃった」

と、犯人に聞こえる声で話して人質に捕られてしまったおっちょこちょいのメイは、遠い昔話です。

さあ、マイホーム上野に戻ります。

「サマー・ウォーズ」

を上野東急にて。

この歳になってアニメなんてっ。

ひとりなら気にしません。

いや。

この監督作品なら、です。

「時をかける少女」のアニメ化で話題を読んだ、まさに口コミで単館上映からはじまって火がついた名作と名高い監督の作品です。

ものさしで比べたらいけないのは、わかります。

ジブリ、超えてます。

もちろん、対象年齢に違いがあったり、伝えたいことに違いがあったりするのはわかります。

ストイック。

といっていいのかわかりませんが、物語がとにかく、気持ちが良すぎるほどに、ストレートでシンプルで、迷いがなくて、欲張ってなくて。

パンッ。

と顔の前で手を叩かれて、気付くと注射が終わっていて、目の端をわけもわからず涙がこぼれているような。

それは痛みなんかじゃなく、嬉し涙だったりする。

そんな作品です。

起承転結

のお手本です。

いや。

真似なんかできないでしょう。

天にも昇る気持ちで、
地の底にたたき落とされました。

クレジットをよく確かめなかったけれど、ガイナックスが絡んでいるんじゃないか、というキャラデザインのような気がしたけれど。

そんなことは、調味料や調理方法の問題で、素材を造り出す側として、ただただ茫然自失です。

いやきっと、こう言われるでしょう。

「まだ負けてないっ!」



2009年09月21日(月) 「重力ピエロ」とそこにある意味

「重力ピエロ」

をギンレイにて。
なんというのか、東野圭吾原作作品であり、わたしは読んだことがないので、あくまでも本映画作品においてのみ、語ろうと思う。

役者の、特に小日向さんのあの独特な雰囲気こそが、やはり最強である。

遺伝子符号がどうの、犯罪は遺伝するだの、もしもそこを深く掘り下げてゆくような作品だったとしたら、わたしにはすっかり興醒め以外のなにものにもならなかっただろう。

しかし、ぞくりとさせられたことがあった。

レイプ犯の被害者が妊娠し、その子を産もう、と決断させたところである。

原作ではおそらく、激しい葛藤や事件や爪痕が残されているに違いないだろう、と想像するが、それはさておき。

ここで演者の小日向さんである。

彼がその決断させた夫であったからこそ、わたしはなんとか納得させられてしまった。

そして彼のいう、

「俺たちは、最強の家族だ」

という台詞。

梅宮辰夫や渡哲也や哀川翔らがいうよりも、もっと非現実的で、かつさらに現実的な重さを持たせている。

小日向さんでなければ、全否定しているだろう。

思い返してはならない。
それならと、遺伝子配列の計算式だかなんだったか、昔に習ったことを思い返すべきだろう。

うむ。

やったことは覚えているが、中身はさっぱりである。

そもそも、「式」と聞いただけで、解答ページを探してしまう。

「四季」であれば、「Seasons of love」なのは、いうまでもない。

映画版「RENT」のもうひとつのエンディングは、くどいようだが、何度でも、胸を押さえてしまう。

そもそもの、あのメンバーの並び順は何なのか。

マークは皆の記録者、証人として最後までひとりでいる意味から一番はじなのはわかる。
その隣がエンジェルなのも、亡くなりつつも皆をつなぎ合わせた見守る存在として、マークの隣。

その隣がジョアンヌ。
これは完全な素人の推測だが、ソロパートを歌うのが、このジョアンヌとコリンズである。

コリンズは上手(舞台右手)から二人目に立っており、その対角の位置として、エンジェルがいるのでその隣、つまり下手(左側)から三番目になったのだろう。

そのふたりの間を、ミミとロジャーが入る。

ソロが真ん中で並んでやり合っては、視線が真ん中に集まってしまうし、掛け合いになる部分が、互いに強くうまくいきづらいものなのかもしれない。

それにもし、エンジェルとコリンズが並んでいたら、あの感動は生まなかっただろう。

とはいえ、未公開なのだから講釈云々してみても仕方のないことである。

しかしまた、意味がそこにあるから、そうなのである、ということも、忘れてはならない。

わたしも、自分で気づかぬうちに書いていたことで、それにはちゃんと意味があったことに、書き進めたあとで思い知らされることも多々あるのである。

恐るべし「竹」なり。

それをあらかじめわたしに知らせておいてくれると、たいへんありがたいのだが、それは無理な相談らしい。

わたしが知っていたら、きっとそのために余計な手を加えようとするだろう、とのご指摘である。

然り。

余計な企みを持たそうとすると、それを避けさせるべく、そこに至らぬように話を進めてゆくのである。

今回が、まさにそうだった。

あんたが考えたそれを、今ここにそう都合よくいれさせないよ。
それを決めるのはあんたじゃない。
おれだ。

「おれだ」とまでこられると、わたしは引き下がらざるをえないのである。



There is only us.
There is only this.

Forget regret,
or life is yours to miss.

I can't control my destiny.
I trust my soul.

No other path.
No other way.

No day but today!!


明日のために。
信じて、やるしかないのである。



2009年09月20日(日) 「RENT」映画版と舞台版の比較

「RENT」の映画版DVDには、特典としてなかなか面白いものがついている。

監督のコロンバスと主演のふたり、マーク役のアンソニー・ラップとロジャー役のアダム・パスカルが、同時解説をしているというものである。

このシーンは……。
この画面にはトリックがあって……。

などという裏話から、映画版キャストとして「RENT」に初参加となった(監督のコロンバスも含めて)メンバーと舞台でずっとやってきたメンバーとの、それぞれの思いを語ったりしているのである。

それは、特典映像の未公開シーンについてもなされている。

舞台での名シーンが、映画に入っていない等の理由が監督の口から語られているのである。

興味深かったことについてのみ、わたしも触れてみようと思う。

「RENT」の代表曲といえば、

「SEASONS OF LOVE」

である。

この曲は実は、

「物語の流れとは、まったく関係がない曲」

なのである。
早合点してはならない。
「流れ」とは関係がないだけで、「物語」そのものを歌っている重要なテーマ曲なのである。

舞台では、休憩明けの第二幕のイントロに初めてこの曲が歌われる。

「休憩で飲み物を飲んだり、いったん「RENT」の世界から離れた観客をふたたび「RENT」の世界に引き込むために、この曲は歌われる」

「映画には休憩なんかない。だから、作品のすべてのはじまりのところで、観客を「RENT」の世界に引き込むために、イントロにもってきたんだ」

この映画は初っ端に、全身が鳥肌に襲われるほどの衝撃を受けさせる。

予備知識も何もなかったわたしが、現にそうだったのだ。

余談だが、メインキャストがステージに並び、ピンスポットのライトで徐々に照らし出されてはじまるこのシーンは、舞台照明の(セミ)プロである友人が、たいそう感動感心したそうである。

そして「RENT」のもうひとつの代表曲、

「Noday but today」

がある。
ラストシーンに歌われているのだが、その映像の未公開版になったほうのがある。

それは、正直、わたしは単純に、

こっちのほうが、全然いいっ。

と、叫んでしまった。

息ができなくなるほど、うずくまり顔も上げられぬほど、感動させられたのである。

しかし、監督の解説で、うむう、と納得させられてしまったのである。

未公開になったのだから、それに触れてもよいだろう。

公開版では、マークが記録していった仲間たちの愛のあふれる日々のフィルムが流され、一方、その未公開版では、オープニングの「Seasons of love」同様、メインキャストたちがステージに立ち、「Noday but today」を歌い上げるのである。

監督曰わく、

「もしこちらを採用していたら、観客は、「ああ、この人たちは「RENT」という世界を「演じて」いたんだ」と、「RENT」の世界から遠ざかってしまっただろう。だから、そうはしたくなかった」

なるほど。

たしかに見返してみると、一度でわかるほど、納得できてしまう。

感動はとてつもなくでかい。
しかし、映画は舞台ではない。

観客も含めて作品をつくる舞台ならそれがいい。

映画は、観客は観るだけで参加はできない。
参加できないものを作品の世界に引き込み、感動を味わわせ、擬似的に参加したように感じてもらうには、監督のコロンバスの選択は正しかったように思う。

しかし。

未公開版のシーンとして映像をつけてくれたことに、いたく感謝の気持ちでいっぱいである。

作品をつくる、ということで、大切なことを教えられたように思う。

至極当たり前なのだが、すべてを表現すればよいわけではないのである。



2009年09月19日(土) 「ホノカアボーイ」と祭り囃子

「ホノカアボーイ」

をギンレイにて。

ハワイのホノカアという街で暮らすことにしたレオ(岡田将生)と、レオを取り巻く人々とのなんとも癒される日常を描いた物語。

女優陣がものスゴく、わたしの好みに合っていたのである。

まずは蒼井優。
レオの恋人として最初に登場する。

そして倍賞千恵子が、なんとも愛らしい、レオに密かに恋を寄せる女性・ビーさんとしてとして登場し、なんとも素敵な魅力を振りまき続ける。

そのビーさんが楽しみに観ているドラマのヒロインとして、深津絵里がテレビのなか、そして実際にホノカアを訪れに登場する。

そしてレオが世話になる映画館の女主人として、松坂慶子。

これだけの個性派・実力派女優陣が、癒やしてくれる。

なによりも、作品中に出てくる数々の料理が、食欲をそそらせる。

ちらし寿司、ロールキャベツ、ぶり大根、エビフライ、等々。

食卓に手作りの料理が日々並ぶ、並べてみせる女性の素敵さに感動してしまう。

世の夫たちよ、げに幸せなことなるかな、しかと噛み締めよ。

癒されるということは、飢えを同時にもたらす。

帰りにラムラを抜けるとき、気づくとわたしは、

ごませんべいと、
ねぎみそせんべいを、

抱えて出ていた。

もちろん、会計を済ましてである。

よりどりふた袋で六百円弱也。

待ちきれず、片方の袋を開ける。

東京ドームで矢沢永吉が「ROCK "N" ROLL」を叫んでいるその前を、

ぽり、ぼりぼりぼり。

とかじりながら通り抜ける。
そしてラクーアの中庭におり、またまた気づくと、チキンが詰まったパックを手にぶら下げていた。

サンキューパック千円也。

以前、新宿で「南極料理人」を観た帰りは、店が閉まっていた時間だったのでこのような事態は免れたのであったのだが、やんぬるかな。

いい加減とり溜めた「スジナシ」を観ながら、チキンにかぶりつこう。

「RENT」の「la vie boheme」を観ながらではいけない。
ひといきにすべて食べきってしまうに違いないからである。

それは、食べ過ぎである。

今日明日と根津神社の大祭が行われている。

街のあちこちに縁台が設けられ、皆が一席に盛り上がり、その活気がにじみ出てわたしのそれに拍車をかけているに違いない。



2009年09月18日(金) be coverd...

昨夜、「RENT」のDVDをつけて枕に伏したのである。
姉からもらったばかりの「映画版」のほうである。

舞台版とかなりキャストが重なっているとはいえ、そして同じ物語ではあるが、やはり別物である。

舞台版は、舞台という限られた密な空間で観客たちを飲み込んで、想像と創造の「RENT」の世界へ連れて行く。

映画版は、とかく勢いよく、「RENT」の世界を描き出し、観客たちに観せてゆき、そして魅せ、いざなってゆき、気が付くと、あっという間に「RENT」の世界の急流下り、ローラーコースターは発着場に着いてしまっているのである。

オープニングの「RENT」の台本やポスターがアヴェニューに燃え散り舞うシーンや、マークとジョアンヌの友情が芽生える「Tango:Moreen」や、エンジェルが「Today 4 U」でこちらまで肩を揺さぶってしまうほど華麗なスティック捌きとバク宙まで決めてみせるシーンや、地下鉄の「Santa Fe」でコリンズとエンジェルが悠々と歌い踊るシーンなど、場面にしばられない演出が、エンディングまで怒涛の連続である。

正しいのかはわからないが、

映画は「エンターテインメント」であり、
舞台は「芝居」である。

「芝居」の解釈がまた千差万別あり議論のあるところかもしれないが、「俳優」と「役者」の違いと似たようなものである。

また曖昧な比喩かもしれないが、それはわたしの主観に拠るものだから、ほかのひとに伝わらないでも仕方がないのである。

それぞれの良さがあり、それが活かされていればいるほど、共に素晴らしい作品になる。

小説がよいか、
漫画がよいか、
アニメがよいか、
ドラマがよいか。

ひとつに決めつけてほかを悪しと声高に触れ回るのは、少々恥ずかしい行為でもある。

「恥の多い人生を」

とは太宰の「人間失格」のはじめ文句である。

恥を恥と語るだけ、それは恥を知るものであるということである。

舞台も、
映画も、

「RENT」は圧倒的である。

映画で入り口に立ち、
舞台で「RENT」の海に浸かるのもよし。

ハナから舞台に飛び込むもまたよし。

「RENT」はすべてのひとを、思いを受け止め、
必ず、楽しみを、生きる希望を、与えてくれる。

RENT will cover you...



2009年09月17日(木) 「学園のパーシモン」サンタフェ

井上荒野著「学園のパーシモン」

幼稚園から大学まで一貫教育の名門私立校に通う生徒の、青春学園物語。

とはいえ、井上荒野の作品である。

自覚させることのないけだるさのような、どこか芝居がかった世界のような、独特の雰囲気である。

作品の舞台は共学であり名門であり、比べるには違いがあり過ぎるが、わたしも中高大一貫校に高校から加わった。

男子校。

である。

そこはまさに、クサい世界であった。

男クサい。
青クサい。
馬鹿クサい。

申し訳なくなるほど、のどかで、お馬鹿で、のびやかに過ごしていたものである。

先年、それが共学になったと知り、ショックを受けたものである。

あと二十年、遅く生まれていれば、モノクロではなくカラフルな高校生活になっていただろうに。

そうすると、今までに出会ってきたひとたちとも出会っていないことになってしまう。

それははなはだよろしくない。

過去に戻って生きるより、
今を強く生きる力が欲しい。

なびく白雲につかまり、
眉秀でたひとらに助けられ、
明くるかわからぬ、
己が時代の鐘を撞かんとばかりす。

サンタフェにレストランを出そうと思うには、まだ、全てが足りなさ過ぎるのである。

夢や希望も、
諦めも絶望も。

やれることをやりきれるまで、まだまだである。



2009年09月16日(水) 雨に唄う

昨夜、雨にフられて水たまりを踏みつけて渡りながら帰ってみると、郵便受けにずいぶんかさばる封筒が入っていた。

気持ちのせいではなく、カサカサと軽い。

おおっ。

と小さな歓声を上げてしまった。

姉に頼んだ、誕生日の贈り物が届いたのである。

緩衝材のぷちぷちをとめるセロハンテープが、なかなか爪でつまめない。

うむ。
ここは欧米人がそうするように、思うままに、破り開けるのがふさわしかろう。

び、にょーん。

だらしなく伸びてゆき、とうとうわたしはハサミに手を伸ばしてしまった。

シャキシャキ。

無事、産着のように大切そうにくるまれていたそれは、わたしの手にとりあげられたのである。

映画版「RENT」のDVD

である。

我が家のDVDプレイヤーは、今月から猛烈に働かされている。

いや。
働かせている。

それまでほとんど、公益法人の名誉職並みの働きであったのが、まさに政局同様、政権交代によってがらりと働き具合が変わるだろうことと同じ様相である。

ブロードウェイ舞台最終公演版に加え、映画版をぐるぐる回さねばならないのである。

楽しみが増えて、これはしばらくたまらない。



2009年09月14日(月) 条件反射の恐ろしさ

わたしは、アナログな人間である。

デジタルに関しては、下手の横好き、いやトマトのヘタくらいのものであるかもしれない。

3Dで図面を書くソフトを導入するにあたって、その講習を何回かに分けて受講しているのだが。

完全に、使わされているのである。

同じ年頃のシュウゾウ氏は、はや「こりゃ、無理だぁ。使いきれん」と根をあげていた。

激しく同意し、かむりを振る。

3Dといえば、いわゆるイメージ画像を書くためにだけ使う、という印象だった。

外観や内観のイメージをつかみやすくするためのもので、乱暴にいってしまえば、細かい、正確な寸法やらは二の次のもので、とにかく見た目をいかに見栄えよく伝えるか、が重要であったのである。

それが今度は、どうやらずいぶん進化、認知、信頼を得らるるまでになり、図面を書けてしまうようになっているらしい。

いや。

図面を書きながら、立体的な空間をも同時に描いてしまえるようになったらしい。

二次元の面に書いてきたのが、三次元である。

(X,Y)だけだったのが、(X,Y,Z)に増えたのである。

たかが「Z」ひとつ、といえぬほど、これがまた厄介な輩なのである。

無論、わたしたちは二次元の図面の上に、常に三次元の空間を思い描きつつ書いておらねばならぬ。

しかしそれは人間の脳みその巧みなところで、見えぬ線や面で、補い、成り立たせているのである。

しかし、相手は律儀この上なく、とかく義理堅く、頭の固いパソコンである。

「何を尋ね返してきている」
「わかった。わかったが、だからどうして欲しいというのだ」
「えい、自分で考えて適当に書いてくれればよいではないか」

シュウゾウ氏が隣から様子をうかがうように、わたしの画面をのぞいている。

さすが、できてるじゃん。

できているように、見せているだけである。
買い被らないでもらいたいところだが、悪い気はしない。

条件反射で、

「そんなこと、ないですよ」

と愛想笑いを返す。

頭がちんぷんかんぷんのせいで、余裕がなく「条件反射」してしまっているだけなのである。

「条件反射」とは、かくも恐ろしきものである。



2009年09月13日(日) 「走れメロス」にあっぱれ

太宰治著「走れメロス」(新潮文庫)

ダス・ゲマイネ、満願、富嶽百景、女生徒、駆込み訴え、走れメロス、東京八景、帰去来、故郷の九編を収録。

「富嶽百景」の、

富士には月見草がよく似合う――。

という名文句。
先の豊川悦司が太宰治に扮したテレビドラマでみかけてから、頭に残響していたのである。

駄目さ加減もここまでくると、愛しさすら覚えはじめてしまうのかもしれない。

そんなところが、後半の東京八景、帰去来、故郷にふんだんに感じられるのである。

恐るべし太宰治、である。

さて、彼の正確な性格や心情をわたしがうかがい知ることなぞできるはずもないが、表題作の「走れメロス」に込められたものを、わたしなりに感じたところをのべてみたい。

同作は、教科書にも載せられる有名作である。

人間の信頼と友情の美しさを物語るものである。

もしわたしが太宰なら、これはおおいなる皮肉を込めた茶番劇に、素晴らしき道徳をお仕着せたものとして、書き出した作品である、といえよう。

あっぱれ。

である。

異論ある方は、今一度、立ち読みでも構わないので、本作を読み返してもらいたい。

ことのすべては、メロスが勝手に種を蒔き、親友を巻き込み、涙の幕を下ろしているだけの話なのである。

メロスが勝手に事情も知らぬ親友を人質に出し、己の勝手な信条を証明しようとしなければ、なにもことはなくすんだのである。

つまり、己の信ずることを他人に知らしめるがために、無関係の他人の命を無許可に勝手に引き合いに出して、ああ俺はなんて正しいのだろう、と悦に入る、という物語なのである。

メロスのような輩は、わたしは絶交するであろう。

なんて自分本位な。
他人を巻き込むな。

太宰にとって、己の力のみではまともに暮らせない、という思いがあったのだろう。



わたしは自分本位で、はなはだわたしを助けてくれる方々に迷惑をかけてまわり、感謝こそすれ恩を仇で返すようなことばかりしてきました。

駄目な男なのです。

駄目とわかっていても、けっきょく皆さんなしでは生きてはゆけず、生きてゆくために皆さんとの繋がりである絆の形を、このような形でしか表せないのです。

これらの仇なすと見られる一連の行為は、恩を返すために繋がっていたいと、つねづね思っているからなのです。

しかし、またわたしは、皆さんの前から逃げ出そう、とすることでしょう。

逃げ出しても、いつかは飼い犬が野良を夢見て家を出て、うまくゆかずにひもじそうな顔をしてしばらくして家に帰ってくるようにして、皆さんの恩情にすがろうとすることでしょう。

こうすることが、わたしなりの恩返しのひとつなのです。



といったところのように思えるのである。

そういった意味で、「走れメロス」は、太宰治そのものの作品であるようにわたしには思えるのである。

たとえば。

わたしがもし、三日間のうちに二百五十枚の小説を書けなければ、友人の利き手の指を全てへし折ってくれ。

と勝手に約束し、わけもわからず拘束されて、今か今かもう駄目だ、というときにわたしが原稿片手にほうほうの体で現れ、わたしは約束を守ったぞ、と誇らしげにうたったら、どうであろう?

そんな物語である。



2009年09月12日(土) 篠原美也子独唱「いずれ散りゆく花ならば」

さて。

すっかり「RENT」熱にヤラれているが、忘れてはならない。

篠原美也子
レコーディングライブ
「いずれ散りゆく花ならば」

今回、座席指定。
チケットは「RENT」を観にいったその日に手配しました。

「RENT」のブレークスルー・チケットにはずれ続けたその理由が、今日、わかったような気がしました。

こっちがブレークスルー・シート。

Thank you,
Jonathan Larson!

最前列のド真ん中。

目の前に、篠原美也子の、

足が躍る!

弾き語りなものだから、ピアノが、でん、と据えられて、そこで篠原さんが歌っているわけです。

惚れ直しました。

アルバム未収録曲だけ、という構成に、素直に、また、いつぞやのライブで聴いた感覚を思い出しつつ、聴き惚れました。

かっこ、いいっ。

表現する者として、やはり、凛と輝きを放っているのです。

「らしさ」も忘れてません。

マシンガン・トークも健在(笑)

編集なし。
すべて録って出し。

このライブのありのままが、ライブ終了後に即、販売されるのです。

……はいっ。
ここまでで収録分は終わりっ。

篠原さんのひと声がかかり、あとは、

「ロスタイム、一時間」

の、スペシャル・ライブ。

「Place」「Stand and Fight」「逆光」「誰のようでもなく」、そして……

「ひとり」

までも。

二メートル先の凛々しき眩しき世界。

眩しさと、
強さに、

目がくらみ、
立ちくらみ、

夢うつつです。

いや。

夢。

のなかです。

ひと晩寝て目がさめるのを待たなければ、言葉がなにも浮かびません。



2009年09月08日(火) 難儀なけいきの問題

今朝。

ホームで山手線を待っていたのである。
ご存知の通り、緑色の車体である。正確には銀色に緑色のラインなのだが、とおりよく緑色の車体ということにしておこう。

すると、アンドロメダを目指す銀河鉄道のような車両が、入ってきたのである。

まっ茶色のそれは、「meiji」と控えめだが目に入るところに、ちらほらと書かれてあった。

そして、

「山手線命名百周年」

と、掲げ書いてある。

ほう、百周年、と目をしばたかせながら乗り込む。

中はチョコレートの宣伝でいっぱいであった。

チョコレートは、好きである。
目覚めによいと知り、さらに好感をあげた。

チョコレート色でいっぱいの山手線に揺られているうち、甘菓子が食いたくなってきたのである。

チョコレートのロールケーキなどどこかに売っていなかったか、とひと思案してみたが、違うロールケーキが思い浮かんだのである。

たしか品川駅構内の、「なんたら」という店で、
「新幹線ロール」だか、
「品川ロール」だか、

新幹線の箱に、まるまる一本ロールケーキが入っている、というのが売っていたように思う。

帰りにのぞいてみよう、と思ったまま、思い出したのは帰りの緑色の山手線に揺られているときであったのである。

ケーキの話がでたついでに、もうひとつ。

すっかり栗の季節である。

モンブラン・ケーキが、わたしは好物なのだが、少々難儀な問題に行き当たり、閉口してしまい、そうまさに閉口してしまい、しばらく口にしていないのである。

モンブラン・ケーキといえば、わたしにとって、ベースはスポンジでなければならない。

ムネムネウニッとしたてっぺんから、フォークをそっと、底まで割き下ろす。

底がメレンゲなどになっていては、

サクッ、

もしくは、

パリッ、

となってしまい、やわらかなモンブランが異質のものになってしまったかのように、もの悲しい気持ちになるのである。

モンブラン・ケーキを食おう、と意を決して店に入っていみても、たいがいの店のモンブラン・ケーキは、メレンゲなのである。

たまに入り口脇のケーキケースに陳列保存されているのを、食い入るように見たとて、外からは知る由もない。

「モンブラン・ケーキの土台は、スポンジですか」

と、いちいち訊いてから席に着く、またはそもそもの入り口で扉を開けた時点で尋ね、爪先を内に向けるか翻すかを決めるのも、できない。

そうなると、いざきてみて、フォークの先から、

サクッ、

もしくは、

パリッ、

と聞こえてきてしまったら、取り返しがつかないのである。

無論、何事もないかのように、鮮やかではないまでも、フォークを繰ってその小片を次々と口に放り込んでゆくのだが、ほろ苦さを噛みしめていることをご推察願たいところなのである。

何が本格的、本来のものなのかは知らないが、

どんなに上等な蕎麦を出す蕎麦屋でも、頼んだ時間に待たせることなく届かないのであれば、わたしは決してその蕎麦屋で頼まない。
そのせいで昼飯がなくなるのならば、それでも構わないのである。
構わないのだが、腹が減るのは困るので、困らないために、安くても時間にきちんと届けてくれる蕎麦屋が近くにあるかどうか、甚だ気になるのである。

という内田百ケン先生に倣い、わたしはしばらくモンブラン・ケーキを口にしていないのである。

大層、難儀、な問題である。



2009年09月07日(月) 「童貞放浪記」そよ風に飛ぶ

小谷野敦著「童貞放浪記」

たしかどこかの誌面で、今年映画化される、と書いてあったのである。

ようく、覚えておけばよかった、と思わされてしまった。

ひとが触れない身近なリアルを描いている。
だから、重みがあるのだ。

おや、ゆりかもめの羽根が揺らいだ気がするが、風でも吹いたか。
いや、気のせいだろう。
おやおや、文庫が飛んでいってしまったようだ。

物語ではなく、本自体が放浪にでかけたようである。

失敬。
どうにもムシの居所がよくないようである。

おお、かゆいかゆい。

それはタムシではないかっ。
(一同、拍手喝采)

女性には申し訳ないが、言わせていただこう。

童貞とは、もっと重たく、しかし足が地に着いてないような不安定であり、だから必死なようであり、しかし浪漫的であり、青臭く、汗臭く、なんとも愛しささえも抱かさせられる存在のようなものなのである。

それが「放浪」とまで表題されていたのだから、さぞ愛しげな物語であろう、とあさはかにもよく吟味もせず、手にしてしまったのであった。

ページを繰るのがもどかしく、はやくはやくと耐え急く己自身の姿が、滑稽に思えた。

森見登美彦氏の文体に似た観も若干あったので、そのように思い込もうと我が妄想力を駆使してみたが、やはり、無理であった。

mucho masturbation!

さらりと次にゆきたいと思うのである。



2009年09月06日(日) 「凍りついた香り」と気づいた事

小川洋子著「凍りついた香り」

愛し合い、とても満たされたふたりであったはずが、調香師だった彼……弘之の突然の死を機に、涼子は弘之の真実である過去を知らされていなかったことを知る。

彼が残した、いくつかの「香りを求めるためのキーワード」をもとに、涼子が知らなかった過去の彼をたずねてゆく。

小川洋子作品の、この静イツな世界は、何人も侵すことができないくらいに、そこにある。

ここまで読んできて、その世界を表す端的なものを、ようやく気づくことができた。

じつはもの凄く、基本的かつ初歩的であり、扱いを間違えるとそれは小学生の日記に成り下がってしまいかねない、そんなものだった。

「風景や時間を鋭利な刃物で切り取った窓からそれを見聞きしているよう」

との印象をかねてから持っていた。

なぜ、その時点で気づかなかったのだろう。

もちろん、世界観や人物像におけるそれはある。

インタビューやエッセイ記事らを見たときの違和感にも、答えがあったというのに。

「謎は解けたよ、ワトソンくん」

ベーカリー街でマフィアにメチルアルコールをかけたのとバトルロイヤルミルクティーを手に、得意満面にうなずきたいくらいである。

正しくは、

べーカー街でマフィンにメイプルシロップをかけたのとロイヤルミルクティーを手に……

だが、その取り合わせが正しいのかどうかは保証しかねる。

さて。

心が静まり返っている。

大事な約束がある日に、目が覚めたら昼を回ってしまっていたときによく似ている。

神田川を聖橋から見下ろしながら、そう、思った。

有象無象のことごとくが、何ひとつ頭に浮かばない。

すべてにふたをして、ご丁寧に蜜蝋でぴったりと封印されてしまったかのようでもある。

果たしてこれは、いったい誰が打ち込むのだろう?

性懲りもなく、またこの問題にぶつかっている。

携帯でポチポチチチ、とやっているひとつを、すっかりその気になって、ノートに書いているのをずっと書いてゆくがままにして、それも打ち込んでいるつもりになっていた。

しかも、そう思う要因に気づいてしまった。

ずいぶんとキャラがかぶってきている。
どれも似た人物ばかりを書いてきたように見えるかもしれないが、それでも、別人物だという境界線はあった。

間にやはり、しばしおいているやつを再開し、それを挟んだほうがよいように思う。

いつのどの締切にどれを出すのかを踏まえて、だが……どのみちひとつは年末に決まっている。

似てきたふたつは、まあ、内容的に春あたりのが相応しいかもしれない。

きちんとまとまれば、の話ではあるのだが。



2009年09月05日(土) 「ミルク」とYUIとAngelに

「ミルク」

をギンレイにて。

ミルクといっても、牧歌的酪農物語ではない。

1970年代のアメリカで、自らが同性愛者であることを公表し、初の公職に就いた男の物語である。

ショーン・ペン主演。
主演が誰であろうと関係ない。

この作品。

とにかく、観て損はない。

マイノリティと言われる立場の者、それに対する差別や迫害、不公平や排斥、なにも同性愛に限ったものではなく、それらを

「間違ったもの」

として扱われることに対して、個の力の無力さを、コミュニティーの心強さを、考えさせられる。

「立ち上がるには、「カムアウト」すべきだ」

ミルクはそう言って、皆を立ち上がらせる。

「カムアウト」するということは、両刃の剣である。

それは、

「闘う」ことと、
「逃げる」ことと、

である。

そして、

「力になる」ことと、
「依存する」ことは、

違うのである。

「逃げる」ことと「依存する」ことが明らかなとき、「カムアウト」することは考えたほうがよいと、思うのである。

マイノリティの「カムアウト」に限ったことではなく、男女においても同様である。

シェルターは必要である。
しかしシェルターは、あくまでシェルターである。

それを永住の地としてはならないのである。



さて。

すっかり「RENT」漬けの毎日である。

それはいかん、とiPodのプレイリストを全曲にし、シャッフルで再生してみたことがあるのだが。

そう。
誕生日の日の帰り道であった。

「YUI」がしばらく流れ、なかなかよい調子になってきた、と思ったとき、

「HAPPY BIRTHDAY TO YOU,YOU」

が流れはじめたのである。

切なくなり、即座に、「RENT」の「Seasons of love」に変えたのであった。

これだけ聴いていると、スコアが欲しくなってくる。

はやまってはならない。

わたしは音痴の類いであり、口パク専門である。

音程は楽器に正しく出してもらうに限るのである。
しかし、ギターなどというハイカラな、若者の熱病に駆られたこともなく、今さらうなされるのもどうかという心境である。

今わたしの身近にある楽器といえば四、五年前のスーパーよさこいで手に入れた「鳴子」くらいである。

うむ……。

「Today 4 U」の、Angelのドラムスティックの真似事くらいなら、できるかもしれぬ。

チャッ、チャッ、チャッ……。

うむ。
音程は関係ないからよいのだが、甚だ無礼なことをやっている気持ちになってくる。

双方に、である。

今夜はしっかり、猛省しよう。



2009年09月03日(木) passed birth

今日からとうとう、年齢が四捨五入の「五入」に入ってしまいました。

これからは「切り捨て」で年齢を扱うことにします……。



あたたかいメッセージをくださった皆様。

本当にありがとうございました。
m(_ _)m

コンビニで買ったケーキにローソクを立て、

「Woud you like my candle〜♪」
「Oh,well,good-night...」
(Light my candle「RENT」より)

ひとりミミ&ロジャーをやらなくてすみました(汗)

せまられて、どうしようもなくて、「おやすみ」とミミを追い返そうとするロジャーは、ナイスです。

さて。

今夜はこのノリのままゆきます(笑)

大森のイ氏のとこに行きました。

ちゃんと、時間ギリギリを見計らって。

「いやぁ、涼しくなってきたから、だいぶ調子よくなってきたよ」

ずいぶん、朗らかです。

わたしは太宰なぞ読んでみましたよ、という話に、

「晩年のころの太宰は、肩肘張ってないからね。かまうもんか、これが俺だ、て感じでしょ」

そんな話から、三島由紀夫が太宰治にわざわざ、

「俺はあんたなんか……」

と宣誓しに行った話だとか、

「似た者同士だから、それを認めたくなかったんでしょう」

とうなずきあったり。

ダンテの「神曲」は読んでみるものかと訊いてみると、

「読めない読めない」

と、世界観宗教観の違いの話になり、聖書とコーランと回教と仏教と密教とヒンズー教と神話の世界の話になり(汗)

収拾がつかなくなりました……笑

大盛り、てんこ盛りです。

そんなすべてに。

Thanks,
my company...



2009年09月01日(火) アキータ、エビータ

なにやら不思議な光景です。

オードリー・ヘプバーン主演の「マイ・フェア・レディ」で、場面転換したあとのはじめのカット……エキストラらがフレーム外からゆっくり歩いて入ってきて各々の立ち位置でピタリと止まってゆき、全員が揃ってからキューが入って場面が動き出す……のように、ピタリと止まったまま、なかなかキューが入らない状態なのです。

「うっせいっ。とっとと失せちまいやがれってんだよおぅっ」

ひどい訛りと言葉遣いを、どうにか人前に出せるよう矯正しなければいけないようです。

「へっ。やれるものならやってみやがれ、おとといきやぁがれっ」

まゆをしかめるくらいしかできません。

これはこれは、なんともやりがいがありすぎるくらいある仕事だ。
できるものなら、一生、縁など持ちたくはなかったがね。
しかしやむをえまい。
よしっ。

と、花をカゴごと買い上げてみせる言語学の教授先生がいるわけではありません。

秋田犬がキャンキャン吠えまくり、中庭に放り投げられる寸前です。

あ。
動き出した。

宙空を脚をじたばたさせて舞う秋田犬を抱きとめます。

千ドル。
惜しいことをしたかもしれません。

iPodで「RENT」のサントラを延々聞き続けています。

シャッフルせず曲順に。

パブロフの秋田犬状態です。

今さらだけど、ギンレイに上映リクエストを出してみようかしら、とか思っています。

ギンレイのメンバーにレントヘッズがいてくれたなら。

DVDは手配済みです。

今まで、我が家のDVDプレーヤー(再生のみ!)は、篠原さんのライヴくらいしか再生したことがありませんでした。

っと。
停電、充電池切れ。
まただ。

動き出したものを追いかけると、すぐに充電池が切れてしまいます。

窓の外から電気を引っ張ってきます。

そして復活。

しかしカメラのバッテリー切れ。予備はなし。
写真で伝えようか。

秋田犬が尾を振って叫んでいます。

ちぎれんばかりに。

ちぎれてパグのようになってしまう前に、追いかけてやらなければなりません。


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