「隙 間」

2008年08月30日(土) 世界を書くことと「だりや荘」

 芝大門のドクのとこに行きました。
 わたしの「海と毒薬」を読んじゃいました、という話に、

「なんか気持ち悪かったでしょ」

 わたしの「気持ち悪かった」の意味をわかっているのか、

「宗教とか信仰の世界を持ち込んだって、わかんないんだって」

 そう、そうなんです。
 その世界観を自分の主観として感応できるものなのかどうか、なんですよねぇ。

「そう「蛇とピアス」だって、女性の肉体を傷つける痛みと性感応を重ね合わせてみたって、男にはそんなのわからないよ」

 そういうところ、だったんすねぇ、てか、読んだんすか、「蛇とピアス」?

「男は谷崎の「刺青」のほうが理解できるよ」

 わかります。そうですよねぇ。
 谷崎はさすがですよねぇ。

 その世界のひとにしかわからない価値観や世界観を表層的なことで訴えるんじゃなくて、深層は深層のまま、表層のホントの水面の上澄みだけでその水面下は行間で表すというか、そんな感じの……わかります?

「わかる。わかるよ、言いたいこと」

 とまあ、そんなところでいつもは話が終わるのだけれど。
 なんだかまだ何かを話したそうにしてます。机に身を乗り出してわたしの話が終わってもそのままの姿勢……汗

 えーと。
 何かありましたっけ?

「こないだ映画観に行ったんだよ」

 あれまあ、なんて嬉しそうなお顔だこと(笑)
 で、何を観たんです?

「「落語女」をね、まあぁあれは……」

 原作も読んだそうですが、落語の世界をわからずに書いていて、薄っぺらい、だけど、物語の進め方とかは、

「すごくうまい」

 だそうです。

 とりあげている噺にリアリティがないらしく、辞書辞典インターネットで集めただけの知識で書いたようにしか思えないそうです。

 この噺はこの噺家だからこそ活きる、ということをわかっていないで、ただ噺の内容だとか表面的なものだけで選んでいるようにしかみえない。

 ということです。

 ……落語は、生で聞いて観てナンボ、ですね(汗)

 そして……。

 井上荒野著「だりや荘」

 次の荒野作品は、ちょいと時間をおいてからと思っていたのだけれど……。

 目が合って、離れてくれませんでした(汗)

 妹夫婦と姉の、三つ巴の互いにそうとわかった上での嘘を受け止め、そして流してゆき続ける。

 姉と夫の関係を知りつつ、知らぬふりをする妹。
 知られていることを知っている姉。
 姉と自分の関係を妻が知っていることを知っている夫。

 三人はすべてを胸の内に秘め、あえてなにごともなく穏やかな日常を送り続ける。

 ひとつペンション「だりや荘」のオーナーとして……。

 小川洋子さんの世界と似ているかもしれない……。
 もう少し違うけれど。

 嫌いじゃあない、です。

 素直じゃないねぇ(笑)



2008年08月28日(木) 「海と毒薬」と毒と独白

 遠藤周作著「海と毒薬」

「うわぁ、ちゃ、ちゃ、ちゃ……。読んじゃったの?」

 ドクが顔をしかめる姿が思い浮かびます(汗)

 以前、

「なにか濃ゆくて重ったるぅい作品ありませんか?」

 と、ドクに訊いてみたときに、

「こんなのあるけど、お薦めはしないなぁ」

 と言っていた作品でした。

 ……頷けます。

 戦時中に行われた、米軍捕虜の生体解剖、の物語です。
史実です。
 裁判にもなってます。
 関係者に対する批判というつもりで書かれたものではない、そうです。

 グロくは書かれてません。
 なにせ主題は別ですから。

 縛りつけ、そして同時に自由を与える存在としての、都合のよい「神」という宗教的な存在のない日本人の、倫理的思考の葛藤。

「神」によって悪とされることをしてしまったら、「神」によって罰せられる。

 日本人て、たぶんそんなんと違うよね?

「悪いこと」は、皆が悪いと感じること思うこと、それをしたら皆から罰せられる。

 に近い感覚……じゃないかしらん?

 赤信号、みんなで渡れば怖くない。

「悪いこと」と「罰せられること」は、微妙に違うところがあるけれど。

 生体解剖に助手として携わった医学生が、

「怖いのは、殺したことなんかじゃない。殺したことに、何にも感じないことだ……」

 彼は呵責を求める。
 だけれども、それを「悪」と認識するものがないなかに、彼を責め苛ませるものなどあるはずがなかった。

 戦争とは、相手を殺すこと。

 そこには、ありとあらゆる、

「正義」と
「悪」と
「罪」と
「罰」と

「夢」と
「理想」と
「現実」が、

 ある。

 ひとつの存在がすべてを定め、それにただ疑いも選びもせず従うだけなら、なんて簡単で、楽で、幸せで、固くて脆くて、わたしはきっと、そのうち胃の辺りがムズムズしてきて、カァーッ、ペッ、としたくなることだろう……。

 あれもこれもそれもどれも、ぜんぶひっくるめて、そのなかから自分で選んで、つまずいて、転んで、痛い目に会って、怪我をして、誰かに傷の手当てなんかされちゃったりなんかしちゃったりして、起き上がってまたすぐ、つまずいてコケちゃったりなんかして……を繰り返してゆきたいじゃん?

 今は流されるがままを選んでて説得力ないけれど(汗)

 せめていつか、誰かに何かを言うときに、知らぬ誰かのではなく、「自分」の言葉として、言いたい。

 ……いつ、誰に、かはわからんけど(汗)



2008年08月25日(月) だって、ひとだもの

「へえっ、知りませんでした!」

 そう言われて、

「仕方ないなぁ、じつは……」

 と、それは気持ちよく話をさせるためのあいづちじゃないのかしらん、と考えてしまったりしつつ(汗)

「お守りをたくさん、まとめて持つと神様同士がケンカするからよくないって言いますよね」

 という話がでたときでした。

 神様同士がケンカするだなんて、日本の神様はほとんどないって(笑)
 だって日本なんて、あたりを見回したら至るところに神様だらけじゃん?

「そっすね、七福神だって七人が一緒っすもんね」

 いや、まあ、それはそのぅ純粋な日本の神様か、っつうと微妙、なんだけどねぇ。
 大黒様なんて語呂合わせで「合体!」してるし……笑

「詳しいっすねぇ!」

 いや、まあ、たまたま、ね(汗)

 ……そりゃあ、ネタのために色々、挫折して全部読めずにいるけど古事記や日本書紀かじったりしたし、出雲行って建国神話やら出雲の話やら耳にしてきたし。

 それで「知りませぇん」じゃ、ただの阿呆やん(汗)

 と。

 そうそう。
 神様同士のケンカ。
 一部の神様の間では、あるそうです……。

 神様もひとなんやねぇ。

 だらしなかったり、スケベだったり、根に持ったり、騙されたり、単純だったり。

「あいつを拝むんやったら、うちとこには来んといてやっ!」
「へんっ。こっちこそっ!」

 もとはひと、を祭神にしてりゃあ、そんなこともあらぁね(笑)

「あ、でも、コイツ以外はオッケイだぜっ!」

 てなところがあって、そんなとここそが、神様らしくて、わたしは好きだったりします……笑

 てか……。

 因幡の白うさぎ

 の話くらい、今どきのひとたちは知らないのだろうか……?唖然



2008年08月24日(日) 祭り囃しと江戸の華?

 窓の外から鳴り響いてくる祭り囃しと神輿の掛け声。

 で目を覚ましました。
 昨日今日と、

 諏方神社大祭

 です。

 そうだった。
 神輿のルートはうちのすぐそこ。

 ふんがっ……。

 祭り囃しが遠ざかってゆくなか、かろうじてテレビのリモコンをつかみ、外界の音を取り入れて……。

 今のは子ども神輿で、まだ本神輿が午後からあるはず。

 と頭の中で予定表をめくり……。

 ひと落ち。

 本神輿に、間に合いました。
 と言っても町内神輿なので、こぢんまりとはしてましたが。
 そして谷中銀座へ向かい、山車と神輿を待ちつつ軽い昼食。

「谷中メンチ」をサトウさんで買い、向かいにえらい行列がこさえられてるのを、「なんの行列です?」と。

「ああ、トートバッグをただでくれるっつんで並んでんだよ。何だかわかんないで並んでるひともたくさんいるんだよ」
「そうなんすかぁ」

 と店のおばちゃんとわかれて、歩きながら、はむはむ、と。

 次いで、「惣菜いちふじ」さん……野菜コロッケ30円のお薦め店……で、メンチカツをもう一枚。

 サトウさんは肉たっぷり肉汁メイン。いちふじさんは、肉と玉ねぎのジューシーなハーモニーの肉汁が……。

 わたしは「いちふじ」さんが、イチ押しです。

「元気メンチ」の「肉のスズキ」さんはお休みだったので食せませんでした……。

 わたしの「谷中メンチカツ・ツアー」が未完に終わってしまったのが、少々残念です。

 さあ、山車と神輿が谷中銀座に入ってきました。

 うおっ。
 メッチャ、興奮状態!
 鼻から血がっ!
 取っ組み合ってるっ!

 火事と喧嘩は江戸の華!

 ……ちゃうちゃう(汗)

 取り押さえるひとに高手小手に羽交い締めにされるも、それでも冷めやらぬ。

 それでも神輿は止まらずにゆくしかない。

 神輿の後ろについているお巡りさんがようやくそれに気づき、まあまあ、と。

 いや、ちょっとした小競り合いですから。

 と、仲間がとりなして事なきをえて(汗)

 というところで背後から、ジャジーな音楽が流れはじめました。

「夕焼けだんだん」特設ステージで、芸大OBらのジャズセッションがはじまりました。

 雨が降り出したあいにくの天気のなか、それでもスゴいオーディエンスの数。

「夕焼けだんだん」がそのまま観客席になって、ひとの段々になってました。
 やはり「Fly me to the moon」は、いい曲です。
 ボーカルなしの、グレンミラー交響楽団バージョン。
 ボーカルありとなると、アニメのエヴァンゲリオンのエンディングで歌われていた記憶があるかもしれませんが……。

 わたしは、

 ナタリー・コール

 が、一番印象にあるのです。

「ルート66」でも有名な「ナット・キング・コール」の娘さんですが、透き通った声。その声に乗せて、まさに月まで連れていって、と(汗)

 別格なのが、

「ビリー・ホリデイ」

 ですが……。

 そんな個人の趣味はおいといて(笑)

 ライブが終わり、「夕焼けだんだん」をのぼると、そこはもう、魅惑の世界の入口。

 フランクフルトにお好み焼きを諏方神社の境内までをぐるっと回って吟味した上で買って食べ、フランクフルトのマスタードが目にしみたのは、そう、ただ辛かっただけだと……。

 上を向いて、歩こう♪

 セッションの終盤でソプラノボーカルが参加して歌った曲。

 今更だけれど、いい曲ですねぇ……。



2008年08月23日(土) 「ダージリン急行」と山本文緒インタビュー

「ダージリン急行」

 をギンレイにて。
 父親の死以来絶交状態だった三兄弟が、インドをダージリン急行に乗ってスピリチュアルなトラベルをして、ハートをウォーミングに、そしてコミカルにハッピーに向かって、ゴーイングしてゆく。

「戦場のピアニスト」で主役を演じたエイドリアン・ブロディが、次男のピーターを演じていたのだけれど、やはりあの困り顔が、頭に焼き付いて離れない……。
 女性はきっと、彼のあまぁい困ったちゃん顔に、グッときてしまうんでしょうね……。

 内容的には、「〜(忘れてしまった汗)に続く道」の方が、同じ設定でも三人姉弟それぞれの個性がはっきりしていて、ドラマがあってよかった気がする。

 今朝、「王様のブランチ」のブックコーナーで作家山本文緒さんのインタビューを観た。

 六年ぶりの作品ということで、その間に何があったのか……。

 鬱と闘っていたらしい。
 その辛さ大変さは、なんとなく、しかわからないのだから置いといて、インタビューの中で、

「友達と約束しても、その時間に行けるか、自分でもわからないんです。大人なのに子供みたいなんですけれど」

 また、こうも言っていた。

「どんなに周りが助けて、支えてくれていても、やるのは自分しかいないんです」

 そう。

 助けがあると助けられたがってしまう。
 支えがあると支えられたがってしまう。

 そんな自分がたまらなく、不快。

 だったりしてしまう……。



2008年08月22日(金) 「潤一」

 井上荒野著「潤一」

 今回の直木賞受賞作家さんの作品です。

 比べちゃあ、いけないのだろうし、完全にひいき目なのはわかっているのだけれど……。

 川上弘美さんの「ニシノユキヒコの〜」の方が、好きです。

 まあ、そんな内容です。

「潤一」なる男と関わった女性たちの、彼女らと潤一の連作短編集。

 ニシノユキヒコと潤一が違うのは、ニシノユキヒコは常にとらえどころがなく、そしてふわふわとやわらかく、あまくてさらりとしている存在のまま、とうとう最後までそのままのフシギな存在であり続ける。

 潤一は、違う。

 彼自身が自分のとらえどころのなさに不安と安心を抱えている存在として、最後に描かれてしまっている。

 なんか残念……。

 まあ、好みの問題だけれど……汗



2008年08月20日(水) 生まれいづるわたしの子

 わたしのあの子の予定日が、ひと月も、ズレ込むとのことでした。

 代理母出産とでもいいましょうか、人様の手に委ねているいじょう、何も言えることなどありません……。

 ただ……。

 ただきっと、元気で健康な子として生まれてきてくれることを祈るばかりです。

 あなたが生まれ落ちるその前に、わたしはひとつ、歳をとります。
 なんだかそれが、逆によかったような気がします。

 あなが生まれてすぐに、わたしが歳をとってしまったら、一歳ぶん損をしたような気持ちになるでしょう?

 つまらないことを、と笑うかもしれないけれど、わたしにとってそれは、とても大きな、大切なこと。

 きっといつか、わかってくれる……。

 見上げる月がいつか満たされてゆくように、わたしはその姿を追いかけ、待ち続ける。

 あなたの上に、星が降りますように……。
 わたしとの道を、わずかな光でも、照らしてくれますように……。


 ……ということで。

 うちの子、わたし原作のWEBドラマの配信予定日が一ヶ月ずれました。

 十月から

 になります。

「番組改変時期に合わせて」

 だそうです。

 テレビ番組とどう関係があるのかしらん?汗

「残暑見舞いにこじつけてコマーシャル作戦」

 とか企んでたのに……笑



2008年08月19日(火) 「セイジ」と太宰治

 辻内智貴著「セイジ」

 太宰賞作家さんです。
 その肩書きのせいか、なるほど、やはり太宰賞作家の作品だ、と思わされてしまうような世界でした。

 他の太宰賞作家さんの作品を読んだことがありませんが(汗)

 さらにこの作品は受賞作品ではありません。

 だけれども、哀惜を湛えた登場人物と、その人物が背負ったドラマが、乾いた絶望のなかに束の間の温もりを与えてくれるのです。

 そう。

「束の間の」だからこそ、温もりなんです。

 慣れてしまえば、きっとここも寒くなる……。

 篠原さんの「ここはなんてあたたかくて」の一節。

 一晩寝れば昨日のことさえ忘れてしまうわたしに、慣れるなんてことがあるのかしらん?汗

 ふらふらと、同じ組織に長くは就いてない時点で、慣れるなんてことはないのだけれど……笑



2008年08月17日(日) エゴと強さと小さく無限の未来と、教え教わり学ぶ

 ドキュメンタリー番組の、乳児院の日常を取材したものを観た。

 乳児院……。
 育児放棄された、主に一歳未満の乳児を養育する施設。

 暴行を受けて若すぎる母親となり、やむなく預ける場合もある。

 乳児院に入所していた子どもは、その後、親や親族に引き取られたり、養子縁組で里親に引き取られるが、そうできない場合は児童養護施設へと移ることになる。

 預けた後、やはりどうしても引き取れない親もいる。
 面会にすらこなくなる親も、いる。

 子どものために、と里親に出すことを選ぼうとしても、引き取ることもしない(できないのかもしれないが)のに、里子に出すことを拒む親が多いのだという。

 つまり、宙ぶらりんのままで、直接的な愛情を受ける機会を取り上げられたまま、過ごさなくてはならない。

 言い分も、わからなくは、ない……。

 里子に出すということは、我が子ではなくなってしまう、ということだとも言えるのだから。

 施設の院長が言っていた。

「親権は本来、“子どものためにある子どものもの”であるはずなのに、いつからか“親のためのもの”になってしまっている」

 きれいごと、をほざいてみる。

 誰のことを、一番大切に考えてあげるべきなのだろうか。
 そのための強さを……物理的、経済的、に限ったものではなく、こころの強さを持たなければ、単なるエゴにしか過ぎないのだ。

 と……。

 話は変わり。

 人に何かを教えること。
 何かを人から教わること。
 そして、学ぶ、ということ。

 この三つは、考えてみるとなかなか難しい。

 最初は右も左もわからぬところから教わりはじめる。
 右や左がわかるようになり、そして自分が右に行きたいのか左に行きたいのかを判断できるようになる。
 右に行くとどうなって、左だとどうなるのか。
 右に行くにはどうすればよくて、左ならどうすればよいのか。

 それを導いたり、左右だけではない選択肢を気づかせるのが「教える」ということ。

 教える者は、教わる者が右に行きたいのか左に行きたいのか、それともそれらとも違う方へ行きたいのかを、お互いが理解し合える「共通言語」をもって会話をしなければならない。

「ここは右に行きます」
「(理由はわからんが)右ですね。わかりました」

 では、会話ではない。

 右と言われたとき、

 ああなるほど、そういう理由で右なのか。

 と理解したときに、初めてそれは会話として成立したことになる。

 会話をするためには、教わる者は学ばねばならない。
 会話するために必要な「共通言語」を。

 共通言語が見当たらない、わからないのであれば、そのことも含めて「会話」しようと試みなければならない。
 そうしてみて、やっと「もしかしたらこのことを言ってるのかも」と教える者が「共通言語」や右か左かを導こうとしてくれるようになれる。

 それをせずに、「教えようとしてくれない」と不満をこぼすのは、もし、自分がもう一歩先に進みたいと思っているのなら、間違いだろう。

 欲しいものを言わずに、ただ「欲しいからください」と言っても、いったい何をあげればいいのかわからず、見当違いなものをあげることしかできないし、それが誤りを導くかもしれないと思ったときは、何もあげることすらできなくなる。

「何がわからないかがわかってないのじゃない?」

 会話できていなさそうなとき、そう聞いてみることにしている。

 同じように、

「何がわからないかがわかってません」

 と、逆に打ち明けるようにもしている。

 ただし、その「何が」が何なのかをなるべく掴むようにしてからだが。

 試験問題の過去問回答を丸暗記だけして試験に落ちて、なぜ落ちたのかわからない、と。
 テキストひっくり返して勉強して、実際の「会話」にふれて、そうしなくては受かるはずがない。

「教えてくれていないのだから、わかるはずがない」

 何も言わずとも簡単に答えを他人からもらうのが当たり前のことだと勘違いしている風潮が、目に付く。

 腹が立つ。

 そして、ときに自分もそのうちの一人になっていることがあるのにも、ムカつく。

 だって人間だもの。

 だなんて言葉は、いらない。

 教える者。
 教わる者。
 学ぶ者。

 三者は一者。

 であるべきなのだろうことを、忘れてはならない。



2008年08月16日(土) 「袋小路の男」と、盆・ボヤージュ

 絲山秋子著「袋小路の男」

 自分がまさに「袋小路の男」な気がしました(汗)

 もとい、なんだかイト山作品に心惹かれそうです。

 うーん……。

 川上弘美作品をとんこつラーメンとするならば、絲山作品は濃厚な塩ラーメン。

 ……わかるかしらん?汗

 ああ……。
 こうして袋小路に戻ってゆく(笑)

 戻ってきました。

 神保町三省堂書店!

 手に入らないものなど何もないショッピングセンターよりも、勝手が分かる百円ショップ。

 百円ショップて規模じゃあないだろ。

 同じ品、同じ値段でも、知ってる店じゃなきゃ買いたくない。

 そんなB型のわたしです。

 津田沼にも、ひとつの駅周辺になんでこんなに本屋があるの? というくらい本屋があります。

 が、やっぱりここ(三省堂)が落ち着くぅ……。
 ポイントカードもあるし。

 やっぱり「袋小路の男」かも……汗

 そしてお茶の水のマイスペース。
 隣席の、たぶん日大の建築学科の学生が、

「モダニズムがっ……」
「美術館や博物館は、神殿だったんだ……」

 云々、と熱い議論を交わしてます。

 建築って、思想であり哲学。

 なんだねぇ……汗

 頭の中でネタの再整理が行われていて、ごった煮状態です。
 きっともうしばらくしたら、いい出汁と風味が出てくれるものと期待してます。

 ぐつぐつ煮立つ鍋は、火加減だけに気をつけてそっとしておくにかぎります。
 やたらと引っ掻き回しては、ダメになります(汗)

 昨日、かれこれもう十四、五年の付き合いになるチバリーのメンバーで集まりました。

 それだけ年月が経っていれば、当然、いつまでも同じままでいられるはずがなく。

 はずがなく……。

 まさか、ここまで保育園状態になるだなんて、当時は想像もしてなかった(笑)

 男の子が増えると、やはり、賑やかさのスケールがハンパない。
 そして、今まで「ちびちゃんたち」とひと呼びしてしまっていた姫たちが、立派な「お姉ちゃん」になっているのを目の当たりにして、そんなふたりの両親がまたすごく思えて……汗

 そんな大したことしてないって。

 と、きっとサラリとそれぞれが言うのだろうと……。

 あんたら、みんな、大したことだって!
 スゲエって!
 みんな、花まるだって!

 と勝手に拍手喝采感嘆万歳(笑)

 集まりにお宅を貸してくれたみさっちゃんと旦那様、ありがとう!
 陸くんもあの騒ぎの中でスヤスヤ寝ているなんて、大物の予感だね。
 海くんも、プール遊びでじょーくんに負けじとパンツを脱いで真っ裸になるだなんて、オトコだねぇ。

 akdとうしゃぎさんも、車に同乗させてくれてありがとう!
 じょーくんの成長っぷりにも驚かされたけど、あの心遣い(?)のセリフ、
「(今日は)うららちゃんがいい!」
 には、もはや「遺伝子」の強い匂いを感じたよ。
 うしゃぎさん、モテ男の道を、じょーくんはもう確実に歩んでるよ!笑

 かなたとてんちゃんも、ふたりのお姉ちゃんっぷりにただただ驚かされたよ。
 じょーくん海くんのエネルギーに呑まれてたところに、
「ねえねえ……」
 とわたしに救いの手(?)を差し出してくれたりと、あのやさしさと機転。
 ホントに、いい姫たちだ……涙
 帰りも送ってくれてありがとう!

 次回にまた皆で会えるときが、とても楽しみだね。

 ……まっちゃんたちは心配ないだろうから。

 あとひとりっ!

 気後れせずに、次回は来られるよう頑張ろうっ。

 一緒に、姫たちに慰めてもらおうぜいっ(笑)



2008年08月15日(金) 「象の背中」と宣告としたい事

 秋元康著「象の背中」

 肺ガンで余命半年と宣告されたバリバリのサラリーマンが、自分の人生の終わりをどう受け止め……受け入れようとするか。

 妻、息子、娘、そして、恋人。
 彼らに何をしてあげてこれたのか。

 いや。

 何をしてあげてきた「つもり」になっていて、残された限られた時間のなかで、本当に「伝えて」おきたいことは何なのか。

 非の打ちどころがない家庭を持ちつつ、彼は恋人、つまりは愛人を持ち、その彼女との付き合いも長く続いていた。

 不倫

 浮気

 女性に非難されるかもしれないが、わからなくはない、気がするところがある。

 夫として、父として、そうであらねばならない。

 と男はどこか格好をつけたがるところがある。
 自分で格好をつけているくせに、それを窮屈に思ってしまうことも。

 格好をつけなくてもいい相手、時間が欲しい。

 もしくは、その逆。

 そしてまた、これは男女を逆にしても言い得ることかもしれない。

 だから、と、それを容認するわけではない。

 いや。

 愛や恋を、わたしが理解していないだけなのかもしれない。

 ひとりの人生の終わりが見えて……見せられてしまったとき、それが自分のであろうが大切なひとのであろうが、何ができ、何をすべきなのだろうか。

 この作品の主人公は、妻に愛人のことを告白し、また会わせてしまう。

 かっこ悪い俺、なんだ。

 と。
 大学生の息子に白状するところまでは、許せた。

 俺の葬式に彼女が来られるようにしてやりたい。

 彼女の人生の何年間をついやさせてしまったその決別を、彼女自身にはっきりとつけるための何かを残させてやりたい。

 わからなくもないが、勝手、だ。
 自己満足、だ。

 浮気、不倫をする男女は、つまるところが自己満足を素直な形で消化できないだけなのではないだろうか。

 ……そんなことをできる立場になったことがないので、あくまでも当て推量だが。

 もとい。

 この作品は、なかなかお勧めの作品です。

 余命半年。
 何をする?

 そもそも、

 宣告されたい?
 されたくない?

 わたしは宣告されたいし、されたからといって特別なことをしようとはしないと思う。

 いつまでにこれを書き上げなくてはいけないのか、ただそれだけは知りたい……。



2008年08月13日(水) 「ニート」と「地上5 センチの恋心」

 イト山秋子著「ニート」

 今までなんとなく気にはなるけれど読み損ねていました。

 映画化されている「イッツ・オンリー・トーク」「逃亡くそたわけ」の作品名を聞いたことがある方もいるかもしれません。

 なんでしょう……。

 そう。
 こういうのも、やっぱりアリなのね、と。

 サラリと読みやすく、独特の世界観というか、それはまだこれ一作品と映画の「イッツ・オンリー・トーク」だけだけれど、見えない何かが作品に力を与えているというか、左右させるものとして存在していて、それがテーマというか世界のような感じを与えているのです。

 うーん。
 名前だけしか登場しない人物だったり、過去だったり、事象だったり、が、作品の肝だったりする。
 という感じ。

 さて。

「地上5センチの恋心」

 をギンレイにて。

 新作を「買ってしまったのなら、読まずにすぐゴミ箱へ」と酷評された小説家と彼の大ファンである主婦の物語。

「僕は空っぽだ」
「当然よ。与えてばかりなのだから」

 ……。
 与えるものなどないのに空っぽなわたしのように思えて、上映後にへこみかけていたところに……。
 飯田橋ラムラの広場でライブが行われており、まだ若い女性シンガーが伸びやかに、楽しげに歌っていた。

 自分の歌を、愛しく思わない、歌わない歌手はいない。

 世界中の誰もが否定しようと、自分だけは、違う。
 そうであるべき。

 自己満足で終わらぬように己を叱咤する必要はあるが、否定するのは、違う。

 いいじゃない。
 合っていようがいまいが、そうだと思うならそのスタイルでも。

 信じるのはまず自分しかいないのだから。

 ……二番煎じかと疑心暗鬼になりかける自分に言い聞かせてみる(汗)



2008年08月11日(月) 「なぎさの媚薬〜」と愛しいこと

 重松清著「なぎさの媚薬5 霧の中のエリカ」

 脱力……です。
 どうして、こんなにも胸をエグるのでしょうか、重松作品は……。

「なぎさ」シリーズの五作品目。
 どうしようもない絶望や寂しさを抱いた者、さらに「なぎさ」自身に選ばれた者、だけが、取り返したい、過ちを正したい、過去に戻りやり直すことができる。

 ただし……。

 ただしそれは自分自身についてのことでは決してなく。

 家がお隣同士の幼なじみの少女エリカ。
 彼女が誰にも言えない酷い傷を負っていたことを知らずに、ただ「見ざる言わざる聞かざる」でいた少年。
 彼女を救いたい。
 と思う前に、荒れすさんでゆく表面上の彼女の姿に怖じ気て何もせず、何も言えずにいた彼。
 やがて彼女が多数の男に暴行を受けた後にガソリンで全身を焼かれた無残な姿が発見されたことを知らされた彼、高校三年になっていた少年は、「なぎさ」と出会い、少女の誰にも言えるはずのない、全ての、彼女に襲いかかった悲劇を見せつけられる。

 あなたの現実は何も変わらない。
 だけど、彼女を救ってあげられるかもしれないのは、あなただけ……。

 少年は、彼女が傷つくことを防ぐことはできなかった。
 だけど、彼女を救うことは、できた……のかもしれない。

 ……。

 ものすごく、微妙な、不確かな感覚なものだけれど……。

「セックスはとても寂しくて悲しいもの。互いが、からだのたった一部分でしか、ひとつになれないのだから」

 少年が少女を救おうと彼女を抱きしめた後に、なぎさが彼にかけた言葉。

 もう学校になど普通なら行けるはずもないのに、制止する親を振り切ってそれでも行こうとした少女の手を取り、幼い頃のように強く手を握ったとき……。
 からだの一部分がひとつになるより、ずっと、互いがひとつになれている気がした……。

 という感覚。

 きれい事の、偽善、だということは、重々わかっている。
 男であって、女であって、そうである限りはきれい事だけで済むはずもない。

 だけど。

 からだで、ではなく。
 こころで、ひとつになれる感覚を、ときには思い出すこと。もしくは感じること。

 それが、とても愛しいこと、なのだと思う。

 ひとつ、思い出してみませんか?



2008年08月09日(土) 「I'm sorry 〜」と「読書会」

 桐野夏生著「I'm sorry,mama.」

 母親も父親も誰なのか知らず、置屋(非公認の)で育てられたアイ子。
 嘘、盗み、殺人を何の抵抗もなく、むしろ生きるための当然のこと、と繰り返してゆく……。

 彼女にとっての人生の消しゴム。

 それは、自分を知る者を殺すこと。
 そうして自分の痕跡を消し去ること。

 新しいノートを買ってもらえないアイ子は、消しゴムでキレイに消さないと新しく書くことができなかった。
 消しゴムで消すと、新しく書くことができる。

 決して同情されるわけでもなく、淡々と彼女の物語を書いてゆく。

 ……もっとドロリとしたものを期待してたのだけれど。

 ヘドロが溜まりに溜まった、工場排水もそのまま流れ込む排水路のようなどぶ川の表面が、どんなに醜い色がついていても、スーッと、水なのだから流れてゆく……。

 そんな感じ?汗

 今日は三省堂にてぐいんと重松さんの最新刊を購入し、血液型別自分の説明書(?)シリーズをじっくりと立ち読み(笑)

 まずはもちろん自分の「B型」から。

 全ページがチェックリストになっていつつ、なかなか面白い。

 そうそう、わかるわかる。
 お、あてはまるっ。
 そう言われると……そうだなぁ(笑)

 勢いで「AB型」も読んでみました。
 なぜって、周りに比較的多いから……。

 結果、ようわかりませんでした。

 自分の血液型だからこそ、の共感や面白さなのでしょう。

 そして、

「ジェイン・オースティンの読書会」

 をギンレイにて。
 読書会といわれても馴染みがないのでなんとも言い難い印象だったが、皆でそれまでに作品を読んで、その感想をちょっとだけ深く話し合う、それだけのこと。

 作品に感じた印象やメッセージを話し合って、それを通して互いの内面をも感じ合うことができる。

 まって、その解釈は違うんじゃない?

 読みとり方は十人十色。

 好きなひとには、自分の好きなものをわかってもらいたい。
 できれば共有したい。

 SF大好きな男が好きな女性に勧められて恋愛小説を読みはじめ、男もSF小説を彼女に勧める。
 だけれども彼女はまったく彼が貸してくれた本を読もうとはしない。

 ……似たようなことに身に覚えが。

「B型自分の説明書」より
□勧めたり勧められたりするが、自分は自分である。

 ……チェック。

 とはいいつつ(笑)
 好きなものを好きと感じてくれたり共有してくれると、嬉しいものです。

「B型自分の説明書」より
□自分がきっかけのクセに、相手が自分より熱を上げてくると冷めはじめることがある。

 ……チェック(汗)



2008年08月05日(火) マリリンと貪る

 昼食とネタ書きを済ませた帰り道、パラパラ雨に折り畳み傘をさしていました。

 歩道にある地下鉄の換気口、細目のグレーチング蓋の上を何気なく通ったら……。

 びゅぅっバッサァっ

 わたしの頭上にモンローが出現。

 パサパサパサ……

 はためく裾。

 ドゥビ、ドゥワァ♪

 見とれて……いや、見入ってしまいました。

 はい。
 折り畳み傘の骨、折れてました。

 ハァッピ、バァス、デェイ〜♪
 ミスター、プレジ、デェイン〜♪
 ハァッピ、バァス〜……

 いつもの百円ショップで買った折り畳み傘ならよかったのですが、傘屋のセールで買ったものでした。

 悔しいです。

 せめて大雨の強風で折れたのなら、まだ涙を呑めますが、見えない地面の下の地下鉄の風でだなんて、涙すら出ません。

 そもそも折り畳み傘ひとつでは、涙なんか出やしませんが。

 ……。

 貪るように何かを喰いたい、です。

 夏痩せの前兆でしょうか……?



2008年08月03日(日) 「みぞれ」と、息をするように、「ラスト、コーション」

 重松清著「みぞれ」

 息をするように「お話」を書きたい――。

 あとがきにあった重松さんの言葉。

 世間話の延長にある「お話」で、知り合いにこんなやつがいてさ、と語られる日常と地続きな世界。
 しっかりと作り込まれた虚構の世界を語ることに読み手としては惹かれる、が、やっぱり書き手としては、日常と地続きな世界に強く惹かれている。

 読み手が小説に求めるもの、それは「自分の日常にはない、非日常」であることが多い。
 非日常が、まさにあり得ない非日常の世界で描かれるか、日常の世界で描かれるか、そこの違いがある。

 目の前でドラマチックな出来事と出くわすこと自体が非日常でもあるのかもしれないが、そのこと自体が日常の世界に近づきつつある世の中になってきている。

 テレビや新聞での出来事が、あまりにも身近な出来事になってきている。

 しかし、重松さんの世界はそんな世界でもなく、誰しもが「あるよなあ」と、自分の記憶を、思い出を掘り起こしながら、自分だっ「たら」、ああして「れば」という、選ばなかった扉の向こうにあったかもしれない世界や思いを、覗かせてくれる。

 わたしも、息をするように「お話」を書いてゆきたい。

 たまに呼吸困難に陥るかもしれないが……。

 ひとが健康を求めて酸素カプセルに入るように、わたしは小説を読み、書いてゆこうと思う。

 そして、

「ラスト、コーション」

 をギンレイにて。
 ……言葉がありません。

 決して悪い意味ではなく、それじゃあ良い意味なのかといえば、何がどれだけ良かったのか、言い表せません。

 ハードな作品。

 とだけ、言っておきます。
 表現方法だとかの、上っ面が、ではありません。
 目に見えない、耳に聞こえない、観終えたとき、胸の奥にいつの間にか密やかに嵩んでいっていたものが、

 です。

 日本占領下の上海。
 親日派の高官を暗殺するために、女を利用して近づき、そして愛人となることに成功します。
 あとはお決まりの、という物語になるのですが……。

 そう。

「濃い」のです。
「濃密」なのです。

 スクリーンの向こうの世界が、本能的にこちらより「濃い」と感じさせられるのです。

 こんな感覚は、今までにほとんどありません。

 漢題は、

「色戒」

 です。
 夫婦、恋人同士、それになろうとしているひとたち、に、敢えて勧めようとは思いませんが、素晴らしい作品、ではあると思います。

 このような「濃さ」を描くには、どうすればよいのでしょうか。
 じっくりと、考えます。



2008年08月02日(土) KAT-TUNと悲劇とオフ・モード

 オフ・モード。

 だけれども、自分の中で歯車が噛み合わないでいる状態。
 噛み合わない歯車の隙間を、「とりあえず食欲で満たして埋めてみよう」と、 神保町「徳萬殿」へ。

 山盛りの茄子炒めと山盛りの白飯を、久しぶりのこの量を食べきれるかしらん? という不安をよそに、淡々と平らげてました。

 それでもまだ、噛み合いません。

 出かけに見かけた近所の写真屋に貼ってあったポスターで知った展覧会に行くことにしました。
 今日が最終日ということだったので。

 文京シビックセンターにて、

 原爆の図展

 画家の丸木夫妻による展覧会です。
 数点の絵と、被爆者による絵日記のようなもので当時の体験が描かれていました。

 描かれているものを、
 そのまま、
 受け取る、

 ことにしました。

「夕凪の街 桜の国」のDVDが上映されてました。
 田中麗奈さん主演作品。
 静かな、メッセージ性のある作品です。
 悲恋だけじゃあない。

 電動カートで

「観に行けなくて、残念だったんですよ」

 係のひとにそう感謝を述べて去っていったお爺さんの姿が、一番、心に残ってます。

 隙間はまだまだ埋まりません。

 と、東京ドームで、KAT-TUNのライブ

「QUEEN OF PIRATES」

 が催されてました。
 女子達の若さのエネルギーに当てさせられて、それで埋めてみようと。

 嵐、関ジャニのときと比べて、気持ち落ち着いてる雰囲気に思えたのは、わたしの気のせいでしょうか。

 半クラッチのままは、ギヤを傷めるだけです。

 重松さんの新刊を手に入れたことだし、スロー・スターターに行きましょうか……。



2008年08月01日(金) 「闇の子供たち」と、命の選択

 梁石日(ヤン・ソギル)著「闇の子供たち」

 タイを舞台に、幼児売買春、密臓器売買問題を描く物語。
著者のことを「血と骨」という作品(映画化)で聞いたことがあるひともいるかもしれない。

 この作品も今夏、宮崎あおいさん主演で映画公開されます。

 タイの福祉センターで働く日本人女性・音羽恵子。
 宮崎あおいさんだとわかっていても、なぜか、個人的に小西真奈美さんのイメージ……。

 とにかく、全体を通して「歯痒い」何かがつきまといました。

 思想と現実。
 理想と現実。
 希望と現実。

 冷蔵庫やテレビの値段で十歳にも満たない子どもが親によって売られ、児童性愛者の玩具となるべく監禁され、ときにはホルモン剤や麻薬を用いられて要求に応えさせられる。
 エイズに感染したら、伝染だけでなく、それ以上に「感染者がいる」という風評を怖れて、ゴミ袋にまだ生あるうちでも詰めてゴミ投棄場に捨てられてしまう。

 買売春させられている子供は、人ではなく「玩具」であり「物」であり、生きたまま臓器移植の提供者として、臓器を摘出され、売られてしまう。

 臓器移植を受けなければ助からない。
 しかし、提供の順番を正規に待っていたら間に合わず、我が子の命が失われてしまう。
 正規のルートではないとわかっていても、自らが移植臓器の手配をするわけではない。
 しかるべき病院で、しかるべき医師の手で、しかるべき手術を受けるだけなのだ。

 それによって我が子の命が助かる。

「あなたの子どもが助かるために、性のなんたるかもわからないうちから性の玩具として扱われてきた子どもたちのひとりが、意味もわからないままその命を奪われてゆくんです」

 日本人の移植手術を待つ子をもつ母親に、直に乗り込んで説得しようと詰め寄る。



 あなたは、どうする?



 今のわたしは、

 どちらでも、ある。
 ずるい、のだろう。

 我が子がいるわけでもない。
 我が子でなくとも、大切なひとでもいい。が、それもいるわけではない。

 自らが移植を要するならば……。

 きれいごとを語り、そして窮したとき。

「くれるってんなら、出どころなんてわからなくていい。金で生きられるなら、頼むっ」

 と、足掻きだすだろう。

 まあわたしの場合は、えてして足掻くのが遅く、既に手遅れなのが常なのだが……。


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